柏尾山 大善寺
国宝の薬師堂があることを知り訪れた。国道20号線沿いに入口があり、受付で拝観料を納めると駐車場のゲートが開く
楼門(仁王門)
駐車場から石段を上ると立派な楼門が見えてくる
元禄17年(1704)に創建され、現在のものは、寛政10年(1798年)に再建された。三間一戸の入母屋造
楼門の左右の格子の奥に仁王像が安置されている
額には山号の「柏尾山」
仁王像
寺院で仏像を撮ることができるのは仁王像だけなので気合いが入る
しかも、格子の内部にレンズも入った。久し振りに一眼レフカメラによる撮影ができた
さらに階段が続く。私は興味はないが左右の植物を撮っている人が多い
階段を上りきると正面に金堂(薬師堂)が見えてくる。一目で国宝建築物であることがわかる
薬師堂(国宝)
薬師堂には、弘安9年3月16日(1286)の刻銘があり、元寇(弘安の役)の数年後に建てられた
大きさは24m四方で、5間の正面は、中側の3間は両開きの扉が付き、両外側は、上部が縦桟の連子格子になっている
「薬師如来」の額。内陣には須弥壇を設けて厨子(国宝)を置き、重要文化財の薬師如来(秘仏)を祀る
その両側には日光菩薩・月光菩薩(重文)、更に修復を終え色鮮やかになった十二神将(重文)を配している
建物が大きすぎて正面からは24mmのレンズでも入らない。横に移動する
手水鉢
「お清めの水」にて穢れを少し清め薬師堂内にて拝観
感じの良い係の女性から簡単な説明があった。内容のほとんどは忘れたたが心地よさは残っている
楽堂
延宝5年(1677)再建立。大祭藤切り祭や縁日の日に学童で音楽を奏で稚児堂で舞を参拝者にもてなしていた
楽堂内の仏様
稚児堂
弘化3年(1846)再建立。大祭藤切り祭の稚児舞の舞台として使用
地蔵堂
宝珠石
地中でマグマが石を抱き込みながらできたもの
子抱き石として多くの方に幸せが訪れるよう椅子の形にした
鐘楼
正徳4年(1714)に再興された。以前は寛文8年(1668年)の銘が入った鐘があったが、第二次大戦の折に供出
現在の鐘は昭和58年(1983年)に再興された
木々に囲まれた場所にあり、なかなかいい雰囲気だ
行者堂
ぶどう寺 大善寺
養老3年(718)行基が甲斐の国を訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行した
夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れた
行基は夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺
以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えた
この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられている
武田勝頼と大善寺
武田勝頼は、織田、 徳川の連合軍の前に敗退し、天正10年(1582)3月3日、再興を図ろうと韮崎の新府城を出発
途中柏尾山大善寺で戦勝を祈願して、一夜を明かした
しかし、家臣の大半は夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合う
勝頼主従は天目山を目指したが、織田、徳川の連合軍に行く手を阻まれる
3月11日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来五百年続いた甲斐源氏も滅亡した
勝頼の宿となった薬師堂を後に階段を下りる
庫裏・客殿で冷たいお茶をご馳走になり、中庭を眺める
この寺の仁王像、文化財には指定されていないが、気に入っている
撮影 平成29年5月18日
国宝の薬師堂があることを知り訪れた。国道20号線沿いに入口があり、受付で拝観料を納めると駐車場のゲートが開く
楼門(仁王門)
駐車場から石段を上ると立派な楼門が見えてくる
元禄17年(1704)に創建され、現在のものは、寛政10年(1798年)に再建された。三間一戸の入母屋造
楼門の左右の格子の奥に仁王像が安置されている
額には山号の「柏尾山」
仁王像
寺院で仏像を撮ることができるのは仁王像だけなので気合いが入る
しかも、格子の内部にレンズも入った。久し振りに一眼レフカメラによる撮影ができた
さらに階段が続く。私は興味はないが左右の植物を撮っている人が多い
階段を上りきると正面に金堂(薬師堂)が見えてくる。一目で国宝建築物であることがわかる
薬師堂(国宝)
薬師堂には、弘安9年3月16日(1286)の刻銘があり、元寇(弘安の役)の数年後に建てられた
大きさは24m四方で、5間の正面は、中側の3間は両開きの扉が付き、両外側は、上部が縦桟の連子格子になっている
「薬師如来」の額。内陣には須弥壇を設けて厨子(国宝)を置き、重要文化財の薬師如来(秘仏)を祀る
その両側には日光菩薩・月光菩薩(重文)、更に修復を終え色鮮やかになった十二神将(重文)を配している
建物が大きすぎて正面からは24mmのレンズでも入らない。横に移動する
手水鉢
「お清めの水」にて穢れを少し清め薬師堂内にて拝観
感じの良い係の女性から簡単な説明があった。内容のほとんどは忘れたたが心地よさは残っている
楽堂
延宝5年(1677)再建立。大祭藤切り祭や縁日の日に学童で音楽を奏で稚児堂で舞を参拝者にもてなしていた
楽堂内の仏様
稚児堂
弘化3年(1846)再建立。大祭藤切り祭の稚児舞の舞台として使用
地蔵堂
宝珠石
地中でマグマが石を抱き込みながらできたもの
子抱き石として多くの方に幸せが訪れるよう椅子の形にした
鐘楼
正徳4年(1714)に再興された。以前は寛文8年(1668年)の銘が入った鐘があったが、第二次大戦の折に供出
現在の鐘は昭和58年(1983年)に再興された
木々に囲まれた場所にあり、なかなかいい雰囲気だ
行者堂
ぶどう寺 大善寺
養老3年(718)行基が甲斐の国を訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行した
夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れた
行基は夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺
以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えた
この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられている
武田勝頼と大善寺
武田勝頼は、織田、 徳川の連合軍の前に敗退し、天正10年(1582)3月3日、再興を図ろうと韮崎の新府城を出発
途中柏尾山大善寺で戦勝を祈願して、一夜を明かした
しかし、家臣の大半は夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合う
勝頼主従は天目山を目指したが、織田、徳川の連合軍に行く手を阻まれる
3月11日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来五百年続いた甲斐源氏も滅亡した
勝頼の宿となった薬師堂を後に階段を下りる
庫裏・客殿で冷たいお茶をご馳走になり、中庭を眺める
この寺の仁王像、文化財には指定されていないが、気に入っている
撮影 平成29年5月18日