私たちがイエス様の上に落ちて砕かれるならば」、この言葉は、クリスチャンがよく使う言葉かもしれません。ですが抽象的な内容ですね。これは実際にどういう意味なのか、もう少しはっきり理解する必要があります。
皆さん、ロイヤル シナゴクの話を聞いたことがありますか。ロイヤル シナゴグというユダヤ人の大きな会堂を造る時の話です。お金持ちのユダヤ人が援助して、本当に大きなきれいな会堂を造ったのですが、その時に、イタリアから特別な宝石のようにきれいな大理石を持ってきました。すごく高価な石材を使って、宝石のような光る石でモニュメントを造ろうとしていました。とても高価な、ものすごい額のする大理石でした。その時空港から石材を車で運んでいたのです。ところがその車の前の車が滑ってグルグル回り始めたんです。運転ミスがあって滑ってしまったのです。後ろの車がそれを避けようとして急ハンドルを切ったので、荷台にあった石材が、もう本当にきれいな石材がひっくり返って、道路わきに落ちてバラバラに砕けてしまったのです。それで警察がやって来まして、それを見て、この石材を注文した人に連絡したのです。「あなたの石材が砕け散っています」。「ちょっと待って下さい。そのまま待っていて下さい」。会社の人が車に乗ってやってきました。「分かりました」と、その砕け散った石材を全部集めて持って帰りました。
とても高価な石材だったので、彼らはその砕け散った石材を集めてモザイクを作りました。砕けていない部分はそのままで、砕けた部分をうまくモザイクのように、ぶどうの絵を描いてくっ付けたのですね。砕けたものを全部うまく使って、モザイクを作って一つのモニュメントとして壁画に作りあげました。ちょうどその壁画の所に、天窓があって、その窓を開けたんです。そしたら光がモニュメントに当たって、ものすごく光り輝いたんですね。その光景を教会の人々が見ました。「わー、砕け散ったほうが素晴らしい作品になった!」と。これはとても有名な話です。その壁画の下にはこのように書いてあります。「ブロークン・ツー・ビー・ビューテフル(美しくなるために壊れた)」。そう書かれてあるんですね。私はそれを読んだ時とても感動しました。私たちがイエス様の内に、イエス様の上に砕け散るならば、美しくなるのです。砕けなければ私たちはそのままです。私たちは光を放つ前にイエス様の上に落ちて砕ける必要があります。