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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 197

2014年05月21日 | 日記

  

    福音の力を体験せよ 197

“私どもは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いて、イエスの足元に泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神に捨てられ、拒まれたのではありません。”(SC64)

ところが、多くの人がここまでしか読みません。これまで様々な人たちが、説教でこの箇所を引用するのを聞きましたが、ここから先が読まれるのを、まだ一度も見聞きしたことがありません。

多くの人は、「私たちは罪を犯し続けている間も、神との正しい関係を築くことができる」と主張し、そのことを証明しようと多大な努力をします。しかし私たちは、その先の文も一緒に読むべきです。なぜなら、その先まで読まなければ、誤った印象を受けてしまうからです。

“・・・キリストは神の右に座して、私どものために執り成しをしておられます。使徒ヨハネは、「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(Ⅰヨハネ2:1)と申しました。また、「父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである」(ヨハネ16:27)というキリストのみ言葉も忘れてはなりません。神は、あなたをご自分に立ち返らせ、御自らの純潔と聖潔とをあなたのうちに回復したいと望んでおいでになります。

    霊とまことの礼拝 20

今日でも、ある人は、80%聖霊に満たされているけれども、20%はまだ自我があるとか、50%聖霊で、50%はまだ自我だとか、そういう人がいるのかもしれません。しかしそういう人は、何かがあると一瞬にして全部肉に支配されて、その人の醜い姿が出てくるのです。私たちは、時々聖霊に導かれたり、時たま霊的になったりするのではなくて、いつでも聖霊に満たされた、つまり、御言葉によって生きるという、そういう者でなければならないですね。そのためには聖霊によって示されるいっさいの罪を放棄しなければなりません。

神様が心を探るようにと、その人の心の戸を叩かれます。黙示録3章の中に、「私は戸の外に立ってたたいている、誰でも私の声を聞いて開けるなら私は彼と食を共にする」と書かれています。このイエス様が心の戸を叩かれる、ノックされる音、皆さんはこの音を聞かれた事があるでしょうか?ありますか?いつ叩かれたのでしょうか、どんな時でしょうか?それは私たちの自我が傷ついた時です。自我が何か動いた時です。ひどい事をされたとか、言われたとか、失敗をしたとか、私たちの自我に触れる、そういったことが起きた時に、私たちが御言葉によってそれを乗り越えるのか、自分の思いや感情でそれを処理しようとするのか、そこで別れるのです。


福音の力を体験せよ 196

2014年05月20日 | 日記

  

  福音の力を体験せよ 196

イエス様から目をそらしたペテロが水に溺れ始めたとき、イエス様はどうなさいましたか?手を差し伸べてくださいましたね。また、ペテロが主を否認したとき、イエス様は彼のために祈っておられたのではありませんか?彼が立ち直るようにと!ペテロは、神に立ち返って悔い改めるまで、神との正しい関係を築いていませんでした。

霊感の書には、「イエスを否認したときのペテロは、卑怯な背教者になりさがっていた」と記されています。ところがイエス様は、彼に背を向けられませんでした。むしろ彼のために祈られました。私たちがイエス様に背を向けて、敵に歩み寄るときでさえ、主は私たちのために祈られるのです。イエス様は、私たちの手をもう一度握りたいと熱望しておられます。

   霊とまことの礼拝 1

それでは、そういう生き方がなぜ出来なかったのかという事が、『各時代の希望』のその次の文章に書いてあります。「弟子たちでさえ、外面的にはイエスのためにいっさいを捨てていたが、心の中では自分自身のために大きなことを求めることを止めていなかった。誰が一番偉いか、と言う事について争いを引き起こしたのはこの精神であった」(各時代の希望中173p)。

実はイエス様の弟子たちも、イエス様と一緒にいろんなことをしました。奇跡も彼らは行いました。でも、彼らは本当にこの自我、心の奥底にある罪を全部イエス様に明け渡していませんでした。彼らは物質面では全てを捨てていました。彼らは、イエス様が「私に従って来なさい」と言われた時、いっさいを捨ててイエス様に従いました。その事だけでも、それはすごい事だと思います。私たちの中で、自分の全財産を捨ててイエス様に従ったと言う人が、果たしてどれくらいいらっしゃるでしょうか。やっぱり私たちは、一部は捧げるけれど、自分のために持っていたいという、そういう思いがあるかもしれません。ところがイエス様の弟子たちは、本当にいっさいを捧げてイエス様に従って行ったのです。でも彼らは、外面的にはイエス様のためにいっさいを捨てていましたが、心の中では、まだ自分自身のために生きるという事、自分のために大きなことを求めるのを止めてはいなかったのですね。

誰が一番偉いか、という事になると、彼らの自我がむくむくと頭をもたげてきて、そして、俺が一番偉いんだ、あいつに負けてたまるか、よし、あいつらをいつか出し抜いてやれ、相手が失敗すると、あぁ良かった、そういう思いが残っていたのですね。そして彼らが、そのような心を本当に捨て去ることが出来たのは、イエス様を裏切って、イエス様を見捨てて逃げ去った時でした。本当に自分の心の奥底にあった罪が暴かれて、明らかにされて、それを悔い改めて、彼らは本当に聖霊に満たされた歩みをして行くことが出来るようになったのです。


福音の力を体験せよ 195

2014年05月19日 | 日記

   

福音の力を体験せよ 195

天使たちは、反逆する人たちが死なないように保護することができます。それは悪人たちにも、悔い改めて神様に立ち返る機会を得させるためです。まだ望みがある限り、神様は、彼らを滅亡から守ってくださるのです。

もし神様がそうなさらなかったとしたら、この世の大多数の人たちが、直ちに滅びることでしょう。それでは私たちは、罪を犯し続けている間、救われた状態にいるのでしょうか?イエス様が私たちのために、切なるうめきをもって天父に祈っておられるとしても、私たちは救われた状態にいるのではありません。

“倒れず前進するために、全能の力を持つみ手が我々を支え、たとえ倒れたとしても、無限の憐れみが我々に向かって行使されるとの確信を持たなければならない。”(SD154)

ある意味でクリスチャンは、地上を歩く人たちではありません。クリスチャンは、水の上を歩く人たちです。私たちは、絶えず信仰によって歩くのです。すべての歩みにおいて、神の御手の支えが必要です。自分の力で、水の上を歩くことはできないのですから。

      

  霊とまことの礼拝  18

今までは、十戒はあっても、それは人間の努力目標であって、人間は誰もこれを完全に守ることは出来ないのだと思っていました。でもそうではなくて、これは私たちが日々に従う事が出来るものです。そしてイエス様がこの地上に来られたのは、このことを私たちに模範として、手本として示すためでした。神様の戒めに調和する品性を表す人たち、そのような人たちによる礼拝を、神様は今求めていらっしゃいます。次の文章をお読みしたいと思います。

「聖霊は我々に、生活の中に義を現わす事を教える、われわれの世界においてなされえる最大の仕事はキリストの品性にあって生きることにより、主に栄光を帰することである。神は自己に死ぬものだけを完全にされ、これを喜んでする者は、『生きているのはもはや私ではない、キリストが私の内におられるのである』と言う事が出来る」(原稿・スタディバイブルより)。

イエス様の御言葉を中心に、御言葉に従って歩む時に、「生きているのはもはや私ではない」と言えるのです。これは決して難しい経験ではなくて、ただ過去の自分を捨てて、日々イエス様と共に生きるという事です。過去に私はあんなことをした、あんなことがあった、こんな失敗があった、こんな悔しい事があった、そういう過去にとらわれずに、新しい命を頂いた者として、新しく再創造された者として生きる事が出来るという事です。そして、自分にとらわれないで御言葉を中心にして生きるという事です。イエス様が生きておられるというのは、御言葉によって生きるという事です。御言葉に教えられていることを第一にしていく、そういう経験、それが私たちの内にしっかりと根付いていくという事です。


福音の力を体験せよ 194

2014年05月18日 | 日記

   

福音の力を体験せよ 194

しかし中には、「私たちは、自動的に義で覆ってもらえるのだ」と主張する人たちがいます。しかし上の聖句は、「罪を犯していても、天におられる義なる弁護士が、私たちを義で覆ってくださる」という意味ではありません。 

“人がサタンの誘惑を受け入れ、神がしてはならないと明確に言われたことをした瞬間、神の御子キリストが、生きている者と死者との間に立ち、「刑罰は私が負う。私が人間の身代わりになる。彼にはもう一度機会を与えよう」と言われた。”(1BC1085)

それでは、その弁護士がおられるのは、何のためでしょうか?人は本来、罪を犯したら即座に死ぬことになっています、死ななくても済むように、保護の手が差し伸べられたのでした。

なぜでしょうか?それは、皆さんにもういちど機会を得させるためです。み言葉では、天の御使いが神の子らを常に見守っていると述べられていますが、実は、善良な人たちだけでなく、反逆する人たちも保護しているのです。ただし、天の父なる神様に従う人たちのために、天使たちは実に多くのことをしてあげることができます。

    霊とまことの礼拝 17

もちろん私たちは、これを自分の力ですることはできません。私も、信仰を持って四十数年たちますけれども、本当に最近このSOSTVと出会い、そして、「あぁ、心が変えられるんだ」、という事を経験しました。初めて、「あぁこの信仰というのは素晴らしい、心が創りかえられていくのだ」という事を経験することが出来ました。もちろんまだ始まったばかりですけれども、でも神様が心を新しくしてくださるという事は、これはもう語らずにはおれない、伝えずにはおられない、そういうメッセージです。自分の自我で苦しんで、人を恨み、人を妬み、もういろんな罪の誘惑に負けてしまう、そういう自分ではなくて「あぁ、罪は嫌だ、イエス様を悲しませる罪は二度と犯したくはない、家庭を不幸にする、家庭をばらばらにする罪には絶対に負けたくない、神様の十戒、この神様の尊い戒めに従って歩んでいきたい」、そういう思いを与えてくださいました。


福音の力を体験せよ 193

2014年05月16日 | 日記

  福音の力を体験せよ 193

もしも私たちが、互いの争いをやめ、神様をさらに信頼するならば、めざましい勝利にあずかることでしょう。私たちも、自分たちの敵を愛するようになります。自らに不当な仕打ちをする人たちに対して、善行のお返しをするようになります。誘惑にあって苦難を受ける覚悟さえあるならば、私たちも、イエス様が得られたすべての助けを得ることでしょう。

では、皆さんが倒れたときは、どうしますか?倒れるとは、どのような状態ですか?もしも倒れてしまったら、何をしなければなりませんか? 

“わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。”(Ⅰヨハネ2:1,2)

  霊とまことの礼拝 16

最近聞いた話しでは、ある教会で、3回教会を休んだら、教会の長老さんたちが何人かやってきて、厳しく叱責をしたそうです。そういう教会もあるという事ですけれど、本当に教会に出たい、神様を礼拝したいという、そういう思いがないまま、教会に行き続けても、いずれは嫌になってしまうのです。義務感や、あるいは規則にしばられて行っていても、長続きはしないし、まして、霊とまことの礼拝にはなって行かないですね。私たちの心が本当に神様によって新たにされて、「あぁ、この神様をたたえずにはおれない、この私を創りかえて下さった、私に新しい命を与えてくださった、この神様をたたえずにはおられない」という、そのような人がいっぱい集まっていると、聖霊様が豊かに豊かに臨在してくださって、心が一つにされて、そこに賛美があって、祈りがあって・・・、そういう所なら誰しも行きたくなりますね。

そのような教会には、1分でも1秒でも早く行きたい、そして教会には出来るだけ長く留まっていたい、もうどうしても帰らなければいけない時には、あぁ、教会から離れるのは嫌だーと、そういう思いになるような教会、それが霊とまことの礼拝をする教会だと思います。教会は出来るだけギリギリに行って、教会からは出来るだけ早く帰り、帰ったらあれをやって、これやって、食事を作って・・・。もう本当に、この神様を礼拝するのがすべてのすべてではなくて、教会は仕方が無いから行くとか、義務だから行くとか、言われるから行くとか、そういうものになっていってしまったら、それは、長続きはしませんし、たとえ、続いたとしても、最後になったら「あなたは知らない」と言われてしまうのではないでしょうか。今私たちは、本当にこの「霊とまことの礼」拝をする教会を目指していきたいと思います。そしてそれには、「聖霊が指摘されるいっさいの罪を放棄する」ことにかかっているのです。