人は自分の行為について反省するにはあまり敏感ではなく、他の人が間違ったり、誤ったと思われる場合には、他の人をどれほど厳しく扱うでしょうか。神様の働きをする仲間同士でもそのようなことがあります。相手が涙を目に浮かべればを心に満足を得るように思えるんですね。しかも、それは自分の利益のためにやっているのではないと思っています。「神様のためにです。神様の働きのために。福音伝道のために。私が好きでするのではありません。私がこのようしなければ、誰がするのですか?」
大義名分をかざすんです。それとともに、他の人のミスを容認しません。自分の言うことは全部正解です。もちろん何でも完璧にすべきですね。間違いは責任を負うべきですね。責任を負う者がいないからいい加減になるんです。全部正しいでです。ところがそれを自分の肉の性質で解決しようとするから問題が生じるんです。
それは神様の働きではありません。非難や、問い詰めて誤りを修正しようとする欲求に勝利してください。そうやって相手が自分の過ちを悟るようになることはほとんどありません。むしろそのようにすると、心が頑なになって、かえって罪に陥る状況を数多く見てきました。今それを指摘しないで、口が何か言いたくてムズムズして耐えられないでしょうか?大変なことでしょうか?私も話してあげなければと思いますか?そのような欲求に終止符を打ってください。親切な精神で謙虚で寛大な態度が、過ちを犯した人を救うことができます。少し余裕を持ってください。