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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 192

2014年05月15日 | 日記

   

  福音の力を体験せよ 192 

イエス様は、合唱団を送って敵を防がれたことがありました。私たちが神様に屈服するとき、敵である悪魔は逃げ出すのです。

“あなたがたは実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。”(Ⅰペテロ2:21-23)

   霊とまことの礼拝 15

プロテスタント教会のメッセージが日本に伝えられて、160年ぐらいが経ちました。その間、プロテスタントの教会は、もちろん一生懸命伝道してきたのですけれども、いまだに、クリスチャンの数と言うのは少数です。その数少ないクリスチャンの教会の中で、本当の意味で聖霊によって心が新しくされたという経験を持つ人は、少ないのではないかという感じがします。そのために教会に力が無いのではないでしょうか。

私がSOSTVに出会って、韓国へ行きまして、その時空港から集会がある場所まで2時間ぐらいの間、韓国のSOSTVの方とお話しをしました。つたない英語ですけれど、何とか意味がわかったのですが、私が、「いやあ、日本の伝道は難しいですよ」と言いました。そしたら彼は「それは日本に本当の福音が伝えられていなかったからではないでしょうか」と言いました。日本には、もちろんキリスト教は伝わってきました。そしてイエス様の愛とか、イエス様の赦しとか、イエス様の恵みとか、そういう教えは伝わってきているのです。でも本当に、人の心を創りかえる福音、この聖霊の力、人の心を変える、人を再創造する福音、これが伝わっていないのではないか、そのために日本の教会というのは、こんなにも力がなくて、規則、そういったもので縛らない限り、教会に人が集まらないのではないか、教会に本当に行きたくて、来たくてたまらない教会ではなくて、義務だから、行かないと牧師さんに怒られるから、行かなかったら地獄に落ちるから、そんな理由で教会に行っている人すらいるわけですね。


福音の力を体験せよ 191

2014年05月14日 | 日記

  

  福音の力を体験せよ 191

“このようにキリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。”(Ⅰペテロ4:1、2)

“短気に怒りの言葉を語るように試みられた時にも、キリストは唇で、一度も罪を犯されなかった。彼は大工の仕事場で、仲間の労働者たちの冷笑、嘲り、軽蔑に、忍耐強く静かに対応なさった。彼は怒って答える代わりに、美しいダビデの詩篇の一つを歌い始められた。すると、彼の仲間たちは、知らず知らずのうちに、彼と一緒になって歌っているのであった。”(7BC976)                                                                                                                                                                 

  霊とまことの礼拝  14

そこで、「では誰の名によってバプテスマを受けたのか」、と彼が聞くと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えました。その時パウロは、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。と言いました。ヨハネの名によるバプテスマというのは、いわば罪の赦しのバプテスマであって、その後にきた、イエス様の名によるバプテスマが必要であると言うのです。それは、聖霊のバプテスマであり、それは力のバプテスマ、それは罪に勝利するバプテスマ、私たちを全く新しいものにする、そういうバプテスマです。

かつてイエス様が地上に来られた時に、イエス様はニコデモに対して、「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」、と言われました。実は現在も、水のバプテスマをクリスチャンは受けているけれども、本当の意味でこの聖霊のバプテスマ、水と霊によるバプテスマを受けていないのではないか、そのために教会がこんなにも混乱している、肉が充満しているのではないかと思われるのです。

ある人たちは、聖霊のバプテスマを、すぐ異言とか奇跡と結びつけて考えます。けれども、それだけではなくて、この聖霊のバプテスマというのは、聖霊は火とも言われているように、私たちの罪を焼き尽くして下さり、罪を憎み、罪を犯したくないという心にして下さる、そういうバプテスマ、それが私たちに欠けていたのではないかということです。

 


福音の力を体験せよ 190

2014年05月13日 | 日記

  

  福音の力を体験せよ 190

“かれ〔キリスト〕は、人性のあらゆる強烈な情欲の攻撃を受けられたが、一度でも誘惑に屈して、不純で堕落させるような行為に走ったことはなかった。”(HP155)

私たちと同じように、イエス様は誘惑を感知する感覚をお持ちでした。多くの罪悪は、私たちが感知可能なものを通して入って来るのではないでしょうか?

そういったものが、聖書では情欲と呼ばれています。それは感情の力を指しています。憎悪、憤り、嫉妬、闘争、憎しみ、これらのものをすべて含んでいます。イエス様も、これらの感情に屈服することが可能でした。が、屈したことは一度もありませんでした。私たちも、そうすることが可能なのです。

   霊とまことの礼拝 13  

もう一か所聖書を見てみたいと思います。使徒行伝19章の1節から7節です。

「アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、彼らに『あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか』と尋ねたところ、『いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません』と答えた。『では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。そこで、パウロが言った、『ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである』。人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。その人たちはみんなで十二人ほどであった」。

 初代教会の時代に、パウロがエペソという町に来た時、その町にもクリスチャンの人たちがいました。でもパウロがその人たちと会話をしていると、彼らの信仰には、何か足りないものを感じたようです。何か物足りない、彼らが語っていることを聞いている時に、何か物足りないものを感じました。それでパウロは「あなた方が信仰に入ったときに聖霊を受けたのか」、と聞きました。すると案の定、「いいえ、聖霊なるものがあることを聞いたこともありません」と答えたわけです。


福音の力を体験せよ 189

2014年05月12日 | 日記

 

 福音の力を体験せよ 189   

“彼は「すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われた」(ヘブル4:15)。サタンは、すべての歩みで彼を攻撃しようと待ち構え、最も激しい誘惑を彼に投げつけた。それでも「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった」(1ペテロ2:22)。彼は、その神聖さに比例して多大な誘惑にあわれ、苦しまれた。”(5T422)

私たちも、同様の方法で勝利することができます。私たちも、誘惑を受けて苦しむことがあります。それは、どういう意味でしょうか?誘惑に屈服してそれに浸らないということです。ですから、誘惑に抵抗するその分、苦痛を味わうのです。

腹を立てるようにとの誘惑を受けたときは、怒る代わりに敵を愛してあげてください。また、様々な欲望にふけりたい誘惑に会ったときには、直ちに、その肉の誘惑に対して死んでください。

  霊とまことの礼拝 12

どうしてこういう問題がおきるのでしょうか?それはあなた方が肉の人だから、あなた方の間に妬みや争いがあるのはあなた方が肉の人であって、普通の人間のように歩いているからではないか。普通の考え方で、ただ私はこう思うと言う、それを言っているに過ぎないのです。神様が何を望んでいらっしゃるか、教会にとって最も良いものは何であるか、という立場ではなくて、私の趣味、私の考え方、私、私、自我、自我、その自我と自我がぶつかって教会の中でいろんな問題が起きてくるのです。

教会の中では、たとえば役員の推薦委員会というものがあります。ある人を長老に、ある人を執事に、何かの役に推薦するのですけれども、もう、やりたい人と、やりたくない人がいて、やりたい人は上の役をやりたがる、でもその人にはやってほしくなくて、やりたくないと言っている人、こういう人にやってほしい、でもそういうことを決めるのにすごい時間がかかって、何日も何回も会議を開かなければいけないとか、こうしたことが、実は肉の教会の姿なのです。本当に自我を捨て去って、神様のために何でも「ハイ」と言える状態ではないのですね。そういう肉の姿、これを捨てて「霊の人」になりなさい、本当に霊的な、そういう生き方をするようにしなさいと、イエス様はおっしゃっています。


福音の力を体験せよ 188

2014年05月11日 | 日記

    

  福音の力を体験せよ 188

“あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。”(ガラテヤ3:26-29)

さて、イエス様はどのような性質を持っておられましたか?堕落する前のアダムの性質ですか?いいえ。堕落した後のアダムの性質ですか?いいえ。もし堕落した後のアダムの性質で来られたなら、本来の彼の心も、回復されねばならない状態で来られたということになります。イエス様は、堕落した後のアダムの立場でありながら、新しく生まれた人と同様の性質でおいでになりました。繰り返しますが、新しく生まれた人だけが、イエス様との親密な関係にあるのです。まさに、そのような人たちが、イエス様の兄弟となれます。

    霊とまことの礼拝 11

ここに、世界中のすべての人は、3種類に分けられると書いてあります。第1は「生まれながらの人」、これは神様のことを知らない、普通の人ですね。教会にも行ったことが無い、だた生まれていろんなことをして、愛したり憎んだり、笑ったり泣いたりしながら死んでいくという、そういう人、第2番目は「肉の人」、この人たちはイエス様を信じている。知っている。そして教会にも行っている。けれども心の中の肉の性質を持ったままの人たち、知識ではイエス様を知っているというかも知れない、いくつかの良い行いはするかもしれない、けれども心の問題がまだ解決されていない、罪が放棄されておらず、心の中では妬み、争い、短気、怒り、不信、そういう様々な肉の性質が満ちている人です。多くの教会員が、この肉を持っているために、実は教会の中でいろいろな問題が起きているのです。

私が教会の牧師をしている時に、一番大変だったのは理事会でした。10人ぐらいの理事がいるといろんな意見があるわけですね。一つのことを決めるという事はなかなか難しいのです。教会で「新しいカーテンを買いましょう」ということになると、青が良い、ピンクが良い、紫が良い、濃いのが良い、薄いのが良い、いろんな意見が出てきて、本当に大変です。一つのことを決めるという事は難しい。意見の強い人が「いやこれが良い」と言ったら気の小さい人はシュンとなって、「じゃあしょうがない」と賛成に手を挙げる。後になって私の所へ、「あの人はああ言ったけれど、私は手を上げたけれども、本当はこっちの方が良いと思います」、って電話かかってくるわけですね。決まったと思ってもみんなが賛成しているわけではないのです。ああ、肉の世界と言うのはそういうものなんだ、たった一つのことでも決められない。一致できない。でも、教会の人たち以上に、実は、自分自身が一番問題なのだということが分かってきたのです。