「律法主義だ、律法主義だ」と言いますが、戒めを守ることが律法主義になるのではありません。律法主義とは、律法を守った自分の行為を義として自分の力で救いを得ようとすることです。言い換えれば、「救われるために神の戒めを一生懸命に守るべきだ」「あれもだめ、これもだめ、今日も頑張るぞ!」。そのような動機で律法を守ることが律法主義ということです。皆さんはどんな人ですか? "私は十字架の恵みによって救われたから、戒めを守ろうと努力する必要はない" 。皆さんそう思いますか。現代の大半のキリスト教徒がこのように教えられています。しかしある人は"私は十字架の恵みによって受けた救いを感謝し、神様の御心のままに生きるために戒めを守ります"と言います。
□皆さんは次の三種類の中のどの人ですか? 見てみましょう
①救われたから戒めを守る必要はない(十戒の廃止論者)
このように言う人々があります。そうでないとこのように言う人々があります。 人間は弱くて戒めを守ることはできない(十戒の廃止論者)
この二つは別々のように聞こえますが、結論は"戒めを守る必要はない"と"守ることはできない"という立場で、両方とも十戒を廃止する見解です。
そして二番目、これが律法主義です。
②救いを受けるため、戒めを守らなければならない(律法主義)
そして三つ目、
③神様を愛するから神様の御心通りに戒めを守る(信仰による義人)
これがまさに信仰による義です。
最近では“信仰による義”をただ「イエス様の血の功績を信じれば義人になる」と考えていますが、これは①番と同じ立場で、「十字架で救われたのだから戒めを守る必要がない」という間違った理解です。それは誤りです。“信仰による義”とはこのようなものではありません。今日は信仰による義のテーマを説明する時間ではないので、次の機会に話すようにします。