今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市塩山小屋敷)

2017年07月14日 | 神社・仏閣
乾徳山 恵林寺
元徳2年(1330)に甲斐牧ノ庄の地頭職の二階堂出羽守貞藤が、夢窓国師を招き、自邸を禅院とし創建した
武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)には、信玄自ら寺領を寄進し当山を菩提寺と定めた

総門(通称:黒門)



扁額の「雑華世界」(内は静寂なる世界 外は喧騒なる世界)



総門を抜け、木々に囲まれた参道を進む



四脚門(重要文化財)
見えてくるのが四脚門(通称:赤門)、徳川家康の再建と伝えられるもので、国の重要文化財






山号の「乾徳山」の額を掲げている



さらに、参道が続く



正面に門が見えてくる



三門(山梨県重要文化財)
三門には織田信長の焼き討ちで壮絶な火定を遂げた快川和尚の遺偈が掲げられている



この三門は、まさしくその悲劇の現場に建てられている






信長焼き討ちの際に「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と快川和尚が喝破した門である






仏舎利宝塔



鐘楼



この奥に方丈庭園がある






開山堂
「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」と言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに火に包まれ入定した快川国師について…



快川紹喜は恵林寺住職となると、恵林寺を信玄の菩提寺と定めているほか、美濃斎藤氏と武田氏との外交関係にも携わった
天正3年(1575年)4月には武田勝頼が喪主となり信玄の三年秘喪明りの葬儀が行われ、快川紹喜は導師を務める
勝頼の代にも政務顧問的な役割を果たしていた



武田氏滅亡後、恵林寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを要請するが、寺側が拒否したため恵林寺は焼き討ちにあった



堂内には夢窓疎石、快川紹喜(かいせんしょうき)、末宗瑞曷の三像が堂内に安置されている



庫裏
信長による焼き討ちの後、徳川家康によって再建された壮大な伽藍は、明治38年の火災によってそのほとんどを焼失
現在の本堂、庫裏も、明治末期に再建されたものである
拝観受付所にもなっている



堂内はこの狭い廊下から拝観することになっている



方丈庭園
枯山水式の庭園、右奥に勅使門がある









本堂
本堂に本尊の釈迦如来が安置されているらしいが観ることはできなかった



うぐいす廊下入り口
内部は暗いが人感センサーにより、入口に立つと電灯が点るしくみになっている



「うぐいす張」の廊下で体重が重いせいもあり、いい音を聴くことができた
奥には撮影禁止区域の「明王殿」があり不動明王が安置されている



案内にしたがって進む



武田信玄公墓所・柳沢吉保公墓所
柳沢吉保公霊廟の奥に墓所があるが、ここも撮影禁止区域になっている



名勝 恵林寺庭園
京都嵯峨野の天龍寺、嵐山の西芳寺(苔寺)庭園とともに、夢窓国師の代表的な築庭庭園






閉門時間まで拝観させてもらった



印象に残ったのは三門「心頭滅却すれば火も自ら涼し」
信長が斃れて後、家康により復興、また五代将軍綱吉の時代に甲斐国主となった柳沢吉保の庇護で寺運は発展した



撮影 平成29年5月17日
コメント (2)
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