ところで、まだ大事な問題が解決されていませんでした。 "神様を信じようとしても、食べるものがないと信じることもできないですよ"、そう言うかもしれません。そうです。食べることができなくて、どうして信じていけますか? 神様がここに解凍を与えられなければなりません。イスラエルの民がエジプトを出発してひと月になって、持ってきた食料が全部なくなりました。イスラエルの民が食べるものがなくなった時、どのようにしましたか。 神様をうらんでモーセをうらみ始めました。 "神様を信じる私たちは飢えて死にそうだ!"とひどい不平を言いました。
□出エジプト記16:2、3にこのように書かれています。
「その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。
砂漠の中で食べるものもなくて、"信仰もいいが、食べてこそ、信じられる。神様がここで答えてくれないと、お腹もすいてきたし、エジプトに戻って、食べるために生きる人生でも、そんな風に生きて死ぬほうがいいぞ"、そう思うのが当然です。それで神様が"これから私が責任を取って食べさせる"と言われました。それでどうされましたか。マナを与えられました。神様に仕える人が飢えて死んだら、誰の恥ですか? 当然、神様の恥です。それで自ら食べ物を降らせ、民を食べさせられます。
これで、食べるために生きる問題は解決されました。あとは、人間が存在する理由である、神様を求め、その方を礼拝する問題だけが残りました。何を礼拝するのか? 誰を礼拝するのか? それが神様とサタンの善悪の大争闘の焦点です。
マナを与えられた時に、一つだけ要求された事があります。マナを与えるが、金曜日には他の日より2倍多く集め、安息日にはマナは降らないから取りに出てはならないと言われました。ほかの日は二倍集めると腐りました。しかし、安息日には腐らないようにすると約束されました。聖書から確認してみましょう。
□出エジプト記16:23-30です
「モーセは彼らに言った、「主の語られたのはこうである、『あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい』と」。彼らはモーセの命じたように、それを朝まで保存したが、臭くならず、また虫もつかなかった。モーセは言った、『きょう、それを食べなさい。きょうは主の安息日であるから、きょうは野でそれを獲られないであろう。六日の間はそれを集めなければならない。七日目は安息日であるから、その日には無いであろう』。ところが民のうちには、七日目に出て集めようとした者があったが、獲られなかった。そこで主はモーセに言われた、『あなたがたは、いつまでわたしの戒めと、律法とを守ることを拒むのか。見よ、主はあなたがたに安息日を与えられた。ゆえに六日目には、ふつか分のパンをあなたがたに賜わるのである。おのおのその所にとどまり、七日目にはその所から出てはならない』。こうして民は七日目に休んだ」。
誰のための聖なる安息日ですか? 人の聖なる安息日ですか? いいえ、主なる神様の聖なる安息日です!
神様が食べ物を与えられた後、何を要求されましたか? 「安息日を守りなさい」。 安息日は何をする日ですか。どんな日ですか? 「天と地と海と水の源とを造られたかたを伏し拝」む日です(黙示録14:7)。安息日に礼拝しなさいということです。食べることと礼拝とは切り離すことができないので、食べる物と礼拝とを結び付けられました。 "食べてこそ、信じることもできる"という問題はもう解決されました。