金龍山 天徳院
金沢に住んでいた知人から、地元では天徳院がとても有名という話しを聞いたことがあったので訪れることにした
電話番号でナビに入れると狭い道路を案内されるので注意が必要。広い通りから入ると大きな駐車場がある
寺号標
寺号の天徳院よりも「珠姫の寺」の文字が大きく刻まれている
予備知識もなく「珠姫って誰」から始まった参詣となった
参道
足元には本を開いた形の置物がある
「羅漢のみち 菩薩のみち 念じて通れば 安らぎと 幸福を招く 佛の道」
ここは、曹洞宗の寺院である
後方から念じて歩くことにした
山門
元禄6年(1693年)建立の二重門。屋根は当初は鉛瓦で葺かれていたが、瓦に交換された
仁王像
山門を背に真っ直ぐ先は本堂になる
途中、左に折れるとお堂がある
近寄ってみると天狗の面が置かれている
堂内を廻っていたときに巨大な天狗の面があったが、位置的に、このお堂の内部のような感じがする
本堂
珠姫は、加賀藩3代藩主前田利常の正室で、慶長4年(1599)2代将軍徳川秀忠の次女として生まれ、名前は珠子、幼名を子々姫といった
前田が徳川を討つという噂が流れ、家康は前田を攻めようとした
2代藩主利長は、前田家が徳川幕府に刃向かう計画は一切無いことを説明
その証として利長の母、お松の方(芳春院)を人質として江戸に送り、代わりに珠姫を嗣子利常の嫁として受けることを約束した
慶長6年(1601)珠姫3歳のとき加賀の国(金沢)へ輿入れ、14歳で結婚、その後10年間に3男5女を育てた
利常の妻として、秀忠の娘として前田、徳川両家の融和のために心を尽くした
元和8年(1622)春、夏姫出産後7月3日に亡くなった。御歳24歳であった
遺骨を金沢と高野山に分骨、戒名の『天徳院殿乾運淳貞大禅定尼』にちなんで、いずれの寺院も天徳院と称した
堂内に入る
最初に寺の歴史の説明を受け、展示物を見学する。残念ながら堂内の撮影は禁止
また珠姫・天徳院物語を「映像」と「からくり人形」の舞台で堪能できる
この寺は係の人の応対も素晴らしく、寺を出るときには「珠姫」が好きになってしまうほどだ
私は前田利長、利常ファンであるが、そこに珠姫も加えたいと思う
本堂を背に山門を見る
実に居心地のいい寺だった
出世地蔵
撮影 平成30年10月20日
金沢に住んでいた知人から、地元では天徳院がとても有名という話しを聞いたことがあったので訪れることにした
電話番号でナビに入れると狭い道路を案内されるので注意が必要。広い通りから入ると大きな駐車場がある
寺号標
寺号の天徳院よりも「珠姫の寺」の文字が大きく刻まれている
予備知識もなく「珠姫って誰」から始まった参詣となった
参道
足元には本を開いた形の置物がある
「羅漢のみち 菩薩のみち 念じて通れば 安らぎと 幸福を招く 佛の道」
ここは、曹洞宗の寺院である
後方から念じて歩くことにした
山門
元禄6年(1693年)建立の二重門。屋根は当初は鉛瓦で葺かれていたが、瓦に交換された
仁王像
山門を背に真っ直ぐ先は本堂になる
途中、左に折れるとお堂がある
近寄ってみると天狗の面が置かれている
堂内を廻っていたときに巨大な天狗の面があったが、位置的に、このお堂の内部のような感じがする
本堂
珠姫は、加賀藩3代藩主前田利常の正室で、慶長4年(1599)2代将軍徳川秀忠の次女として生まれ、名前は珠子、幼名を子々姫といった
前田が徳川を討つという噂が流れ、家康は前田を攻めようとした
2代藩主利長は、前田家が徳川幕府に刃向かう計画は一切無いことを説明
その証として利長の母、お松の方(芳春院)を人質として江戸に送り、代わりに珠姫を嗣子利常の嫁として受けることを約束した
慶長6年(1601)珠姫3歳のとき加賀の国(金沢)へ輿入れ、14歳で結婚、その後10年間に3男5女を育てた
利常の妻として、秀忠の娘として前田、徳川両家の融和のために心を尽くした
元和8年(1622)春、夏姫出産後7月3日に亡くなった。御歳24歳であった
遺骨を金沢と高野山に分骨、戒名の『天徳院殿乾運淳貞大禅定尼』にちなんで、いずれの寺院も天徳院と称した
堂内に入る
最初に寺の歴史の説明を受け、展示物を見学する。残念ながら堂内の撮影は禁止
また珠姫・天徳院物語を「映像」と「からくり人形」の舞台で堪能できる
この寺は係の人の応対も素晴らしく、寺を出るときには「珠姫」が好きになってしまうほどだ
私は前田利長、利常ファンであるが、そこに珠姫も加えたいと思う
本堂を背に山門を見る
実に居心地のいい寺だった
出世地蔵
撮影 平成30年10月20日