ヨブ以外に、このような艱難を経験した聖書の代表的人物はヤコブです。ヨブの艱難とヤコブの艱難、最後の大艱難の関連性を見てみたいと思います。
ヤコブの艱難とは何でしょうか?
エサウの軍隊がヤコブの一行を殺すために戦士を連れてきた時、ヤコブはヤボク川で神様と組打ちをします。 ヤコブがだまして長子の特権を奪った罪を悔い改めていなかったら、神様は彼の命を保護できなかったのです。
大艱難の時も同様です。 神様の民が恐怖と悩みで苦しんでいる時に彼らの前に悔い改めていない罪が思い出されるなら,彼らは圧倒されます。絶望し彼らの信仰はくじけて、神様に救いを訴えることのできる大胆さを持てなくなるのです。ですから、神さまの残りの民はたとえ自分の無価値さを感じても、悔い改めていない罪を持っていないのです。
最後の大艱難という期間内に精神的な苦しみが極限に達します。 その経験を聖書で「ヤコブの悩みの時(ヤコブの艱難)」といいます。 エレミヤ30:5-7を読みます。
「主はこう仰せられる、われわれはおののきの声を聞いた。恐れがあり、平安はない。 子を産む男があるか、尋ねてみよ。どうして男がみな子を産む女のように/手を腰におくのをわたしは見るのか。なぜ、どの人の顔色も青く変っているのか。 悲しいかな、その日は大いなる日であって、それに比べるべき日はない。それはヤコブの悩みの時である。しかし彼はそれから救い出される 」。
最後の大艱難= 小艱難 +大艱難(+ヤコブの艱難)
サタンは神様にヤコブを非難し、罪のために彼は滅びるべきだと主張しました。ヤコブが祈りで夜を明かした際、サタンは彼の罪を思い出させて、彼を失望させて神様への信頼の手を放させようとしました。 しかし、ヤコブは、自分の罪を悔い改めて、神の赦しを嘆願しました。
その夜サタンはヨブにしたのと同じ告発をヤコブにしました。そして最後の時代の残りの民にも繰り返すのです。「お前は何も変わっていない。 悔い改めは無意味だ」「お前はだめだ」そのように言われ続けても、「いや、神様が私のすべての罪を許してくださった。私はそれらの罪をもう持っていない」。 この確信をしっかりと持ち続けるかどうかの戦いです。