至聖所の経験に入る
私たちも心に割礼を受けて、過ぎ越しの祭を通して血によって清められるならば、聖霊を心にいただくようになるんですね。聖なる霊が私たちの内にありながらも、その肉体は燃え尽きることはない、そのようなことをここで象徴しているんです。
皆さん、サタンのわざって何ですか。反キリストと言われていますね(Ⅰヨハネ4:3)。それは「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しない霊」です。キリストの受肉に信仰の奥義があるんですね。
皆さん、イエス様はここで、なぜ靴を脱ぎなさいとおっしゃったのでしょうか。なぜでしょうか。モーセにも靴を脱ぎなさい、あなたの立っているところは聖なるところだと言われました。皆さん、このシナイ山のあの場所が聖なる所だったのでしょうか、そうではないんです。この「聖なるところである」ってどういう意味でしょうか。神様がそこにいらっしゃる場所が聖なる場所となるのです。考えてみて下さい。エリコの城壁の前の場所が、どうして聖なるところと言えるでしょうか。偶像礼拝の拠点だったところなのです。
皆さん、これはどういうことかと言いますと、荒野の幕屋でもでもそうでした。聖所が置かれ至聖所が置かれた場所がありましたが、その場所が聖なるところであったわけではありません。そこに神様の栄光、シェキーナが輝き、神様が臨在される場所、そこが聖なる場所となります。神様と人とが出会う場所、そこが聖なる場所となるのです。
靴を脱ぎなさいと神様はおっしゃいました。これは東洋の習慣ですね。アメリカ人は理解できないです。アメリカの家とか教会は、靴を脱がないで入っていきます。日本や東洋では靴を脱いで教会に入っていくのですね。なぜかというと、靴というのはすごく汚れていたんですね。昔は羊もいれば、旅をしていろいろ汚れていました。靴を脱いでそれを全部きれいにして家に入る、そういう習慣がありました。ある人は羊の糞を踏んでしまったかもしれません。
神様がくつを脱ぎなさいと言われたのは、そういったものを全部綺麗にしなさいっていう意味があったんですね。靴を脱ぎなさいというのは、神様の御前に出る罪人の経験を象徴していました。この経験と言うのはまさに至聖所に入っていく、その経験を表しているのです。この足の靴を脱ぎなさいというのは、天の聖所に入る前に清められて入りなさいと言う意味を持っていたのですね。