オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

店仕舞

2017-08-31 | Weblog

8/31(木) 今日で八月が終わる。未だ雨が降っていた11時過ぎ、HPの打ち合わせにKAWASHIMAさん来社。Kさんは、研修ビジネスの社長で、サラリーマン時代からのお付き合い。かつ、仲間内で作っている「八丈島会」の幹事である。

NOBORUとの打ち合わせは三十分たらずで終わる。打ち合わせ終わりましたの声で、打ち合わ室に入った。最近のビジネス動向など伺ったのち、午後の予定を訊くと、事務所に戻るのみとのことだった。それじゃビールでも飲んでランチにしましょうと、早い時間ながら外出した。

この時間帯にゆっくりと話をしながら、ビールを飲める店は一つ。と、「うまし」に向かった。以前にKさんが来たおりにも「うまし」だった。我らが入った時点では客の姿はなかった。奥に在るテーブル席でゆっくりと食事&酒精を味わうことができた。昼間からビールにハイボール、海鮮丼、冷しゃぶ、冷奴等つつきながら仕事&遊びについて拝聴した。

今日のテーマ、店仕舞は前述の話ではない。「うまし」の社長が「ロリオ、今日で店仕舞だそうですね」と云った。ローカーボの店仕舞いはカウントダウン中だが、今日でお仕舞とは聞いてない。もう一度聞き直すと「ロリオ」と応えた。寝耳に水だったが『高齢のお母さんがいるので、その世話に専念かな?』と応じた。

喫茶ロリオは、毎日のようにYOSHIOと行く。「何時ものセット」をと注文し、一人前のランチを二人で分け、コーヒーを一つ追加する。俺たちのオアシスなのだ。Kさんとのランチタイム後、YOSHIOに電話をいれて事の次第を伝え、合流することにした。

「ロリオ」に行くと、ママさんが入り口で常連客に店仕舞を伝えていた。それにしても突然だった。一昨日の昼すぎ、店に行くと「午後三時に閉めます」の張り紙が。未だ二時半だったが店は閉まっていた。

突然の店仕舞いに驚き、お世話になったと礼を云う。YOSHIOとFUJIKURAが来て、ロリオ最後のランチタイムを過ごした。

                         

ローカーボといい、そしてロリオと馴染の店が消えていく。事情はそれぞれだが、ロリオの店主夫妻も自社ビルだから暮らしの心配はないだろうが・・・。

もう一人消えていく?人とがいた。「ちょっぷく」でランチタイムの洗い物をしているオバサンが今日で上がり、在所の米沢に帰るのだ。其々の事情を抱え、一つずつ灯りが消えるように姿が見えなくなる。

それもこれも運命と云うやつだろうが・・・・。元気なのは小さな水槽のメダカだけだが、こいつらもいずれ消えて行く。そして、私も。

                             

 

 

 

 

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ローカーボな夜毎

2017-08-30 | Weblog

8/30(水) 昨夜も「ローカーボ」に立ち寄った。七時前、HOYA兄いが本を取に来社。黒川博行の「破門」(直木賞受賞)が面白かったと言うので、このシリーズの文庫本の在庫を渡した。俺とYOSHIOは、この本の主人公、二宮と桑原のセリフを真似てランチ&ティータイムに遊ぶくらいに面白い。何も考えない、考える必要もないのがいい。

で、兄いに本を渡して一緒に社を後にした。さて何処に行くのか、するのか?迷ったが、暫く顔を出してない「高松」を最初の店にした。店は大繁盛ぶりで、二人掛けの小さな席だけが空いていた。夏らしい清涼感タップリの「金魚ソーダ」を飲りながら、出された松の実・カマボコを頂く。注文した、豆腐明太焼きをたいらげて店を後にした。

二軒目は「ローカーボ」だ。店仕舞いのカウントダウンが始まっているので、人形町に居るときはこの店に顔を出すことにしている。ハイボールを飲みながら、たった四年だったという店の歴史を辿る。

                             

今夜も、箱一杯のCDの中から数枚を選び、頂戴した。

ローカーボを後にして、「セイジュ」の扉を押すと、珍しく奥のボックス席が満杯の様子。カラオケの声が響いていたので「カウンターが空いてますよ」の声をやり過ごして「ちょっぷく」へ。

ここも繁盛して大入りの客が。入り口のベンチ席に腰を下ろして、白ワインを頂く。隣に、以前顔を合わせた男が一人。笑顔で頭を下げてきた。前にどんな会話したか思い出せない・・・・。初見のHOYA兄いが、あれこれ聞いている・・・・。漸く思い出した、印刷会社の営業マンだったことを。名刺を貰っているが名前までは浮かばない・・・・まっいいか!

ワイガヤと飲んでいる内に、営業マンも連れて「セイジュ」に戻ることになった。東京出張の折に、こんな店もあるから使ってやれよ。そんな意味合いを含めてだが・・・。「ちょっぷく」の安酒を飲んでるようじゃ?かな?。

奥の席の客はまだまだ盛り上がっている。席を立つ様子もないし、下手な歌を唄いっぱなしだ。ママさんがこっちにも唄えと、転送機を寄こした。営業マンに一言『俺たちは、演歌縛りだからな』と、注文だけは忘れない。奥のグループのがなり唄が煩い、止めちゃうぜ!。と、唄ってる途中の曲を止めたが、クレームはこなかった。

そんなことで、夜明けブルースならぬ酔っ払いのブルースとなって帰宅した。カバンの取ってのネジが緩んで外れた。緩んでるのはオイラの脳味噌だけじゃなかったよ

  ―閑話休題ー

土日の熱暑で、ベランダの胡瓜が枯れた。この暑さの中で二日間も水遣りをしていない、命尽きるも無理もない。一方、脇卓に載せた小さなボウルの中で「メダカ」達はすくすくと育っている。

                      

         

総勢、十と三匹のはずだが、元気だ。1ミリにも満たなかった小っちゃいのが、1~2センチにまでなり、色もくっきりとヒメダカになっている。毎朝、指先で餌を擦り潰して与え、氷を二三個いれてやると、氷の周りに寄ってくる。花とオジサンならぬ、メダカとオジサンの微笑ましいシーンを、たのしんでいる

 

 

 

 

 

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復帰・・・

2017-08-29 | Weblog

8/29(火) BLOGを開くのは凡そ一週間ぶりとなるか。この間、特に記すべきこともなく過ぎたと云えよう。週末、郷里の母校の先輩、かつ元校長だったTさんが上京した。所属する書道の会の理事会や展覧会があり、毎年この時期に上京する。宿泊するのは、専ら同級生であった奈加野の店主の処である。

同じ郷里の後輩と云う微妙な立場ゆえ、声が掛かれば顔をだすのが礼儀。と云う次第で、先週末も両先輩に合流したが、勘定だけはしっかりブったくられた。挙句に土曜日の平和島ボートレースにも同行となった次第。暑くて参ったが、勝負の方はそこそこであったのは幸いだった。

勝負と云えば、競馬狂のYMAちゃん店長が「競馬ヤメタ!」とわめいていたが・・・・。ここのところ幸運の女神から見放されたままのようだ。ヤメタヤメタと言ってるうちは止めれない。そんなものさ・・・。下の絵は先週金曜日のものだが、この夜もYAMAちゃんは負け、オイラは珍しく二勝だったが・・・。

                       

レースの締め切り時間が近づくと、『早くしろよ…後一分だ』とか言って騒ぎ、間に合わなくて悔しがり、レースが終わって「買えなくて良かった」となるのだが・・・。地方競馬もスマホでネット購入する便利な時代、タブレットで映像を見ながら遊べるのだが、仕事の邪魔であるのは間違いないようだ。

 

さて、昨晩は七時半過ぎに会社を出た。営業日数も残り少ない「ローカーボ」に顔をだすと、なんとそこに佐賀のNAKAMURA大将が、隣にHOYA兄い、その先には…常連の面々が揃い踏みしていた。

NAKAさんは五月下旬の深夜、転倒して入院、手術、再手術と厄介な目にあった。今月初旬から実家の佐賀に帰って静養していたのだ。土産に祐徳稲荷(佐賀の稲荷神社で名高い)名物の糸きり羊羹を頂いた。毎回、上京の旅にチョットした手土産をみんなに持参してくれる。

「入院してから仕事のことは忘れようと、まかせっきりにしてきたけど、心配することはなかったですよ。みながよくやってくれてました。」と、しみじみと話した。そんなことや、募集しても従業員が集まらない人手不足を聞きながら、酒場の刻は進む・・・・・。

                  

引っ越しで荷物を整理中のマスターから、CDを数枚頂いて帰宅した。「ローカーボ」はビルを売却したので、一月以内にマスターも転居するはずだ。マスターが店を始めてから四年だと云うが、もっと前からあったような気がする。この店が始まる前のことは、昨日ように覚えている。

暑かったかな、ビルの前を通りかかると内装工事をしていた。工事業者とマスターが、店前で段取りの話をしていた。『今度は何の店になるの?』と訊いいた。「スタンディングのBARにするんですよ」とのこと。『じゃ、寄らしてもらうよ』と応じて、二三日後にオープンした店に顔をだすようになった。

最初は椅子はなく、まさに立ち飲みだった。ハイボールは300円。これが滅法旨かった。疲れると言う客に応えて、不揃いな椅子が並ぶようになり、消費税のアップとともに、ハイボールは400円になったが、変わらずに美味い!。マスター曰く「自分が酒のみだから、旨いのを飲みたくて・・・」とのことだ。ウイスキーの量と冷え具合、これに尽きるようだ。

フラリと寄って、美味いハイボール二・三杯飲って帰る。千円札の一・二枚で済まそうと思えば済む。そんな店、というより停車場の待合室のような店がなくなる。ローカーボ難民が出るじゃないかと、心配の声がする・・・・・・。

 

 

 

 

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長かったようで・・・・②

2017-08-23 | Weblog

8/23(水) 昨夜は早くに帰宅した。その訳は後で記す。先ずは、高知の弥次喜多道中三人組の動向から・・・・。

日曜日の朝、朝食の準備を始めたのは七時前であったか。朝飯の準備前に、神様と仏様に日課の水とお茶を供える。

老母用にカボチャと茄子を煮る。こうしておけば、不在しても飢えることはなかろう。加えて、食材を用意していた挽肉でハンバーグを作る。更に、タイカレーまで作り置いた。妹に電話をし『菜があるから、喰ってくれ』と、伝える。

三人用の味噌汁を用意する。味噌汁は、盛りを過ぎたながらも沢山取れる畑の茄子。これをFに採ってきて貰い、茗荷とリュウキュウを具にする。

ウルメイワシを焼き、サラダと海苔、冷奴で朝飯となる。先ずは腹ごしらえだが、オイラは大量のハンバーグ&タイカレーまで作り疲れてしまった。

この日は、安芸市内に在る岩崎弥太郎の生家跡を見物し、高知市内へと向かう。日曜市を散策し、お城の天守から市内を一望してから「ひろめ市場」で昼食。そこから、月の名所と歌われた「桂浜&竜馬像」を見る。そして、YOSHIOの最大の関心事「よさこい競馬」を開催中の、高知競馬場に向かうのだ。この日の帰宅は七時半と想定した。

九時過ぎに実家を後にし、安芸市内まで二十分走る。国道から山の手に入る道を二キロほどで岩崎弥太郎の生家跡が保存されている。NHKの大河ドラマ「竜馬伝」のお蔭で、周囲や駐車場が整備されている。時間が早いので、観光客やガイドの姿もなかったが屋敷内に入って勝手に見学する。蔵があり立派な佇まいだが、海運で成功した後に建ったものだ。

安芸の見所は、他には城跡、武家屋敷跡、野良時計などだが省略して話だけで終える。安芸市街を抜けて高知市内に向かう。途中の坂を上りきると、矢流と云う古戦場跡がる。ここで安芸国虎と長宗我部勢が闘い、安芸氏は負ける。我が一族は、国虎の家老だったそうで、その末裔と謂われる。なんて真偽不明なことを話したが、誰も覚えちゃねえだろう・・・・。

矢流から暫く行くと、琴が浜という景勝を望む処がある。駐車場と展望所があり、車を停めた。高知の道路端名物のアイスクリンを齧りながら、海・砂浜・松林の織りなす景観を楽しむ。ここは何時見ても、奇麗だ。今日もメチャ暑くなってきた・・・。東京に雹?雷雨?なんて、遠い他所の世界のことだった。

                             

そして、手結港の跳ね橋、ヤッシーパークなどを車中から案内し、一路、市内へと走る。順調な行程であった。日本三大がっかり名所とも云われる「はりまや橋」交差点を案内しながら曲り、大手筋の「日曜市」へ。城下から一キロに渡って、毎日曜ごとに市が立つ。それを見物しながら、お城方向へと歩く。

真夏の所為か、露店数が少ないようだ。ここの露店は、すべて近在の農家や商店が店を並べる。と云うことは、同じようなものが沢山ある。私は、鮎捌き用に、小出刃のような包丁を買うことにした。実家には数種の包丁が何丁もあるが、自宅に手頃な小魚を捌くのがないのだ。土佐打ち刃物として、土佐では有名だが、江戸ではその名声を聞かない?

刃物屋も十軒ほどでているが、銘が違うし値段も違う。それこそ、ピンキリだが、こっちはど素人だ。結局、値段の安いものを選ぶとは・・・、貧乏人らしくていいか。小包丁を二丁贖った。

暑さに負けた所為ではないが、U老とオイラは城に上がらずランチ予定の「ひろめ市場」で待つことにした。F&Yは汗を拭き拭き、お城に向かう。オレラは、ひろめ市場という、飯や飲み処が所狭しと櫛比する中に入り、座る場所を探すが、中ほどは観光客で大混雑。入り口近くに在る狭いスペースをみつけ、先ずは生ビールだ。此処からの車の運転はFと云うことになっているのだ。

串カツと、老が騒いでいた土佐和牛ステーキがあったのでそれを頼む。生ビールから、ハイボールへと進む。店外は灼熱、中はよく冷えたビールに摘みと天国。

ひろ市場は、どこの店で買ったものであろうが、何処の店に持ち込んで飲んでも喰ってもOK。下膳は、運営会社が一括でしている。小一時間程で、汗だくの二人が戻った。城の中は暑くて、階段が急で参ったと喘ぎ声。先ずはビールを・・・、Fはノンアルコールだがジョッキで出た。漸く、ひと息ついたようだ。

                        

市内の中心地から桂浜まで二十分ほどか。道路は空いている、海岸周りで桂浜へ。駐車場に入れた後、またしても、F&Yの二人を「行ってらっしゃい」と送り出した。オイラと老は、涼しい土産物店の喫茶コーナーで二人を待つのであった・・・・。老は、高知は三度目だから・・・、観光はいいらしい。じゃぁ、何しに来たの?かな。

またしても汗だくの二人。Yは浜で五色石を探したといい、十個ほどの小石をペットボトルに入れていた。HOYA兄いから「拾ってきてよ」と云われ、健気にも探したそうだ。俺んとこの庭に敷いてある石も持っているようだが、止めてくれよ!。

愈々最後のスポット「高知競馬場」に向かう時間がきた。三レース~五レースまでの、三レースだけやることになっている。桂浜から、十分ほどで競馬場に着いた。小高い山に囲まれて、隔離されたというか、静かな場所にある。日曜日と云うに、正門前の駐車場に車を留めることができた。

なんとも長閑な競馬場だ・・・・。と云いながら、競馬場に入ったの今回が初めて。Fもそうだと言う。中に入ると、パドックに次のレースの馬がいた。幼稚園の庭園ぐらいの小さなパドック。馬もやせ馬ばかりが目につき、覇気が感じられないのだ。

レース場の観覧席も、人の姿はまばらだ。馬券売り場のあるところでは、銭を持っていそうに思えない面々が、余所の競馬場のレースの行方を真剣にみていた。全国のレースが買えるのだ。便利な時代さ。

                         

 俺たちの結果は、揃い揃って討死。まぁ~こんなものだろうと帰路に着いた。安田の海岸に着いた頃、丁度夕日が海に沈む時間だった。三人は海岸を走る国道の際に立ったが、雲が薄く海まで下りてきた。心掛けが良ければ、真っ赤なダルマ夕日を拝めたであろうに。残念!またおいで。

室戸岬方向を見ても室戸の岬は見えない。紀貫之が、羽根があったら飛んで都に帰りたいと歌った、羽根岬が手前にあるのだ。されど、この岬の姿を私は好む。

                         

夕暮れ迫る中を帰宅。これから夕食の準備だ。三人には風呂に入ってもらい、その間に車の中で宣言したとおりに「ソーメン」だ。芋天・茄子・カボチャ・オクラにエビ掻揚げを作る。ビールと焼酎を飲みながら、短い滞在を振り帰るのであった・・・・。

帰京の月曜日、予定時間を一時間早めた面々を安田駅に送る。9:01分発の「ごめん~なはり線」の車中の人となった彼らと、トンネルの中に吸いこまれて行く電車を見送った。

                            

この日の午後、私はANAにて高知空港を発ち帰京したが、私の東京着が彼等より早い。人形町に辿りついて、久々に江戸の酒で郷里の垢を落とした。

                            

退社時間後に会社に立ち寄ったが、十一日ぶりに目にするメダカの成長に驚く。更に、大きなキュウリ一つなっていた。あっと云う間の十一日、時間の経つは早いねぇ~。メダカも胡瓜も大きくなるはずさ・・・・。その分、こっちはボケが進んでいる。

                             

 

帰京の翌日となる、昨日。YOSHIOとFUJIKURAでランチタイムを一緒にした。田舎から会社宛に送った鮎を『お土産に持って行け』と言うと。「開きの方がいいね」なんてことを言いやがった。バカヤロ~手前で作れと言ってはみたが・・・・。冒頭の早い帰宅とはこのことさ、鮎を開き、干した。

日曜市で贖った包丁を鮎と一緒に送ってあった。捌き初めとばかりに、二十枚ほど開いて塩水に浸けた。肩が凝ってしまった・・・・・。

 

 

 

 

 

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長かったようで・・・その①

2017-08-22 | Weblog

8/22(火) 昨日の夕方に東京に戻った。14日に帰郷、先ずはミカン畑の草刈り済ませた。と、云うのも17日~21日まで会社のスタッフFUJIKURAとYOSHIOに加え、かつてのメンバーUSUI老まで来高するのだ。F&Yは畑仕事に池掃除、川で鮎釣りをしたいと云う。加えて、あちこちを観光したいと盛り沢山な希望である。

畑の草刈りだけでも半日は要す、事前に草刈は済ませて彼らの到着を待った。なにしろ、飛行機に乗れないFがいるので、東京を九時半の新幹線に乗り、岡山を経由して土讃線でごめん駅、そこから土佐くろしお鉄道、ごめん~なはり線に乗って我が安田駅に着くのは16時29分。七時間の電車旅で、往復を考えると丸々二日間が車中と云う、効率の悪い旅なのだ。

まだ陽が明るい時間ながら、冬なら日暮れが迫る時間に安田駅で到着を待った。阪神タイガースのペイントした一両だけの電車がトンネルを抜けてきた。トンネルを抜けると、そこは雪国ならぬ陽光の注ぐ「安田駅」。僅かな降車客につづいて三人が、車中のビール疲れのような顔と姿で出てきた。

                 

高架のホームからビニールハウスの田園地帯が、その先はに安田川が流れ落ちてくる山陵が折り重なっている。そんな景色を楽しむまでもないメンバーを、駐車した車に誘った。ここから、安田川を20KM 程遡った馬路村の村営温泉に案内し、旅の汗と疲れを流して貰う。山間に僅かに開けた山村と川辺の温泉に満足した様子。

実家に戻り、皿鉢料理と鮎焼き、前夜に用意した鮎の開きと鮎寿しで歓待したが・・・・。彼等の口に合ったかどうか?。

                        

翌日は、高知県東部の名所「室戸岬」へと。その前に、隣町(田野町)に眠る幕末の志士、二十三志を祀る福田寺に詣でた。土佐勤王党の盟主、武市半平太の赦免と一国勤王を願った、勤王派の郷士23人が山内容堂に嘆願し脱藩。土佐との境、阿波にて捕縛されこの地で斬首された。維新後、二十三志は叙勲されたが、最年少は16歳とある。そして、斬首の奈半利川、河原に建つ記念碑を案内。明治維新となる四年前のことである。

此処から奈半利川をさかのぼって、北川村の中岡慎太郎(陸援隊隊長)の生家跡へと案内。山深い地に、大庄屋だった中岡家が、昔のままに再現されている。此処へは、歴史に関心が高いFの希望であった。

そして室戸岬へ。弘法大師空海が修行したと伝えられる「みくろど」と、前に広がる奇岩の海岸を歩いて貰う。暑い最中で、私は日陰で一休み。岬の断崖の上に建つ、二十四番札所「最岬寺」(ほつみさきじ)と、寺と目と鼻の先に在る「室戸岬燈台」を案内する。真夏の太陽の下、汗だくとなるが、空・海の見事なコントラストに白い灯台が映える。

                 

実質二日しかない日程だ。先を急ぎ、帰路に着く。室戸漁港の近くに在る海の駅へ寄る。大した品はないが、吉良川産(備長炭で売り出し中)の炭が有ったのでバーベキュー用に買う。ここでランチと云うことにしたが・・・。店主お奨めのキハダマグロ丼を食したが・・・・、私はこれはお奨めできないな。身にしまりがない、俺の腹みたいだぜ(この一言で想像がつこう)。

途中、「キラメッセ」(道の駅)に隣接する「クジラ館」(江戸時代の捕鯨について展示)を見てもらう。

急ぎ足で室戸から戻ったが、午後二時となり暑さは最高潮に達す。その中を畑に行く。畑作業の要望にそった訳だが、暑い。暑いのに焚火をし、更に汗を掻く。焚火の訳は、バーベキュー用の炭を熾すと云う目論見だ。その間、F&Yに青い栗イガを集めて貰う。これも立派な畑作業だ。栗虫がへた食う所為だろうか、未だ青いイガ栗が畑に広がって困るのだ。

午後四時、河原でバーベキューとなる。室戸からの帰りに買ってきた肉、従姉の連合いが獲ってきたばかりの鮎を焼きながら、冷えたビールを飲む。浅いだろうと、川に入ったFは、想像以上の水量と意外な深さ、川石の苔に足を取られて早々に引き返す。こっちは炭を熾して野菜や肉、鮎を懸命に焼くのであった。

               

橋の上を見やると、若い集団が歩いて行く姿が・・・・・。川向こうを歩く若者たちに手を振ると、向こうもふり返す。暫くして、彼ら彼女らが橋の上に戻ってきた。それに手を振りながら、オイデオイデをすると・・・・。「行ってもいいですか」の声が・・・・。おいでよ~おいで!。

訊くと、高知大学の学生と、留学交流のインドネシア・マレーシアの学生。地域調査と云うことで、十日ほど安田町に滞在すると云う。町の広報紙などを見ているの、こっちとしては案の定だが、東京組は驚いたようだ。ここで国際交流になろうとは・・・・。焼いた鮎を勧め、アルコールも勧めたが、お酒は未だ駄目だとのことだった。イスラム教と云うより、フィールドワークの時間中とのことのようだ。

引率の先生を含め、二十名近いメンバーに鮎を焼いて振舞う。日本人の学生は、ここの鮎を食べたかったと喜び、留学生に鮎の食べ方を教える。束の間、安田時間を楽しんでくれたであろうか・・・・・。

                      

かくして、二日目が無事に暮れていった。朝五時のサイレント、六時に流れる音楽には驚いたようだが・・・・。田舎の人は働き者なのだ?。

 

 

 

 

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弁当&ランチ会

2017-08-10 | Weblog

8/10(木) 今日は孫のSORAの弁当を頼まれていた。昨日の朝から鼻水が止まらず、完全な風邪症状が現れていたので、午後は早帰りをして体調を整えたが、結果は蓋を開けないと分らない・・・・。

夜中に何度も目覚めながらも眠るように努めた。六時の起床時間になり蒲団から離れたが、昨日よりは調子がいい。先ずは、SORAの弁当作りだ。七時半に、学童保育に行く準備をして来ることになっている。長女は夜勤明けで、帰宅は十時前になるはずだ。

SORAの好物の「鶏唐揚げ」と、胡瓜の塩揉み、ウインナーに卵焼きが中心だが、嫌いだと云う「春巻き」もひとつ入れた。子供の弁当ついでに、家人の弁当も用意した。大人用は「春巻き」が中心で、竹輪&万願寺の煮物、塩秋刀魚焼きと、唐揚げ等になった。

こうして夏休み番外編の弁当作りとなったが、番外編がもう一つあった。それが会社のランチ会である。ランチ会の当番兵は常に私。不滅の四番打者、栄光の大スターと同じような存在か?

八月は会議をやらない予定だったが。全体会議をやるとのことで、セットのランチ会も開催となぅた。真夏なので「ソーメン&掻揚げ」と云うことにした。朝の弁当、昼のランチ会と、風邪でよたよたの体に鞭打って飯作りに励んだ次第。

                     

会社の狭い台所で、茹でたり揚げたりですっかり草臥れてしまった。

 

 

 

 

 

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ハナミズ・・・

2017-08-08 | Weblog

8/8(火) 昨日から鼻詰まりの症状が現れた。昨夜は帰宅してから、塩水でうがいなどをしてから休んだ。にもかかわらず、今朝になると花水ならぬ鼻水が止まらない。汗をかき、冷房で冷えての繰り返しだ。案の定、風邪症状が如実になった。そんな八月八日の夜明を迎えたのであった。

昨日の夕刻前、御徒町に在る某社を訪問。七月から社長が交代したので、遅まきながらの挨拶であった。新社長に同席したのは、三人。こっちは、営業担当のITO女史と二人。なにしろ、同席した相手方、三人の内、二人まではかつて一緒に仕事をしている。関係からいうと、部下と云うことになる。

こう云う関係での会い方というのは難しいのだ。馴れ馴れしくてはいかんし、妙にかしこまったらお互いにケツがこそばゆくなる。へりくだってもいかんし、昔のように横柄な態度も嫌われる。相手方の社長への挨拶だ、旧知の二人への間合いの取り方と、社長との会話の進め方を探りながらである。

オイラも、すっかり大人になったものだ。とはいいながら、初対面ながらも共通の話題にはこと欠かない。そこが、かつて在籍した会社ゆへのよさであろう。

挨拶と営業売り込みをしてから、同席したうちの一人、KAKINUMA君と喫煙所にて一服。今夕、一杯やろうと声を掛けてあった。「このまま残って、行きましょうよ」と言うが、ちっと時間が早い。それに、いったん帰社の予定で訪問している。『アンタの方が人形町へ来いよ』と、時間を待ち合わせた。

五時半、人形町の改札出口で合流。何処へ行くのか~海鳥たちよ~、和・中・華とならべ、今夕の行先を問うも、希望は山梨県。では、中華ラーメンの店に行こうと、甘酒横丁から小網神社方向に向かい「三浦」へ。「三浦」は中華料理じゃなくて、中華ラーメンの店だが、摘み類は多彩でラーメンは絶品である。随分と顔を出していないので、久々に行くことにしたのだ。

「三浦」に着くと、未だ店が開いてない。入り口に、仕度中・六時開店の張り紙が・・・・。開店まで二十分あった。一本裏の通りに、天麩羅屋と居酒屋が並んであり、暖簾が下がっていた。居酒屋でビールを飲んで時間を潰すことにした。四十前後の板前と、その母親らしき老婆が営む、小体な居酒屋であった。ここのお通しと、一品だけしか頼まなかった、マグロ中落ちの作りと味が良かった。

三十分程で「三浦」に移動。台風来襲、大雨の予想があった所為か、通りは静かで店内も空いていた。ヤサイサラダ・イカ塩辛・餃子・煮込み豆腐を肴に、KAKINUMAはホッピー、オイラはハイボールを飲る。そして、仕事のことなど聞きながらも、何時しか昔話となる・・・・。

同じ職場に居たのは三十年も前のことながら、ついこの前のように思えるのだ。不思議だね~・・・・。そんな中で、Kがこの前飲んだ時と同じ話をする。

「俺がさ、悩んで高円寺のガード下の居酒屋に一人でいると。ARIさんがオネエチャンと入ってきて、お前なにを湿気た顔してるんだ。悩みがあるんか。なんて言っちゃってさ」「事情を話すと、そんなの行けばいいんだよ。いけば道はひらけるさ。て、言ったんだ」と、古い話を持ちだした。

先ほどまで、今の仕事での苦労らしきことを聞いていたのだが。その昔、Kが新規オープンするな展示施設への人事異動の内示をされて悩んでいた時のことになったのだ。高円寺、ガード下の居酒屋のシーンは覚えているさ。店に入って、ふっと先に目をやると、独り背を丸めて頭を抱えるようにして俯いていた姿を。

よっぽど悩んでいたんだろうな、あまりにも辛そうな姿だったので声を掛けた。同じテーブルに着いて、話を聞いた。勿論『なにを下らないことで悩んでるんだ。いきやいいさ。』と言ったのも間違いないはずだ。その時の俺は、既に社会貢献のセクションに就いていたはずだ。

他人にゃ云えねえが、社会貢献室への異動を耳にした時、俺は会社を辞めようと真剣に考えてたから・・・・。処が、他所で生きていく自信がなくて辞めれなかった。悶々と会社に出ている内に、その仕事が面白くなった。そんな背景があったからこそ、Kにも『心配するな、道は拓けるさ』なんてようなことを言ったのは、間違いない。

然しKのやつ、そんな古いことを、シーンをよく覚えているもんだ・・・・。感心するぜ!

外の雨は、一時は激しく、暫くすると小止みに。そんなことを繰り返していた。仕上げに評判のラーメンを頼んだ。Kが、お腹いっぱいと言うのを無理に三分の一を小鉢に入れて渡した。オイラも腹いっぱいながら、残りを喰った。腹が苦しい・・・、されど辛胡麻ラーメンは旨い!

帰り際に店主のMIURA大将が出てきた。顔色は上々の艶々、髪の毛は落ち着いた茶系にして男前を上げていた。鮎のことを訊かれたので、未だ小さくて脂がないけど、丁度田舎から届いたので少しだけど届けますよ。と云って、店を後にした。上手い具合に、雨は降ってなかった。

 

会社のベランダの胡瓜が、週明けにグッタリとしていた。土・日に水遣りが出来なかった所為か?葉も随分と干からびてしまった。一本だけ大きくなってきたが、他は伸び悩み。枯れ葉を取ったが、これからどうなるのかな?。メダカの方は元気よくスイスイと泳いでいる。すっかりヒメダカらしい色になった。

                             

 

 

 

 

 

 

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氷見ウドン

2017-08-04 | Weblog

8/4(金) 昨晩は、帰宅してから「氷見ウドン」を食した。前夜がソーメンだったので、少しだけ趣向を変えたと次第。氷見ウドンは、ウドンというよりも冷麦に近い太さ、半田ソーメンと太さは違わないぐらいなのだ。

昨夜も退社後、ローカーボでハイボールを啜りながら、隣のシャンパン王子と喋る。『今夜は氷見ウドンだなぁ~』と宣言した。前夜、食したソーメンのことも王子に話したので、『今夜は出汁をとって、暖かい汁で喰うぜ』なんて、どうでもいいことを言った。

これで四夜つづけて、と云うことは月~木のだ。王子と隣り合わせている。この夜も王子が先に店に居り、一杯目の飲み物を注文するところであった。マスターは、夕方の煮込み居酒屋での酒の所為か、眠そう。

                            

この夜もたった二杯、ハイボールを二杯だけで切り上げた。前夜、入れ違いに入って来た客が、マスターの同級生で、高知で公立小学校の校長をしていることを知らされた。話ができず、ちょっと残念な思いがした。と云うのも、我が社でやっているNETニュース「ICT教育ニュース」のことをPRしたかったのだ。ましてや私の郷里でもあり、尚更な思いがした。

この夜も、暫くするとIMAE兄ちゃんのグループが姿を見せた。後の客も入ったので、早々と引き揚げた。

学芸大駅の東急ストアで、油揚げや大葉などを買って帰宅。家人も帰宅したばかりで、同じものを食べるという。早速、出汁作りを始めた。利尻昆布と鰹節で出汁をとり、塩・醤油・味醂・酒で味を調えた。

ウドンに入れる具は、油揚げと板カマボコにネギだけである。糠漬けの胡瓜・茄子を切り、小さな鮎を焼き、缶ビールを開けた。氷見ウドンを啜りながら、内閣改造のニュースをみて、評論家になっていた。

                            

23時過ぎには蒲団にはいり、何時の間にや眠り込んでいた。TVの音で目覚めると・・・深夜の二時。それからどうにも眠れず、朝を迎えたのだ。

 

時間を持て余し、休暇中ながら弁当を作ることにした。時間潰しの弁当作りであるが、前夜のウドン出汁といい、食い物を作ることから逃れられぬようだ。こう云うのを運命とか、宿命というのかも?。

家人の弁当は、味付きの豚ステーキ、万願寺・カマボコ・油揚げの煮物、粕漬けの魚&炒り卵となった。

                         

私の朝食は「サラダ&パン」である。意図的に、朝は野菜を摂るようにした。胡瓜やキャベツ、レタスの定番野菜ばかりだが。そのうち、キリギリス・オヤジなんて、呼ばれるかもしれない。豚からキリギリスに変身?ありへんな~。

 

今夜は月例の「セイジュ会」だ。持ち込みの酒と摘みで、盛りがることだろう。USUI老も来ると言う!、なんでもお盆明けにYOSHIOとFUJIKURAが我が実家に来るという。それにUSUI老も加わるとか。老が我が故郷に来るのは三度目になる。余程、安田川のせせらぎが気に入ったのか、ただ飯が目当てか?或いは、我が老母がお気に召したか?。老母であれば、熨斗をつけて進呈したいものだが・・・・・。

 

 

 

 

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小さな命

2017-08-03 | Weblog

8/3(木) 昨夜の散歩は早目に切り上げ、帰宅は22時過ぎと、しずかな夜であった。夜の帳が下りる頃から急に涼しくなった。20時過ぎに会社を出て「ローカーボ」に寄り道した。そこに、三日つづけてのNAKAMURA君(シャンパン王子)の姿がひとつだけあった。

彼の横に腰を掛け「連日だね~、お互いに」と、ニヤリ。マスターに『今日は一杯で帰るよ』と、ハイボールをオーダー。尤も、その前にマスターはハイボールを作り始めていたが・・・。『昨夜はどんな話をしたんだっけ?』などと、ボケタ会話をしながらハイボールを啜る。煽るんじゃなく、啜ると云うところが可愛くないか?

ハイボールを空けた後は、白ワインを頼んだ。マスターから「一杯じゃなかったの?」なんて言われ、『ハイボールが一杯、と云う意味さ』と応じたが、菊池の雉大王・マッチャンのように「腹いっぱい」なんてことはいえないのだ。

何時のまにか、会話は病気のことに。それも肝臓はどれだけ持つか、血糖値はどうかなどで、酒飲みの内臓は何処まで許容値があるかだった。俺なんぞは、内臓よりも、お脳の方が心配なのだが・・・・。

ハイボールと白ワイン、たった二杯で切り上げた。「蒸気船たった三杯で夜も眠れず」との駄洒落(川柳)があるが、オイラは三杯ならぬニ杯で降参した。

涼しい夜と相まって、早めに帰宅して「明太茶漬け」が食べたくなったのだ。店でなく、家で食べたいと云うところが泣かせるじゃないか。貧乏人はうまくできてるぜ。

で、22時過ぎに帰り着いた次第。茶漬けをと台所に行くと、ひと足先に帰った家人が、残っていたご飯を食べようとしているところだった。遅かりし由良の助、と相成って、小生は「ソーメン」を食すことにした。銘柄は、揖保の糸?それとも・・・。ともあれ、上品な細い麺である。それを茹で、胡瓜の千切りとミニトマトで色を添えた。

                            

この程度なら、腹ももたれなかろうと云うものだ。食いしん坊オヤジは、手間暇を気にしないのだ。

夜が涼しく、おまけに早くから蒲団に入った。その所為か、目覚めたのは明け方の四時である。これには参ったが、夜の散歩はしても朝の散歩は、とうに忘れている。おまけに弁当作りと云うお楽しみも休みだ。時間を潰す本もなかった。困った困ったで、時の過ぎさるを待った次第。

 

 ― 小さな命 ―

会社に来ての楽しみは「ちいさな命」たちだ。メダカは、十三匹の小さな命が丸い水槽で泳ぎ廻っている。たった一本の胡瓜ながら、これにも後続の実が三つ四つと育つ気配がある。朝顔は、去年のタネが落ちたであろう。ヒョロヒョロの一本の蔓が50センチ程伸びて、赤紫の花を一輪咲かせた。

小さなメダカに、餌を指先で擦り潰して与える。タバコを吸うベランダで、小さな胡瓜が日々大きくなるのを楽しみ、一輪の朝顔を愛でる。たったそれだけのことが、妙に安らぐひと時をくれるのだ。

                         

農業などやっておれば、楽しいに違いない。HIROAさんが、野菜作りに専心する気持ちがわかるねぇ~。

 余談 ― 大学に入った頃は教師なろうなど考えもしなかった。当然、教職課程も取らなかった。それを、四年生になってから悔やんだ。と、云うのも・・・。剣道部出身だったので、郷里の母校の後輩建ちとの接点があった。また、親父が剣道を教えている子供達が成長する様子を目にしていた。

幼いものが、少年がだんだんと成長し大人になっていく。そんんなことに携わる仕事もいいな、と思うようになっていた。人であれ、動植物にせよ、成長する過程を共にする、できる仕事はいい。と、思うようになっていた。時、既に遅くサラリーマンになった。

振り返ってみれば、入社したての西も東も分らぬ、算盤もできない木偶の棒のような俺を、育ててくれたのは職場の先輩や上司だ。そして小生意気な俺を暖かく見守ってくれたのも、心配してくれたのも先輩方や上司、大勢の皆さまだった。

残念ながら、この俺は大きく成長することも、実を結ぶことなく終わろうとしているが、少なくとも若い頃は大勢に見守られていたに違いない。今にして、そう思える。サラリーマンになることも、零細の会社を引き継ぐことも運命、前世からの約束と云うやつだろう。

せめて今出来ることは、ただ一つ。成長するであろう命に、少しでもその可能性を伸ばすための水を遣ること。例え、ひと滴の水であろうとも・・・・、そう云うことかと思う。

「小さな命」に触れ、改めて自分をふり返る。今朝は、そんな次第である。

 

 

 

 

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暇な男は・・・

2017-08-02 | Weblog

8/2(水) 相も変わらず暇な日々を送っている。そんな所為で、今朝は目黒の某社に書類を届けることを買って出た。7月の請求書を今日中に欲しいと言われたそうだが、担当のAOKIはビックサイトの展示会に張り付いている。ここは暇なOYAJIの出番とばかりに、届ける役をかってでたのであった。

届け終えて、南北線で三田で都営線に乗り換えて会社に行くル―トが一番早い。目黒の地下駅に入る電車の表示は、たしか三田線とあったはず。これなら三田で乗り換えと安心していた。処が、気が付くとメトロは麻布方面に入っていたのだ・・・。俺がボケたのか、メトロがボケているのか不明だが、電車に引き返せといっても無駄だと思い、そのまま溜池山王駅まで行った。

溜池山王からだと銀座線に乗り換えて、三越前で降りればいいのだ。三越前から会社までは7~8分の距離。それに、営団地下鉄の乗継なので運賃はこっちが安いのだ。生産性のないOYAJIに、神様が敢えてこのルートを取らせたのかも?

三越前に近づいて、ハタと思い出したのは「この前、裾上げを頼んだズボンの仕上がりが今日だ」と云うこと。引き換え伝票がなかったが、行けば何とかなるだろうと三越デパートに寄った。こんな用が足せたのも、神の思召しであろうか。転んでも、ただでは起きぬ見上げたOYAJIじゃないか。

塩梅よくズボンを受け取り、帰ろうと目を転じると・・・・、大きな天女像が雲を突くばかりに聳えていた。

そうだ!、これが先日、TVで知った木彫りの像なんだと、思い当った。この像は、昭和三十年代の初めから建っているので、当然、何度も目にしているはずだ。それなのに、こんな大きな凄い像が目に入ってない。記憶にないのだ。三越と云えば、ライオン。そんなイメージがあって、この凄い像を見落としていた。

この像は、台座部分からすると、一階から五階相当までの高さがある。初めてしげしげと、像を見上げた。台座には、この像の制作に携わった人々の銘がはめ込まれていた。数多の人の名が刻んれていた。

                              

この像をみると、かつての三越の栄華・隆盛を窺い知る。そんな思いがするのは、私だけであろうか・・・・。台座を廻り、写真を撮っていると、椅子に座っていたどこぞのオヤジも、写真を撮り始めたのであった。

朝から、ちょっとした散歩気分であった。

 

そして午後、AOKIがデバっている展示会に顔を出した。今年は、東京・ビックサイトでの開催だが、大阪・名古屋と毎年開催地は移動する。毎年この時期に開催される下水道展という展示会だが、出展している団体から数年にわたり、仕事をさせてもらっている。が、これはAOKIの成果と云えよう。偶には誉めてやろう!誉め殺しじゃねえよ、決して!

                         

行っても、クライアントの課長に挨拶をし、AOKIに「ご苦労さん」と云うだけのことであるが・・・。

 

昨夜の人形町散歩は、前夜と同じ。なんと、メンバーも同じだったとは・・・・・。今夜もそうなるか?。と、云うことで、これから夜の散歩に・・・・。

 

 

 

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