SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ202

2014年05月26日 | 日記

   

 福音の力を体験せよ 202  (最終回)

罪は天国に入ることができません。従って、罪を捨てない罪人は天国に入ることができません。ですから私たちは、イエス様に罪を明け渡さなければいけないのです。イエス様の愛が、私たちを完全に主導するようにしなければなりません。今日は恵みの日であり、救いの日です。まさに今日、私たちは、イエス様のうちに完全にとどまる方法を学ぶべきです。そして、何も私たちを揺り動かすことがないようにしなければなりません。まさしくそれが、印される経験なのです。 

もし私たちが、イエス様の内に完全に宿る方法を覚えられないならば、恩恵期間が終了した後で、どうやって艱難の時代を生きていけばいいのでしょうか?ですから私たちは、恩恵期間中である今、イエス様の内に住む方法を学び、倒れない術を会得すべきなのです。イエス様が与えてくださっている恵みをしっかりつかみましょう。それからイエス様の内にとどまりましょう。そして、生涯において豊かな実を結べるようにしましょう。天の神様が、皆さんを大いに祝福してくださることを願います。

 (福音の力を体験せよは、本日で最終回です。福音の力を体験していただけましたでしょうか。なおこの本は、無料で配布しておりますので、ご希望の方は下記メールアドレスまで連絡先をお知らせください)         hideki-hotmail.co.jp


  

      神の火    第1回   

               デイビット・カン   

 

    現代の真理を語る人

私たちは、創造主であられる神様を、こうして礼拝しています。神様が創造主であられるということは、その神様が、皆様お一人おひとりに呼吸をさせて下さっておられるということです。今朝、神様が私の心臓に鼓動を与えて下さっています。ゆえに神様こそ、私たちの讃美を、ほめたたえることを、永遠にわたって受けるにふさわしいお方です。私たちが生きて、こうして呼吸し続けている限り、私たちは自分のすべてを神様に負っている者なんですね。

私たちが天国に行きました時に、そこで礼拝する様子、方法は、今とは全く異なったものとなっていることでしょう。私たちがこの世で捧げる礼拝というのは、いろんな人間的なものに実際は汚されています。人間でありますから、私たちは各自いろんな思い、異なった考えを持っています。しかし、天国で捧げられる礼拝というのは、全く純粋な、神聖な、完全なものとなります。その礼拝を目指して、私たちは安息日ごとにその練習をしているのです。

まず私たちがしなければならないのは、神様の火、神様からの火によって、すべての私たちの汚れ、罪を取り除いていただかなければならないことです。それを私たちは、まず必要としているわけですね。ここで、祈りのひと時を持ちたいと思います。

「天のお父様、こうして再びあなたのみ前に出て、礼拝を捧げるこの機会を感謝いたします。あなたのみ座にこうして近づく時に、聖なる神様であるあなたが、私たちを、また私たちの捧げる礼拝を受け入れてくださいますように。今、私たちの心を清めて下さるようにお願いいたします。幼子のような心を私たちに与えてください。あなたの霊とまことをもって、私たちを祝福して下さいますように。そして、この捧げる礼拝があなたに受け入れられるものとなりますように。イエス様のみ名を通してお祈りいたします。アーメン」

 

 

 

 


福音の力を体験せよ 201

2014年05月25日 | 日記

    

  福音の力を体験せよ 201

“悔い改めない、たった一つの罪でも、あなたの前で天の扉を閉ざすのに十分である。なぜなら人間は、罪の汚れを持っていては決して救われないからである。”(ST1890,3,17)

実に説得力のある言葉ではありませんか?もしも皆さんが、ある人に対して心に憎しみを抱き、それを放棄しないでいて、そのような心の状態で天国の門をたたいたとしたら、天の父は皆さんを中に入れてくださるでしょうか?あるいは嫉妬や怒りを抱いたままの状態で、天国に入れてもらえるでしょうか?もしもそのような罪を抱いたまま死んだとしたら、復活の日にはどうなりますか?復活するときには、生前に抱いていたのと全く同じ思いと感情のまま、よみがえることになるのです。

   霊とまことの礼拝 24

お祈りいたします。天の恵み深い神様、神様は私たちの、命と健康とすべての必要を満たしてくださいました。さらに私たちが、まことの礼拝をする者となることが出来る道を開いてくださいました。肉と偽りに満ちた礼拝ではなくて、聖霊に満たされ、真理にあふれた真心からの礼拝を捧げる者となることが出来ますように、私達をお導き下さい。私たちの心から罪を取り除いてくださり、御言葉によって生きる事が出来ますようにお助けください。一歩一歩神様が導いて下さり、この地上において、まことの礼拝を捧げる教会が現れますよう、どうぞお助けください。そしてその中に、ここに参加しておられるお一人お一人、このメッセージを読まれる方が、入ることが出来ますようにお助けください。そのようにして下さる神様の導きを心より感謝して、救い主、主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン (霊とまことの礼拝 ・ 最終回)


福音の力を体験せよ 200

2014年05月24日 | 日記

  福音の力を体験せよ 200

“あなたは罪の中に陥っているだろうか?そうであれば、憐れみと赦しを神に求めなさい。罪人のために、恵みが今でも提供されている。我々を後退させたすべてのものから立ち去るようにと、イエスは我々を呼んでおられる。もし我々が、聖霊の訴えの声に耳を傾けるなら、神の祝福を受けるであろう。”

もしあなたがたが主に立ち返るならば、あなたがたの兄弟および子供は、これを捕えていった者の前にあわれみを得て、この国に帰ることができるでしょう。あなたがたの神、主は恵みあり、あわれみある方であられるゆえ、あなたがたが彼にたち返るならば、顔をあなたがたにそむけられることはありません。”(歴代志下30:9)

“あなたが罪の中にとどまっている限り、あなたはサタンの領土内にいるのである。もしもあなたが病んで、悔い改めずに死ぬならば、滅亡があなたを待っているであろう。”(RH1889,12,24)

     霊とまことの礼拝 23

人間の本質ということについて、人間は、「自分の出世のためには、他人を邪魔者にするか、踏み台にするのが人間の性質だ」、と言われています。他人を見た時に、相手を自分のための邪魔者とするか、それともその人を踏み台にしてのし上がっていこうとするか、そういう精神は人間の罪の性質の現れなのです。人を見た時に、その人が自分より上なのか下なのか判断する、上だったら邪魔者にする、下だったら踏み台にする、こうやって、人間は人と自分を比べながら生きているのです。結局、自己主張、自己至上主義、こういうものの中で生きていくのですね。この性質が、イエス様によって砕かれて、そして罪が放棄させられて、心が新しくされて、聖霊に満たされた時、心の中は穏やかにされます。神様が、私たちの心に平和を下さるのです。私たちと神様の間に平和が訪れます。私たちと人々の間に平和が訪れるのです。その時から、この地上に天国が始まって、そしてそのような人たちが、共に集まり、礼拝を捧げる所、それが教会であり、それが「霊とまこと」の礼拝です。このような礼拝が行われることを、今神様が求めておられるのです。私たち一人一人に、このような礼拝を捧げてほしいと、神様は願っていらっしゃいます。私たちがそのような礼拝を捧げる教会となることが出来ますようにお祈りしたいと思います。  

お祈りいたします。天の恵み深い神様、神様は私たちの、命と健康とすべての必要を満たしてくださいました。さらに私たちが、まことの礼拝をする者となることが出来る道を開いてくださいました。肉と偽りに満ちた礼拝ではなくて、聖霊に満たされ、真理にあふれた真心からの礼拝を捧げる者となることが出来ますように、私達をお導き下さい。私たちの心から罪を取り除いてくださり、御言葉によって生きる事が出来ますようにお助けください。一歩一歩神様が導いて下さり、この地上において、まことの礼拝を捧げる教会が現れますよう、どうぞお助けください。そしてその中に、ここに参加しておられるお一人お一人、このメッセージを読まれる方が、入ることが出来ますようにお助けください。そのようにして下さる神様の導きを心より感謝して、救い主、主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン

 

 


福音の力を体験せよ 199

2014年05月23日 | 日記

    

 福音の力を体験せよ 199 

罪はどんなものであれ、私たちを神から引き離してしまう事実を悟るとき、ついに私たちは、罪から救う救世主〔メシア〕が必要であることを実感することでしょう。しかし、どんなに罪を犯しても、「神の義が私たちに保証されている」と信じるならば、救世主の必要感はなくなってしまうでしょう。

そして今日、教会において、人は罪を犯していても救われるとの教えが、ますます増え広がってきています。

さらに、「罪は神から私たちを分離させない。私たちは罪を犯さざるを得ない者だから、イエス様が来られて私たちの肉体を完全に変えてくださるまで、罪を犯し続けるのは仕方のないことである」と主張する人たちもいます。しかし、それは真理ではありません。

   霊とまことの礼拝 22

これがなかなか出来ないんです。自我が傷ついた時、私たちはやっぱり自分の感情に流されてしまうわけですね。自分の思いで、聖書はこう言っているけど、私は人間だからと、自分の思いを優先させてしまう、そうすることによって、イエス様が心に入られることを拒否してしまうのです。ですから私たちは、どんな時にも、イエス様が心に入ってきて下さるように、御言葉によって歩むという経験をしていく必要があります。

その次の文章を読んでみたいと思います。「私たちが誇る自立と自己至上主義はサタンの配下であるしるしとしてその真の邪悪さが示される。人間の本性は、絶えず自己を表現しようと闘い競争している。しかし、キリストに学ぶ者は自己、誇り、至上権を愛する心がなくなり、心の中は穏やかになる」(祝福の山18p)。

この、心の中が穏やかになるという経験、心に平和が訪れる、こういう言葉を聞くと、本当に過去の自分と言うのは、怒り、怒りだけだったのですね。もう何か無性に腹が立つという事がありました。若いころ、理由もないのに、バスに乗っていたら、むしょうに何か腹が立つのですね。バスに乗っていて、何かワーと叫びたくなるような、そういう思いが起きたことがありました。本当に不思議ですけれども、この怒りの心が、ふつふつとわき上がってくるのです。だから、人から何か注意されようものなら、もう本当にすさまじいばかりに怒ります。でも、一応人間は自分より強い相手に対しては、何とかそれは収める、でも弱い相手だったら、その怒りをまともにぶつけて行くわけですね。そうやって、この人間の心の中にある、自分の心の中にあるこの怒り、これを神様は静めてくだいます。


福音の力を体験せよ 198

2014年05月22日 | 日記

  福音の力を体験せよ 198

この事を忘れないでください。イエス様は、皆さんの心の王座を、サタンと仲良く分け合うことはおできになりません。もしもサタンに屈服すれば、イエス様におできになるのは、外から心の扉をたたき続けることだけです。皆さんがイエス様に立ち返り、回復される心の準備ができるまで、忍耐強く待たれるのです。 

“神は、我々の罪のために我々をあきらめたりなさらない。我々は失敗をして、聖霊を悲しませることがあるかもしれないが、我々が悔い改め、悔恨の念を抱いてみもとにくるとき、神が我々にそっぽを向かれることはない。除去されるべき障害物がある。悪感情が抱かれ、誇りや自惚れ、いら立ちや不平が居座ってきて、これらすべてのものが、我々を神から分離させるのである。罪は告白されねばならない。また心の内には、さらに深い恵みの働きがなければならない。”(FW35)

    霊と間元の礼拝 21

私たちの自我に触れるような事が起きた時に、たとえばひどい事を言われて、あぁ、あの人にもう会いたくないとか、あぁ、あの人には仕返しをしてやりたいとか、そういう時に聖書の御言葉は「敵を愛しなさい、ゆるしなさい」とあるので、「神様、私にはゆるす力はないし、愛する力はありませんけど、その心を与えて下さい」、と祈る時に、神様はその心を与えて下んですね。そうするとイエス様が、御言葉として私たちの内に入ってくださる、これがイエス様と食を共にするという経験なんですね。私たちはそういう意味では、毎日、毎日、イエス様が心の戸を叩かれる、そういう音を聞くことが出来るわけです。日々のいろんな出来事の中で、聖書に反する思いや、聖書に反する行いが起きてきそうになる、その時に、あぁ、これは聖書に反する思いだ、聖書に反する行為だと思って、それを捨てて、御言葉によって生きるという事を行っていくならば、イエス様に対して心を開いて、イエス様を心に宿すという経験になっていくんですね。