そしてこのことがまさに、戦いにおいて勝利するためにイスラエルの民がしなければならない最後の経験でした。それは聖所に入る経験だったのです。この靴を脱ぐということは、そういうことを象徴していたのです。習慣や、これまでの歩みをもう一度ここで再度吟味し、清められて神様の前に立つのにふさわしい至聖所の経験が、ヨシュアに求められたんですね。最近では教会で本当に神様を畏れない、そういうことが多く行われているんですね。
靴を脱ぎなさいというのは、ここは聖なる所である、神様が臨在される聖所である、もう一度聖霊によって洗われ、神様に近づきなさいと言われたのです。エリコが完全に崩壊する時、この世界が神様の審判を受けて滅びようとしている時、最後の裁きの天災がもう目の前に迫っている時に、神様がしなさいと言われたのは、心に割礼を受けて、過越しの祭を行って、至聖所の経験をするようにということでした。そして彼らは最後に、エリコの城壁を回ることになりました。そしてエリコの城壁は崩れ、審判がくだされたのです。
エリコの人々は、荒野を旅するイスラエルの人々の驚くべき奇跡の噂を聞いたりして、悔い改める機会がたくさんあったのです。エリコの人々は今までいろんな奇跡があったんですけれど、その奇跡を与えても、与えても、エリコは悔い改めませんでした。イスラエルが、ヨルダンも渡って、紅海も歩いて渡って来たのを見たのに、エリコの人々は悔い改めようとしなかったのです。ですからイスラエルは、神様の裁きを下す使者としてエリコの城壁を崩すようになったんですね。彼らは滅ぼす働き、裁きの働きに加わったんです。
これは終わりの時代の私たちの働きなんです。霊的な最後の戦いを目の前にして、割礼を受けて、過越しを行い、至聖所に入り、神様の裁きのメッセージである三天使の使命を伝えるのです。そのような人々は、イエス様の再臨が、十年後二十年後と考える人々ではなくて、本当に今日、明日イエス様が来られるかのような生き方をする人々、もう世の中から見れば馬鹿げた、気が狂ったとしか思われないような、そのような民を通して神様は最後の働きをされようとしているんですね。これが終りの時代のバビロンの教会、バビロンの城壁を崩す人々の働きなんですね。