ヨブは羊を燔祭に捧げキリストの許しを受けて、その愛によって変えられ、純潔で正直な人となって、神様を恐れながら、悪から離れた人でした。 ですから自分の無価値さを感じていても信仰による義をサタンに主張できるのです。 しかし、サタンと友達に非難される時、苦しむのです。 "人が何と言っても、私は信仰による義を信じるのに、友達は、罪の結果で苦難が来たと言う・・・。 今まで流した小羊の血と悔い改めは無駄だったのか?" この世の中のすべての人たちに非難されサタンが告訴する際の苦しみ、苦難、神様と分離されているような痛み・・・。この苦難はどんな病気、どんな苦痛よりも大きなものです。 これがヤコブが経験した艱難です。
このような苦難は理論では学ぶことができません。 苦難の学校は机の前では学ぶことができません。苦難は自分が直接経験するまでは理解できません。 私たちが最後の大艱難を勝利するためには、今、苦難を受けなければなりません。 どんな苦難でしょうか。病気になったり、事業が失敗する苦難?全財産をなくす苦難? もしくはカトリックでいう苦行でしょうか?
私たちは今どんな苦難を受けているのでしょう?
使徒パウロが言う肉体の苦難は何でしょうか?
パウロは「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」(ヘブル12:4)と述べます。
「なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである 」(ヘブル2:10)
キリストは神様として完全でした。 しかし、彼は苦難によって、すなわち罪との戦いで勝利することによって、救い主として完全になりました。
(ヘブル5:7-9)「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。 彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、 そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり」。
イエス様も苦難によって従順を学ばれました。そこで彼に従うすべての者の救いの源となってくださると約束されました。
誰にでも救いの源となってくださるのではなく、服従する者にです。
誰に? 服従する者に!