心から喜んで
詩篇110篇3節をもう一度みてみましょう。
「あなたの民は、あなたがその軍勢を/聖なる山々に導く日に/心から喜んでおのれを捧げるであろう。あなたの若者は朝の胎から出る露のように/あなたに来るであろう」。
ここに「心から喜んでおのれを捧げる」とありますね。このことを、聖所の儀式から少し考えてみたいのですが、聖所の儀式の捧げ物には4つのものがありました。燔祭、罪際、酬恩際、愆際(けんさい)などがそれです。罪際と愆際は、同様な捧げ物ですが、愆際にはしなくてはならないことがありました。
たとえば、だれかの所有物を壊した場合など、弁償金を払わなければいけませんでした。罪祭と弁償を合わせたものが愆際です。
ところで、神様は、まず燔祭を捧げるように言われました。レビ記の第1章に、まず説明されているのが、燔祭なのです。これは私たちの完全な屈服、完全な自己放棄を表しています。私たちの持っているもの全てを祭壇の上に置いて、イエス様に捧げるのです。燔祭や、酬恩祭は、決して強制されるものではありませんでした。そうではなく自発的にのみ捧げられるものです。私たちが自分自身を主に捧げるのは、自ら望んですることなのです。自らの選びですることなのです。
皆さんは、今朝、自分自身を全くイエス様にお捧げすることを望まれますか? 皆さんは、どれほどイエス様を求めておられるでしょうか?どれほど求めておられますか?世界の全てを失うことになっても、イエス様を求めておられますか?少し、答えにくい質問かもしれませんね。
皆さんは、イエス様を得るために苦しむとしても、最も苦しい痛みが伴うとしても、それでもイエス様を求めておられるでしょうか?
詩篇110篇で言われている、「心から喜んでおのれを捧げる」という経験は、燔祭の経験であり、自ら望んでなされる経験です。それは、「主よ私を御用のために焼きつくして下さい」と願い出ることなのです。
この経験はまた、アブラハムの経験そのものでした。モリヤ山でのあの経験です。アブラハムにとっては、愛するひとり子イサクを捧げるよりも、むしろ、自分の命がとられることのほうが、やさしいことだったのです。イサクを燔祭として捧げるということは、アブラハムにとっては、自分が死ぬことよりも辛いことでしたが、アブラハムはそれをしたのです。
さて皆さん、この詩篇のこのような神様の民は、いつ出てきますか?それは神様がその力を表される時です。それは、いつどのような時でしょうか?まさに、戦争の時なんですね。神様がその反逆者と戦うために立ち上がられる時なのです。まさにその時、主の兵士たちが出てくるのです。「主よ私をお用い下さい」と戦いの最前線に自ら望んで出てくるのです。詩篇のこの節は、とても単純に見えますが、それをよく見てみると、深い意味があります。
では次に、これはどこで起きるのでしょうか?神様が「私と共に戦う者はだれか」と主の民を招集される時、神の民は「私が行きます」と、その召しに喜んで答えますが、それは、どこにおいてなされることでしょうか?
最後の戦いは、どこで起きるのでしょう。この「聖なる山々」とはどこでしょうか?宗教改革者のジェロームは、この山を「シオンの山」と具体的に訳しました。英語や中国語などの訳では、「最も美しい装いをした山々」という表現になっていますが、ジェロームは、そうではなくて、ここで彼らは、戦いの最前線、シオンに立っていると訳したわけです。神様は、最後の戦いを、罪に対して、反逆者であるサタンに対して起こされるのです。その時、神様の民は、自ら喜んで自分を捧げ、主の戦いに参加することでしょう。その戦いの時、彼らは、シオンの山に立つのです。