6/21(火) 昨夜は飲みすぎたようだ・・・。昨夕、立川にてウルトラマラソンの第一人者「沖山健司」氏に会った。氏から、四月に行われた”さくら道・2011ネイチャーラン”(名古屋~金沢間250kmレース)のことや今後の予定について話を聞こうと云う趣旨であった。
6時に立川駅にて待ち合わせ、居酒屋「弁慶」にて懇親。同行は相棒のHiroさん、これに旧友で立川に勤務しているAjiro氏も加わった。
沖山氏からネイチャーランレースのポイント、某製造メーカの工場施設を利用するラン・イベントのこと、3月の伊豆大島(沖山氏はここの観光大使でもある)で開催するマラソンレースのことなど聞きながら、Ajiro氏との会話や酒が進むこと果て無し。
さくら道:レース後の沖山さん
酔っ払う前にと、程ほどに切り上げたが、帰路三鷹にて途中下車。Hiroさん行きつけのワインBar「ストーリーズ」へと足を向けた。この店の常連であるフラメンコダンサーの「齊藤克巳」さんに会えるといいな、と思いながら・・・。
すると、折りよく齊藤氏が居合わせた。この店は常連が大半でフレンドリーな雰囲気である。それにカウンターの中を仕切る、若いDaisuke君が人当たり・あしらいが好い。齊藤氏のステージ予定を訊いたり、Daisukeの剣道稽古の少なさをなじったと気分良く飲む。安ワインのグラスの空きが早い・・・。
そんなことで帰宅は零時前。ホッピーとハイボール、ワインの赤・白の酔いが廻ってシャワーの後、居間の椅子に座り込んで寝ていた。こりゃいかんと、頭では分かっていたが体が云うことをきかない。漸う布団に入れた時は4時となっていた・・・。大失敗であった。
そんな夜を過してしまい、今朝は体調不良。Kの弁当も散歩(幸に雨だった)もできず、会社に出るのがようような体たらくで一日がスタートした。
「震災余話」
東日本大震災の取材で6月7日、盛岡に行った。この日、盛岡は真夏日となった。N社の支店にて取材目的の当事者にインタビューした。
岩手支店では、震災の直後から避難所に避難した人たちが発信したい「伝言」を収集。被災者に代わって、社員が電話でメッセージを伝える活動を行った。震災直後の週明けから、ドコモの携帯が通じるようになるまでの間の取り組みであったそうな。
本業としての特設公衆電話の設置は勿論であるが、これらが間に合わない間の情報伝達手段として、大きな力となった。この活動について産経新聞・週刊ダイヤモンドやインターネットでも取り上げられて大きな評価を得ている。
非常時に安否を気遣う人々への情報伝達の取り組みとして、「ライフアシスト誌・防災特集号」(9月1日発行予定)に掲載される予定である。この伝言取次が支店オールとしての取り組みとなるきっかけを、提言をしたのが今回取材に応じていただいたK氏であった。
K氏は色白ながらも線路マンらしい体格と風貌、メリハリの利いた熱血漢と云う印象であった。そのK氏は、大船渡市細浦地区(大船渡の港に入る手前の小さな湾)で育ち、年老いた両親は其処に住んで居られた。地震があった後、震源地が三陸沖と流れた瞬間に津波が来ると予測する。
地震発生の30分後には車に水を積み込んで生まれ在所にへと向かった。が、一時間程で着ける距離ながら、途中気仙沼に入ったところで津波出会い、山越えのルートへと変更、海沿いに出るとまたも道路がなくなっていた。勝手を知ったる地域ならばこそ、また山越えのルートへと繰り返して進むうちに車がパンク。歩いて行くうちに偶然にも親戚の人の車に出会い同乗させてもらうことができた。細浦に着いた時は、夜8時となっていた。
「三日月の明かりを頼りに家の在った辺りを見ると、何もかもが消えていた。嗚呼これで父も母も死んだと思った」処が、小高い山の方に小さな公民館があり、地区の60人ばかりが避難していた。その中に両親も混じって避難していた。
耳が遠くなっている母と体が不自由な父は、近所の人たちの力で避難していた。
寒い夜をまんじりもとしないで夜明けを待った。一夜明け、眼前に広がるを見下ろすと、其処は一面の瓦礫と化し面影はなかった。一段高い土手となっていた線路も駅舎も消滅していた。避難所には、通信手段も途絶えて何処へも連絡がつかない被災者がいた。
瓦礫が残る細浦地区
その夜、一旦勤務地へと戻ることにしたK氏は避難している人たちから連絡先のメモを預り、代りに連絡することを約した。そして明日また来るので、連絡のメモを書いておくように話す。翌日曜日、再び避難所を訪れたK氏は、前夜に連絡をした相手からのメッセージを伝え、新たな連絡先のメモを預かって帰った。
連絡手段が絶たれた被災者の姿に接し、通信事業に携わる者・会社としてやるべきことを痛感する。K氏の訴えは、組織的な活動として岩手支店全体が動くこととなった。
人と人とのコミュニケーションをつなぐ手段として「伝言メモ」を様式化。チームを組み、朝に各避難所に届け、夕方にはそれを回収して連絡をする。翌朝には、その結果と先方からの伝言を避難所に伝える。
本社の報道担当の協力で、NHKや岩手放送でも被災者情報として、NTTのポータルサイトgooでのインターネット発信へと広がる。
夕方、持ち帰った伝言を伝える。時には深夜に及ぶこともあったそうだが、被災地からの局番をみた相手先は、飛びつくように電話を取ったようだと云う。時には辛い知らせもある。
何時しか、伝言を伝える担当者はタオルを手にして受話器を持つようになったそうだ。思わず、もらい泣きをするから・・・。
「山梨から、細浦の実家にお産で帰郷中の妊婦さんの安否を心配していたご主人との連絡がつき、避難先を訪れることができた」「実家の安否が確認できた」「避難所を知ることができ連れに行けた」など、大いに感謝されることとなった。
非常時に情報を伝える。人手によるアナログな方法しかない中で、伝えることの大切さを知る熱い人たちがいて、できる方法でやり遂げた組織。OBとしても嬉しい限りであった。
14日、気仙沼での取材を終えた私は陸前高田・大船渡、そして細浦、石巻と被災地を廻ることができた。震災から三ヶ月が経ち、被災地では瓦礫の撤去が進んでいた。
駅舎も線路も流れた大船渡駅前
陸前高田の一面の空き地となった道路際に、新しい電柱だけが立っている姿が虚しかった。
遥か山裾まで続く陸前高田の惨状