駐車場の親切な女性係員から歩いて1Kmほどで金峯山寺に着くといわれた。
車で100Km走るよりも徒歩1Kmの方がダメージが大きい年頃になった。
のんびり景色でも見ながら歩くことにしたが、この吉野はこれまでの景色とはまるで違い雄大ですばらしい。
きっとこの先によいことが待っているであろう。
金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺の歴史
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域である。
この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得した。
この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀した。これが金峯山寺の開創と伝えられている。
黒門
金峯山寺の総門で、吉野一山の総門でもある。
この門の様式は高麗門と呼ばれ、城郭によく用いられる。昔は、公家・大名といえどもこの門からは槍を伏せ馬をおりて通行したという格式をもっていた。
現存する門は1985年の再興。
銅鳥居(重要文化財)
銅鳥居と書いて「かねのとりい」と読む。聖地への入口、俗界と聖地の境界を象徴する建造物である。
吉野から大峯山(山上ヶ岳)までの修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、悟りへの4つの段階を象徴した門が設定されているが、そのうちの「発心門」にあたるのがこの鳥居である。
鳥居の柱が蓮台の上に立っているのは、神仏習合の名残りである。
東大寺大仏を鋳造した際の余りの銅で造ったという伝承があるが、現存するものは室町時代の再興である。
仁王門(国宝)
本堂(蔵王堂)の北側に位置する入母屋造、本瓦葺きの二重門(二重門とは2階建て門で、1階と2階の境目にも屋根の出をつくるものを指す)。
軒先に吊るしていた風鐸の銘から室町時代の康正2年(1456年)の再興とわかる。
本堂が南を正面とするのに対し、仁王門は北を正面とし、互いに背を向けるように建っている。
これは、熊野から吉野へ(南から北へ)向かう巡礼者と吉野から熊野へ(北から南へ)向かう巡礼者の双方に配慮したためという。
本堂(蔵王堂)(国宝)
山上ヶ岳の大峯山寺本堂(「山上の蔵王堂」)に対し、山下(さんげ)の蔵王堂と呼ばれる。屋根は入母屋造檜皮葺き。
2階建てのように見えるが構造的には「一重裳階(もこし)付き」である。豊臣家の寄進で再興されたもので、扉金具の銘から天正19年(1592年)の建立とわかる。
高さ34メートル、奥行、幅ともに36メートル。木造の古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模をもつといわれる豪壮な建築である。
内部の柱には、原木の曲がりを残した自然木に近い柱が使われていることが特色で、ツツジ、チャンチン、梨などと称される柱が用いられている。
内陣には巨大な厨子があり、本尊として3体の巨大な蔵王権現像(秘仏)を安置する。
この奥に秘仏のご本尊が安置されているが目視することはできない。
秘仏本尊蔵王権現の特別公開
金峯山寺および大峯山寺の本尊であり、中心的な信仰対象となっているのは、蔵王権現という、仏教の仏とも神道の神ともつかない、独特の尊格である。
金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものである。
インドや中国起源ではない、日本独自の尊像であり、密教彫像などの影響を受けて、日本で独自に創造されたものと考えられる。
今から1300年ほど前、大峯山山上ケ岳の山頂で1000日の修行を積んだ役行者のもとに現れた権現仏のお姿を桜の木に刻んだのが、ご本尊の由来とされている。
3体は本地仏である釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩が権現、つまり仮のお姿になったもので、過去・現在・未来の三世にわたって人々を救済するという意味が込められている。
より強い力で人々を導くために、大きな像が造られたのではないか。
今回の開帳は国宝建造物である仁王門の修理勧進を目的に今後10年間にわたって定期的に実施するものである。
特別開帳拝観料1,000円を支払い内陣に入る。
その時は高すぎるのではないかと思ったが、寺名入りの靴袋、家内安全・諸願成就の如意析攸札を戴けることが解ると急に気持ちが和らぎなぜか嬉しくなった。いつものことだが物と金には弱い。
さらに、大広間で十分すぎる位の時間拝観した後、行列ができていたので訳もわからず並んでみると、ご本尊の周囲にある多くの仏像を拝観することもできた。
そして、極めつきはご本尊の前で、障子で仕切られた空間を個人に与えられ、ゆっくりお参りできるようになっていた。
これはすばらしい企画で私のように作法の疎い人間には大変有り難い。
金峯山寺のご本尊については何度か写真では見ていたが、どちらかというと全く興味が持てない方に位置していた。
特に青い顔は駄目で、数年前、青蓮院の秘仏である青不動を観たときも早々に席を立った程である。
だが、このご本尊の前に座ると別の感情が芽生えてきた。
肌の色の青黒い姿は、お互いを認め、お互いを許しあう、恕(じょ)という慈悲の心を象徴している。
参拝者には、慈悲の深さに触れ、力強い姿から生きる力を感じて欲しいとの寺の願いのようであるが、実に不思議な気持ちにさせてくれる。
仏舎利宝殿
昭和42年、金峯山寺初代管長がインドのガンジー首相より釈尊の御真骨を拝戴し、この仏舎利宝殿を建立し御奉安した。
天満宮
愛染堂
観音堂
役行者銅像
日本の正史『続日本紀』によると役行者は634年(舒明天皇6年)、御所市茅原で誕生.名は小角といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山にて金剛蔵王大権現を感得され、修験道の基礎を開かれたと伝えられている。
1100年忌にあたる1799年(寛政11年)に光格天皇より、神変大菩薩の諡号が贈られた。
脳天大神龍王院
読経の声が階段の下の方から聞こえてくる。そばによると脳天の文字が頭に入ってくる。
脳卒中で父も兄も亡くしているし、遺伝的に考えても私にも同じことが起こることは予測できる。
問題はいつ起こるかだ。俄然興味が湧き階段を下りていく。
鳥居があるから、近いのかなと思ったら甘くはなかった。脳の血管が破裂しそうになる。
やっと下に着いた。声が聞こえるのはこの建物からだ。
信仰心の無い者には入ることのできない凜とした何かが漂っている。
勿論カメラなど構えることさえも絶対に許されない雰囲気のため、偶然に写ったものがこの写真である。
周囲を散策しながら数枚撮影する。歴史的には新しい建物が多い。
時代劇に時々出てくる護摩経とでもいうのだろうか、やはり興味がある。
僧侶の経に合わせて参加者全員が経をあげている。やはり、宗教はすごい。
最後にその現場を1枚撮ってしまった。
さて、苦労した階段の数だが往復1000段以上は確実にあるので、信仰心と脚力の無い中高年は止めた方がいいと思うが、苦労好きなのも中高年。
経験後は間違いなく想い出と疲労は残るであろう。
撮影 平成25年5月26日
車で100Km走るよりも徒歩1Kmの方がダメージが大きい年頃になった。
のんびり景色でも見ながら歩くことにしたが、この吉野はこれまでの景色とはまるで違い雄大ですばらしい。
きっとこの先によいことが待っているであろう。
金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺の歴史
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域である。
この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得した。
この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀した。これが金峯山寺の開創と伝えられている。
黒門
金峯山寺の総門で、吉野一山の総門でもある。
この門の様式は高麗門と呼ばれ、城郭によく用いられる。昔は、公家・大名といえどもこの門からは槍を伏せ馬をおりて通行したという格式をもっていた。
現存する門は1985年の再興。
銅鳥居(重要文化財)
銅鳥居と書いて「かねのとりい」と読む。聖地への入口、俗界と聖地の境界を象徴する建造物である。
吉野から大峯山(山上ヶ岳)までの修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、悟りへの4つの段階を象徴した門が設定されているが、そのうちの「発心門」にあたるのがこの鳥居である。
鳥居の柱が蓮台の上に立っているのは、神仏習合の名残りである。
東大寺大仏を鋳造した際の余りの銅で造ったという伝承があるが、現存するものは室町時代の再興である。
仁王門(国宝)
本堂(蔵王堂)の北側に位置する入母屋造、本瓦葺きの二重門(二重門とは2階建て門で、1階と2階の境目にも屋根の出をつくるものを指す)。
軒先に吊るしていた風鐸の銘から室町時代の康正2年(1456年)の再興とわかる。
本堂が南を正面とするのに対し、仁王門は北を正面とし、互いに背を向けるように建っている。
これは、熊野から吉野へ(南から北へ)向かう巡礼者と吉野から熊野へ(北から南へ)向かう巡礼者の双方に配慮したためという。
本堂(蔵王堂)(国宝)
山上ヶ岳の大峯山寺本堂(「山上の蔵王堂」)に対し、山下(さんげ)の蔵王堂と呼ばれる。屋根は入母屋造檜皮葺き。
2階建てのように見えるが構造的には「一重裳階(もこし)付き」である。豊臣家の寄進で再興されたもので、扉金具の銘から天正19年(1592年)の建立とわかる。
高さ34メートル、奥行、幅ともに36メートル。木造の古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模をもつといわれる豪壮な建築である。
内部の柱には、原木の曲がりを残した自然木に近い柱が使われていることが特色で、ツツジ、チャンチン、梨などと称される柱が用いられている。
内陣には巨大な厨子があり、本尊として3体の巨大な蔵王権現像(秘仏)を安置する。
この奥に秘仏のご本尊が安置されているが目視することはできない。
秘仏本尊蔵王権現の特別公開
金峯山寺および大峯山寺の本尊であり、中心的な信仰対象となっているのは、蔵王権現という、仏教の仏とも神道の神ともつかない、独特の尊格である。
金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものである。
インドや中国起源ではない、日本独自の尊像であり、密教彫像などの影響を受けて、日本で独自に創造されたものと考えられる。
今から1300年ほど前、大峯山山上ケ岳の山頂で1000日の修行を積んだ役行者のもとに現れた権現仏のお姿を桜の木に刻んだのが、ご本尊の由来とされている。
3体は本地仏である釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩が権現、つまり仮のお姿になったもので、過去・現在・未来の三世にわたって人々を救済するという意味が込められている。
より強い力で人々を導くために、大きな像が造られたのではないか。
今回の開帳は国宝建造物である仁王門の修理勧進を目的に今後10年間にわたって定期的に実施するものである。
特別開帳拝観料1,000円を支払い内陣に入る。
その時は高すぎるのではないかと思ったが、寺名入りの靴袋、家内安全・諸願成就の如意析攸札を戴けることが解ると急に気持ちが和らぎなぜか嬉しくなった。いつものことだが物と金には弱い。
さらに、大広間で十分すぎる位の時間拝観した後、行列ができていたので訳もわからず並んでみると、ご本尊の周囲にある多くの仏像を拝観することもできた。
そして、極めつきはご本尊の前で、障子で仕切られた空間を個人に与えられ、ゆっくりお参りできるようになっていた。
これはすばらしい企画で私のように作法の疎い人間には大変有り難い。
金峯山寺のご本尊については何度か写真では見ていたが、どちらかというと全く興味が持てない方に位置していた。
特に青い顔は駄目で、数年前、青蓮院の秘仏である青不動を観たときも早々に席を立った程である。
だが、このご本尊の前に座ると別の感情が芽生えてきた。
肌の色の青黒い姿は、お互いを認め、お互いを許しあう、恕(じょ)という慈悲の心を象徴している。
参拝者には、慈悲の深さに触れ、力強い姿から生きる力を感じて欲しいとの寺の願いのようであるが、実に不思議な気持ちにさせてくれる。
仏舎利宝殿
昭和42年、金峯山寺初代管長がインドのガンジー首相より釈尊の御真骨を拝戴し、この仏舎利宝殿を建立し御奉安した。
天満宮
愛染堂
観音堂
役行者銅像
日本の正史『続日本紀』によると役行者は634年(舒明天皇6年)、御所市茅原で誕生.名は小角といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山にて金剛蔵王大権現を感得され、修験道の基礎を開かれたと伝えられている。
1100年忌にあたる1799年(寛政11年)に光格天皇より、神変大菩薩の諡号が贈られた。
脳天大神龍王院
読経の声が階段の下の方から聞こえてくる。そばによると脳天の文字が頭に入ってくる。
脳卒中で父も兄も亡くしているし、遺伝的に考えても私にも同じことが起こることは予測できる。
問題はいつ起こるかだ。俄然興味が湧き階段を下りていく。
鳥居があるから、近いのかなと思ったら甘くはなかった。脳の血管が破裂しそうになる。
やっと下に着いた。声が聞こえるのはこの建物からだ。
信仰心の無い者には入ることのできない凜とした何かが漂っている。
勿論カメラなど構えることさえも絶対に許されない雰囲気のため、偶然に写ったものがこの写真である。
周囲を散策しながら数枚撮影する。歴史的には新しい建物が多い。
時代劇に時々出てくる護摩経とでもいうのだろうか、やはり興味がある。
僧侶の経に合わせて参加者全員が経をあげている。やはり、宗教はすごい。
最後にその現場を1枚撮ってしまった。
さて、苦労した階段の数だが往復1000段以上は確実にあるので、信仰心と脚力の無い中高年は止めた方がいいと思うが、苦労好きなのも中高年。
経験後は間違いなく想い出と疲労は残るであろう。
撮影 平成25年5月26日