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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

エリコ陥落の現代的意味 第7回

2015年06月08日 | 日記

 至聖所の経験に入る

私たちも心に割礼を受けて、過ぎ越しの祭を通して血によって清められるならば、聖霊を心にいただくようになるんですね。聖なる霊が私たちの内にありながらも、その肉体は燃え尽きることはない、そのようなことをここで象徴しているんです。

皆さん、サタンのわざって何ですか。反キリストと言われていますね(Ⅰヨハネ4:3)。それは「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しない霊」です。キリストの受肉に信仰の奥義があるんですね。

皆さん、イエス様はここで、なぜ靴を脱ぎなさいとおっしゃったんでしょうか。なぜでしょうか。モーセにも靴を脱ぎなさい、あなたの立っているところは聖なるところだと言われました。皆さん、このシナイ山のあの場所が聖なる所だったんでしょうか、そうではないんです。この「聖なるところである」ってどういう意味でしょうか。神様がそこにいらっしゃる場所が聖なる場所となるんです。考えてみて下さい。エリコの城壁の前の場所が、どうして聖なるところと言えるでしょうか。偶像礼拝の拠点だったところなのです。

皆さん、これはどういうことかと言いますと、荒野の幕屋でもでもそうでした。聖所が置かれ至聖所が置かれた場所がありましたが、その場所が聖なるところであったわけではありません。そこに神様の栄光、シェキーナが輝き、神様が臨在される場所、そこが聖なる場所となるんです。神様と人とが出会う場所、そこが聖なる場所となるんです。

靴を脱ぎなさいと神様はおっしゃいました。これは東洋の習慣ですね。アメリカ人は理解できないです。アメリカの家とか教会は、靴を脱がないで入っていきます。日本や東洋では靴を脱いで教会に入っていくんですね。なぜかというと、靴というのはすごく汚れていたんですね。昔は羊もいれば、旅をしていろいろ汚れていました。靴を脱いでそれを全部きれいにして家に入る、そういう習慣があったんですね。ある人は羊の糞を踏んでしまったかもしれません。

神様がくつを脱ぎなさいと言われたのは、そういったものを全部綺麗にしなさいっていう意味があったんですね。靴を脱ぎなさいというのは、神様の御前に出る罪人の経験を象徴していました。この経験と言うのはまさに至聖所に入っていく、その経験を表しているのです。この足の靴を脱ぎなさいというのは、天の聖所に入る前に清められて入りなさいと言う意味を持っていたのですね。

そしてこのことがまさに、戦いにおいて勝利するためにイスラエルの民がしなければならない最後の経験でした。それは聖所に入る経験だったのです。この靴を脱ぐということは、そういうことを象徴していたのです。習慣や、これまでの歩みをもう一度ここで再度吟味し、清められて神様の前に立つのにふさわしい至聖所の経験が、ヨシュアに求められたんですね。最近では教会で本当に神様を畏れない、そういうことが多く行われているんですね。

靴を脱ぎなさいというのは、ここは聖なる所である、神様が臨在される聖所である、もう一度聖霊によって洗われ、神様に近づきなさいと言われたのです。エリコが完全に崩壊する時、この世界が神様の審判を受けて滅びようとしている時、最後の裁きの天災がもう目の前に迫っている時に、神様がしなさいと言われたのは、心に割礼を受けて、過越しの祭を行って、至聖所の経験をするようにということでした。そして彼らは最後に、エリコの城壁を回ることになりました。そしてエリコの城壁は崩れ、審判がくだされたのです。

エリコの人々は、荒野を旅するイスラエルの人々の驚くべき奇跡の噂を聞いたりして、悔い改める機会がたくさんあったのです。エリコの人々は今までいろんな奇跡があったんですけれど、その奇跡を与えても与えても、エリコは悔い改めませんでした。イスラエルが、ヨルダンも渡って、紅海も歩いて渡って来たのを見たのに、エリコの人々は悔い改めようとしなかったのです。ですからイスラエルは、神様の裁きを下す使者としてエリコの城壁を崩すようになったんですね。彼らは滅ぼす働き、裁きの働きに加わったんです。

これは終わりの時代の私たちの働きなんです。霊的な最後の戦いを目の前にして、割礼を受けて、過越しを行い、至聖所に入り、神様の裁きのメッセージである三天使の使命を伝えるのです。そのような人々は、イエス様の再臨が、十年後二十年後と考える人々ではなくて、本当に今日、明日イエス様が来られるかのような生き方をする人々、もう世の中から見れば馬鹿げた、気が狂ったとしか思われないような、そのような民を通して神様は最後の働きをされようとしているんですね。これが終りの時代のバビロンの教会、バビロンの城壁を崩す人々の働きなんですね。