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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

二つの契約 8

2013年03月13日 | 日記

                                          世界らん展より


    ひまわりさんより(3月13日)

今日は帰りが遅くなったので、スーパーの、半額になった海苔巻でも買って行こうと思って立ち寄ったら、ばったりYさんとお会いしました。いろいろ話が尽きないので、立ち話もなんだと思って、ちょうど祈祷会の日ということもあり、我が家の祈祷会にお誘いしました。讃美歌を2曲歌い、賛美歌の中にある文語訳の交読文を交互に読みあい、お互いの証をし、心にかかっていることについてお祈りをしました。我が家の祈祷会は、息子が休みの時は3人ですが、いつもは夫と二人のことが多く、お客様が来られるのは珍しいので、感謝でした。でも、最近は、聖書のイエス様の約束がすごくありがたいと思えるようになってきました。「また、よく言っておく、もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは3人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19,20)。このように約束してくださる神様に感謝いたします。

    二つの契約 8 肉の要求との絶えざる戦い

何年も前に、私は町のショッピングセンターの前を歩いていました。私はかつてアイスクリームが大好きだったんです。「アイスクリームを食べるべきではない」という思いと、後頭葉が「アイスクリームを食べたい」と叫ぶわけですね。葛藤があります。大きな葛藤です。そのショッピングセンターの廊下を歩いていました。そこでサーティワン・アイスクリームの看板を見たわけです。日本にもありますね。その看板を見た瞬間、後頭葉が叫びだすのです。「アイクリームが食べたーい」。「だめだ、だめだ」という部分もあります。「あれを食べなければ死んでしまうぞ」。 歩いていたら、そのアイスクリーム屋さんを通り過ぎるところでした。突然、後頭葉の部分が私に命令しました。これが肉の欲ですね。私の霊は、前頭葉にあるわけですけれども、突然私の肉が命令するわけです。「止まりなさい。右向け右。3歩前進。財布を出しなさい。お金を払いなさい。トリプルアイスクリームをください、と言いなさい」
そして、私の記憶の部分が私を欺こうとします。「最後にアイスクリームを食べた時は本当に美味しかったなあ」。記憶が働いて、よだれがどんどん出てくるわけです。過去の、アイスクリームを食べた楽しい思い出がよみがえってきます。誘惑されるわけです。その日私はアイスクリームをいっぱい食べました。しかし、しばらくすると、美味しいという気持ちがだんだんなくなって、後悔の念に駆られました。また誘惑に負けてしまった。なんでこんな事になってしまったんだろう。本当に自分はだめな、弱い人間なんだ。アイスクリームという小さな自分の欲望にすら勝利できない・・・。私たちの霊の戦いというのは現実のものなのです。毎日毎日、その瞬間、瞬間、そういった自我との戦いがあるわけです。







二つの契約 7

2013年03月12日 | 日記

                                         世界らん展より
    ひまわりさんより(3月12日)


1年前の今日、どんなことをブログに書いていたのか、見てみました。

《  ひまわりさんより(2012年3月12日) 》
今日読んだ本の一節をご紹介いたします。「ルーテルやウェスレーに与えられた光は、人々を死に備えさせたが、第三天使の光(黙示録14章)は、死のとどかないところを通る一団の人々を完成することによって、死に終わりを来たらせるものである」。
キリストの十字架を信じ、罪を許された人は、死後、天に移される信仰を受けたのですが、私たちが信じていることは、生きて再臨のキリストに会う備えをするという事です。》

 私は気が変わりやすく、今思っている事でも1か月もすると全然別のことを考えているというような人間です。でも1年前の文を読んで、「生きてイエス様をお迎えする」という思いは、この時よりも、今の方がもっと強くさせていただいていると思ってびっくりしました。真理というのは、人を移り気にするのではなくて、時間が経つごとにその真理が深められていくのだなあと思いました。

  二つの契約 7  脳の働きと信仰

私たちの脳は三つの部分に分けられます。前頭葉というのがありまして、ここに私たちの理性とか判断力とか良心とかがあるのです。そして、前頭葉の真ん中の部分に、記憶力があります。後頭葉、ここは、私たちの感情とか、激情とかいうものをつかさどるところです。また、食欲とか性欲とかそういった欲情もこの部分はつかさどっています。ですから、脳の中で、大争闘が行われているわけです。
後頭葉の部分で、食欲が叫ぶかもしれません。「肉が食べたい」とか、「いろんな体によくないものを食べたい」と、叫ぶことがあるわけです。後頭葉の真ん中の部分に、小さいのですが、私たちの習慣をつかさどっている所があるらしいのです。そこに、自分の好む物、好まない物の記録が残されているのです。その記憶が、後頭葉の部分と協力して働くのです。





二つの契約 6

2013年03月11日 | 日記


   ひまわりさんより(3月11日)                 世界らん展より

今日は、夫のやっているデイサービスで、お年寄りの個別機能訓練に行きました。みんなで行うリハビリやレクレーションと違って、個別機能訓練では、一人一人の状態を見ながら、その人に合ったリハビリを行います。それである人は「私のために一対一で訓練してくれるの!?」と言ってとても喜んでおられました。10人の中の一人としての対応でなく、自分一人のための訓練となると、皆さんとてもやる気を見せてくださり、顔が輝いて見えました。それで思ったのですが、お祈りというのは、私たちと神様との、一対一の交わりなのだということです。私たちは、全天の支配者であられるお方と、個人的に交わることができるのです。本当に素晴らしい経験だと思いました。

   新しい契約と古い契約(デビット・カン講演6)

私たちは契約の民です。契約とは何ですか。契約とは言いかえれば約束ですね。日本語では契約を交わす時に甲と乙といいますよね。身分の高いものと低いものとの間で交わされる約束です。そして、神様と私たちとの間には契約関係があるわけです。
今朝は二つの契約についてお話ししたいと思います。聖書には、新しい契約と古い契約があります。イエス様が印する働きをまだ終えておられない理由は、多くのSDA が古い契約の民にとどまっているからです。それは福音の力と関係があるのですけれども、ローマ1:16を読みたいと思います。「私は福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる物に救いを得させる神の力である」。福音は信じる者に救いを得させる神の力、とありますね。福音とは、良いおとずれにとどまらず、救いを得させる神の力なのです。義は単なる概念や知識ではなく、力なのです。
イエス・キリストは生命のパンです。イエス様を食べる、つまりイエス・キリストを招き入れることが私たちにはできるのです。イエス様を信じるとは、単にイエス様に関する情報を知っているということだけではありません。私たちの人生において、魂がイエス様を経験することであります。イエス様に心に住んでいただくことであります。これは本当に強力な、力強いものなのです。この福音が、現在の罪の状態から私たちを開放してくれるのです。過去の罪から私たちを許すことができるだけではなくて、現在の罪の強力な縄目から私たちを解放してくれる力があるのです。私たちの体のうちには、まだ古い罪深い性質があります。私たちの脳にも、罪の性質がしみ込んでいます。




二つの契約 5

2013年03月10日 | 日記

               朝の散歩で見つけたカワズ桜、ツクシ、菜の花です

     ひまわりさんより(3月10日)

今日は朝から、息子は友達からもらった、こわれたバイクの修理とさび落としをしていました。雨ざらしになっていたらしく、さびがすごかったのですが、いろんな道具やさび落としを使って、かなりきれいになってきていました。私は「バイクを磨くだけじゃなくて、心も磨かなきゃね」とつい言いってしまいました。しばらくしてお昼になったので、一時作業を中止した息子に、今度は夫が、「バイクのさびだけじゃなくて、心のさびも落とすんだよ」と笑いながら言っていました。夫婦して全く同じことを言っていたのでおかしくなりました。夫が、「じゃあ、心のさび落としはどうやる?」と聞いたら、息子は、「心のさび落としは、人からの忠告の言葉だね。それで磨かれていくよ」と答えていました。実は息子は私に似て、小さい時から、人の話を聞かずに自分の思いで行動するところが強かったのですが、こんなことを考えていたんだと思いました。(朝の散歩で見つけたカワズ桜、ツクシ、菜の花です)

    二つの契約 5 神の民の用意ができていない!

今現在、世界中で多くの人たちが、迫害にあって苦しんでいるのを、皆さんご存知ですか。病気や投獄、様々な試練にあって苦しんでいる人がいるのをご存知ですか。私の伝道本部のスタッフの数人は、今現在中国で投獄されております。イエス様が間もなくおいでにならなければいけません。イエス様のおいでを遅らせているのは、神の民の用意ができていないからです。印するプロセスがまだ終わっていないからです。神の民のほとんどが、まだ世俗的な生き方に浸っているからです。
天国で金の冠をいただくために私の名前が呼ばれる時に、私は二つのことをしたいと思っています。何代も何代も前の曾々おじいさんであるアダムがやったように、私も、もらった金の冠をイエス様にささげたいと思います。アダムと同じように、「私がここにいられるのはあなたの恵みのおかげです」と言いたいのです。そしてイエス様の胸の心臓に触ってみたいと思います。

天国では時間がいっぱいあります。永遠に時間が与えられていますから、何千何万という人が、何百万という救われた人たちが、イエス様と一緒に時間を過ごしたいと思ったとしても、その中で私がある程度イエス様と一緒に過ごしたからといって、誰も文句は言わないことでしょう。みんなが忍耐のある人たちですから。
一度でもいいから、イエス様の胸のあたりに、心臓のあたりに触れてみたいです。もう、前からそれをやりたいと思っています。そして、イエス様にお詫びを言いたいのです。「私が地上であなたを傷つけたことを本当にごめんなさい」と。でも天国では変わってきます。私が天国に住みたいと思う理由は、永遠にわたってイエス様の御名を讃えたいからです。それは本当に輝かしい日となることでしょう。






二つの契約 4

2013年03月09日 | 日記


     ひまわりさんより(3月9日)

今日の朝、ジョイと散歩をしていたら、川べりに早咲きのサクラ(カワズ桜?)が少しだけ咲いていました。季節がくるとこうやって必ず花は咲くのに、人の品性はどうしてなかなか花開かないのだろうと思いました。神様の時、収穫の時は近づいていると思うのですが・・・。ところで、夕方になって、ある姉妹が初めて我が家を訪ねてくださいました。この方とは面識はほとんどなかったのですが、私の証と息子の証をお渡ししたことがあり、また、自分でも聖所の研究をされたことがあるということで訪ねて来られたのでした。いろいろ話していると、信仰面での共通点が多く、3月末に行われるデビット・カン先生の講演会にも出席される予定だということでした。話の中でこの方が、「ジャガイモなんかを煮ていると、最初は固いけど、ある時から一気に煮えるように、今は分からなくても、神様の時が来ると、一気に真理が広がっていくのではないか」ということを語られ、まだ見てはいないけれども、必ずその時がくることを信じて歩んでいきたいと思いました。(庭の紅梅、白梅が満開になりました)

     鹿のように(デビット・カン講演4)

何年か前に、韓国で、ある男性が―――筋ジストロフィーという病気だと思いますが、その病気にかかりました。その人は40歳を少し過ぎたぐらいの人でした。病気のせいで、筋肉が縮んでいくらしいのですが、だんだん、10歳か11歳ぐらいの子供の大きさになってしまいました。ある時、彼が住んでいる地域で集会を開いたら、その人は、13歳の息子に抱っこされてやってきました。彼のために特別なソファーを用意して、横になりながら話が聞けるようにしました。彼の体は曲がっていて、枕はいらないくらいでした。
私が説教を終えるたびに、毎回息子さんが私の所に来て、「父が先生とお話ししたいと言っています」、と告げました。彼が亡くなる少し前に、私と話をしたいと呼ばれました。彼は私の目を見て、私に尋ねました。「先生、イエス様は本当に間もなくお出でになるのでしょうか」 「その通りです。確かに彼はお出でになります」と答えました。それから、また同じ質問を繰り返すのです。「先生、イエス様は、本当に間もなくお出でになるのでしょうか」 「はい、その通りですよ」 彼はそのときこのように言いました。「イエス様がおいでになるとき、私はどうすると思いますか。神様は私に新しい体を与えてくださるのです。鹿のように私は走りますよ。イエス様の所に走っていって、両手を高く上げて、イエス様にこういうふうに言おうと思います。『長い間イエス様がお出でになるのを待っていました。どうしてそんなに長くかかったんですか。お会いできてうれしいです。あなたが私の神様です。そして救い主です』」