一人の罪による全体の災い
アカンのときも同じだったんです。アカンの罪によってイスラエルの民は負けたんですね。同じように終わりの時代にも、教会の中のたった一人の罪によって、全イスラエルに災いがもたらされることがあります。一人の人、一人の罪、残されている罪、こういったものによって、教会が大混乱におとされてしまうことがあるんですね。
でも、神様はこのアカンを探し出される時に、本当に憐れみと義を尽くされたのです。くじの範囲が一つひとつせばめられていくたびに、アカンはいつでも悔い改めて告白出来るようにされたんです。ところが最後の最後まで、アカンは神様の勝利と力とそういったものを見ながらも、自分の罪を告白しなかったんですね。
皆さんよく考えてみて下さい。私たちにそのような罪はないでしょうか。いくら神様の力を見ても、み業を見ても、神様の前に断ち切られていない罪が私たちのうちに残されていないか、もう一度調べてみる時代なのです。
教会にとって最も恐ろしいことは、最も恐るべきことは、世俗的な人とか、反対するような、冒涜するような人ではないのです。神様の前に矛盾した性格を作る人が、最もこの教会を滅ぼしていくのです。恐れなければならないんです。神様に従うと公言している人の内にある矛盾こそが、私たちを、いろんな人たちをつまずかせてしまうですね。アカンは、どんどんくじがひかれていって、だんだんくじが自分に近づいて来るのを見ながら、自分の罪を告白しませんでした。くじが最後の最後に、自分に来るまで、彼は告白しようとしませんでした。自分の罪を認めようとしなかったのです。ごまかせるものなら、このまま黙っていようと決心していたのですね。アカンが持っていたむさぼりの心というのは本当に恐ろしいものです。