屈服とは
私は先週、ドイツに行って集会をしてみ言葉を伝えました。350人ぐらいの方が出席しておられました。集会が終わった後で、青年たちと対話をする時間があったのですが、一人の責任者の青年がこのように言いました。その人が手を上げて「牧師先生、ちょっと質問があります。屈伏、これどういう意味でしょうか。私がどうすることが屈服なのでしょうか、屈伏とはどういうことを意味しているのでしょうか」。とても重要な質問ですね。主の前に屈服する、これどういうことなのでしょうか。何のことを言っているのでしょうか。屈伏とは何でしょうか。これ抽象的な言葉ですね。でも、とても重要な質問です。私はこの質問に対してその場で少し答えましたが、今日の礼拝のメッセージは、この大切な質問に対する答えとして、これを知ることが必要だと思って準備しました。
皆さん、私たちが屈服する、屈伏とはいつするのでしょうか。皆さん、屈伏とは皆さんが、自分自身が一生懸命努力して、力を尽くして、自分でもよくやっていると、そのように感じている時は屈伏しないのです。私もそのような時は屈服しませんでした。私はあの人より勝っている、勝利していると思っている時に屈服しますか?そうではありません。負けたなら屈服するのです。
聖書で屈服ということは、度々教えられているんですけれど、屈伏とはどういうものかちょっと調べてみましょう。聖書は、私たちが使っている私たちの概念を用いて、私たちの単語を用いて表現しています。イエス様が、「もわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て」(マタイ16:24)なさい、私たちのすべてを屈服させて従ってきなさい、とおっしゃる時、私たちはこの屈服ということをどう理解したらいいのかを、きちんと知ることがとても大事なんですね。