こんにちは
テモテへの第二の手紙4章を見ると、パウロはローマの監獄にいた時、自分の死を予期しテモテに手紙を書きました。ご存じの通り、テモテはパウロの霊的な息子です。 パウロは処刑される前に彼を一目見たかったのです。そこで冬になる前に早く来てほしいと要請します。また牢獄が寒いので、暖かい上着と聖書も持って来るように頼みました。 その手紙をもらったテモテは自分が任されているエペソ教会に代理の責任者を置き、急いで船を探しました。しかし、船は最後の出港をした後でした。 地中海の冬はとても寒く、春まで船は運行しないため、テモテはその最後の船を逃したので、冬が過ぎて春になってようやく船に乗ってパウロに会いに行きました。 ところが、パウロはもういませんでした。そこにいた人の伝承では、ドアの音が聞こえただけでも“私の息子テモテが来る”と思っていたパウロでしたが、冬が過ぎる前にネロ皇帝によって殉教しました。
なぜこのようなシナリオになったのでしょうか? テモテが船を逃した時、“最後の船は出航したが、神様が奇跡的に違う船を用意して、テモテはその船に乗って殉教する前のパウロの最後の姿を見て大きな恵みを受けた”。そして、パウロの遺言を聖書に記録したとすれば、どれほど良かったでしょうか
または"テモテは春になってやっと船に乗ったが、奇跡的にその時まで、パウロが生きていてパウロの最後の姿を見た。"なぜ、このようにならなかったのでしょうか。 奇跡が起きて、パウロとテモテの涙ながらの感動の再会が聖書に記録されれば、それこそ素晴らしいのではないでしょうか?
私たちの人生で、理解できないことに会う時、当惑することになります。 なぜ病気になるのですか? なぜ私にこんな問題が起きたのだろう? 義人にどうして苦難が来るのか。 苦難そのものよりもその苦難がなぜ来たのかがわからず苦しむのです。 肉体的苦痛より心の中の苦悶が解決されず、笑顔が消えてしまいます。 肉体的苦痛がどれほどでも、心に平安があれば、顔は輝きます。
今日はヨブ記の学びを通して、私たちの未来について、より大きな確信と大胆な信仰をもつことになります。ヨブ記を悟った人は、どんな状況でも動揺しない信仰を持つことができます。 一時間では、ヨブ記をすべて扱うことはできないため、最後の時代を生きていくという観点から「ヨブの経験、私たちの未来」というタイトルで話をしたいと思います。