訪問日 令和3年5月24日
高野山 金剛峰寺
空海は高野山を開創した際、一山を指して「金剛峯寺」と名付けた
寺名は『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』という経典由来するといわれている
明治期以降は1つの寺院の名称になっている
今日では、高野山真言宗管長が座主(住職)として居住する本坊寺院を指すことが多い
正門(和歌山県指定文化財)
文禄2年(1593年)再建
降雨のため正門前の駐車場で待機し様子を見ていると、僧侶が正門前を通過する際に一礼していく

豊臣政権時代の唯一の遺構で、 かつて正門を利用できたのは皇族と高野山の重職の僧だけ
一般僧は右方にある小さなくぐり戸を使用した

「手水舎」

正門の正面に本堂(主殿)が見える

かご塀


昭和天皇 皇后両陛下 行幸啓記念植樹の「高野槇」

経蔵(和歌山県指定文化財)
延宝7年(1679年)に、釈迦三尊とともに寄進された

火災発生時に類焼しにくいように主殿とは別棟として建てられ、重要なものを収蔵していた

経蔵から眺めると、右手に正門と鐘楼

左手に本堂(主殿)

鐘楼(和歌山県指定文化財)
元治元年(1864年)再建と考えれている
袴腰付入母屋造り


本堂<主殿>(和歌山県指定文化財)
文禄2年(1593年)豊臣秀吉が亡き母(大政所)を弔うために建てた「青巌寺(せいがんじ)」の遺構

現在の建物は文久3年(1863年)に再建されたもの
青巌寺は、明治2年(1869年)に隣接する「興山寺」と合併し「金剛峯寺」へと改称された

檜皮葺の屋根の上には、雨水を溜めておく「天水桶」が置かれている

幾度となく火災に見舞われた経験から類焼を防ぐために設けられた桶である

大玄関と小玄関があり、大玄関は表玄関に相当し、かつては皇室、高野山の重職に就いている僧のみが使用した
小玄関は大玄関を使用できない上位の僧侶が使用し、一般僧侶は裏口を使用した

大玄関の彫刻



堂内に入るのは二度目だが拝観料も二倍になっているような気がする

次回に続く
撮影 令和3年5月24日
高野山 金剛峰寺
空海は高野山を開創した際、一山を指して「金剛峯寺」と名付けた
寺名は『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』という経典由来するといわれている
明治期以降は1つの寺院の名称になっている
今日では、高野山真言宗管長が座主(住職)として居住する本坊寺院を指すことが多い
正門(和歌山県指定文化財)
文禄2年(1593年)再建
降雨のため正門前の駐車場で待機し様子を見ていると、僧侶が正門前を通過する際に一礼していく

豊臣政権時代の唯一の遺構で、 かつて正門を利用できたのは皇族と高野山の重職の僧だけ
一般僧は右方にある小さなくぐり戸を使用した

「手水舎」

正門の正面に本堂(主殿)が見える

かご塀


昭和天皇 皇后両陛下 行幸啓記念植樹の「高野槇」

経蔵(和歌山県指定文化財)
延宝7年(1679年)に、釈迦三尊とともに寄進された

火災発生時に類焼しにくいように主殿とは別棟として建てられ、重要なものを収蔵していた

経蔵から眺めると、右手に正門と鐘楼

左手に本堂(主殿)

鐘楼(和歌山県指定文化財)
元治元年(1864年)再建と考えれている
袴腰付入母屋造り


本堂<主殿>(和歌山県指定文化財)
文禄2年(1593年)豊臣秀吉が亡き母(大政所)を弔うために建てた「青巌寺(せいがんじ)」の遺構

現在の建物は文久3年(1863年)に再建されたもの
青巌寺は、明治2年(1869年)に隣接する「興山寺」と合併し「金剛峯寺」へと改称された

檜皮葺の屋根の上には、雨水を溜めておく「天水桶」が置かれている

幾度となく火災に見舞われた経験から類焼を防ぐために設けられた桶である

大玄関と小玄関があり、大玄関は表玄関に相当し、かつては皇室、高野山の重職に就いている僧のみが使用した
小玄関は大玄関を使用できない上位の僧侶が使用し、一般僧侶は裏口を使用した

大玄関の彫刻



堂内に入るのは二度目だが拝観料も二倍になっているような気がする

次回に続く
撮影 令和3年5月24日
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