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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

エリコ陥落の現代的意味 第6回

2015年06月07日 | 日記

靴を脱ぐ経験

3番目に、ヨシュアは戦う前に祈っていたんです。この戦いにおいて勝利するためにどうすればいいのでしょうか?ヨシュアが最も心に負担を持っていたのは、どうしたら自分の民が、神様の保護、神様の力によって守られることが出来るかということでした。彼は、神様の力については信頼がありました。しかし、神様の力を信頼していても、民が神様の守りを受けられる状態にあるか、神様の契約の中にいるか、それがヨシュアにとって最も心の負担だったのですね。この少し前の5章6節を見てみますと、40年前に最初にカナンの地の国境に来たいくさ人たちは、ヨシュアとカレブ以外皆荒野で死んでしまったのです。

ヨシュアはこの40年間、荒野を通りながら神様の力をずっと経験していたんですね。ですから、神様が生きておられて力あるかたであるということは信じていたんです。ですが、神様のその力の保護が民に与えられているかどうか、民が本当に従順によって神様の守りの中にあるかどうか、それが彼の心にとって一番の負担だったんですね。それで彼はそのことについて祈っていました。神様に力があったとしても、その力がこの民に現されるほど清められているか、そのことが彼の心の中にあったのですね。神様の力が見えなくて祈っていたのではないんですね。約束が信じられなくて祈っていたのでもないんです。神様の民、神様の教会が神様の前に清められているかどうかを祈っていたんです。その確信を持ちたかったんです。

終わりの時代にもそうですね。なぜこの終りの時代に、再臨が遅れているかというと、神様の民が準備されるのを待っておられるからなんですね。実際にイエス様の再臨は、私たちが期待して待っているよりも、イエス様自身がもっともっと待っておられるのです。これが事実なんです。

この時に、ヨシュアがこのように祈っていた時に、一人の人が剣を手に持って立っていました。5章13節ですが、驚いたんですね、ヨシュアは祈りから起き上がって、その人に向かってこう言いました。「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。

13節から読んでみましょう。ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、『あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか』。彼は言った、『いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ』。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、『わが主は何をしもべに告げようとされるのですか』」。(5:13、14)

ここに主の軍勢の将とありますが、主の軍勢の将とは誰の事でしょうか、これは天使ではなくイエス・キリストだったんですね。イエス様はサタンと戦う時どういう立場だったかと言うとミカエルだったんですね。ミカエルとはどういう意味でしょうか、英語ではマイケルと言いますね。「誰が主と共に戦う者か」、そういう意味がミカエルにはあるんですね(黙示録12:7)。イエス様が天でサタンと戦われる時に、主の軍勢の長をされていたんです。そこからここにイエス様が来られたことがわかるんですね。ヨシュアがひざまずいて「あなたはどなたですか。何をされるのですか」と尋ねると、「すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である』。ヨシュアはそのようにした」(5:15)。

皆さん、このくつを脱ぐという経験は誰がしたでしょうか。これはモーセが燃える柴の所でした経験ですね。皆さん、燃える柴、これはどういう意味でしたか?聖書を見てみますと、モーセはもうその光景を見て驚いたわけです。木がどんどん燃えているのに、木が燃え尽きないのです。これは何を象徴しているかというと、イエス様の受肉を象徴していたんです。神様という方が人間となられた、考えてみて下さい。聖なる神様の霊が住まれながら、この人間の体が燃え尽きることはなかったんです。被造物である人間のうちに神様の聖霊が注がれた、それが燃える柴で表された主の象徴でした。