昨夜、伊勢神宮で「遷御の儀」が行われた。
ドナルド・キーン氏は「国籍という枠組みを超越した神事で、もはや伊勢や日本国内だけの儀式ではなくなっている」という。
安倍首相が参列したことに賛否両論があるようであるが、国民的・国家的行事に日本国の代表が参加することは当然のことと私は思っている。
自分がその場にいたら、どのような行動をしたのだろうか。「助けなきゃ」と父親に最後の言葉を残しとびだしていった踏切事故。
若い頃には「人のためには…」と考え行動してきたつもりだが、いつのまにか「自分のために…」に変わってきている。
彼女が残した、最後の言葉と行動が頭から離れない。(この日のニュースから)

今日は広島平和記念公園の原爆ドーム周辺の写真を紹介。説明文はHPから掲載した。
原爆の子の像
佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかける。

2歳の時被爆した佐々木禎子さんは、幸いけがもなく、元気で活発な少女に成長していた。
ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診断され、8か月間の闘病生活の後、1955(昭和30)年10月25日に短い生涯を終えた。
禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けた。
病気を乗りこえ、懸命に生きようとした「サダコ」の物語は、ヒロシマの悲劇の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれている。
平和の灯
水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため建立。
広島平和記念資料館(重要文化財)
「広島平和記念都市建設法」に基づき、平和記念公園の中に、1955(昭和30)年6月に平和記念館が、8月に平和記念資料館が開館。
2006(平成18)年7月5日には、平和記念資料館の本館部分が国の重要文化財に指定された。

全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火された。
この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっている。
原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)
世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立した。


原爆ドーム

原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼、中にいた30人余りの人々は全員死亡したと伝えられている。

爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらした。

その形から、占領が明けた頃には「原爆ドーム」という言葉が広く使われ始めた。




動員学徒慰霊塔
第二次世界大戦中、労働力の不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍にたおれた学徒と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるため。


夕暮れ時の公園駐車場

撮影 平成21年10月11日
ドナルド・キーン氏は「国籍という枠組みを超越した神事で、もはや伊勢や日本国内だけの儀式ではなくなっている」という。
安倍首相が参列したことに賛否両論があるようであるが、国民的・国家的行事に日本国の代表が参加することは当然のことと私は思っている。
自分がその場にいたら、どのような行動をしたのだろうか。「助けなきゃ」と父親に最後の言葉を残しとびだしていった踏切事故。
若い頃には「人のためには…」と考え行動してきたつもりだが、いつのまにか「自分のために…」に変わってきている。
彼女が残した、最後の言葉と行動が頭から離れない。(この日のニュースから)

今日は広島平和記念公園の原爆ドーム周辺の写真を紹介。説明文はHPから掲載した。
原爆の子の像
佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかける。

2歳の時被爆した佐々木禎子さんは、幸いけがもなく、元気で活発な少女に成長していた。
ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診断され、8か月間の闘病生活の後、1955(昭和30)年10月25日に短い生涯を終えた。
禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けた。
病気を乗りこえ、懸命に生きようとした「サダコ」の物語は、ヒロシマの悲劇の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれている。
平和の灯
水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため建立。
広島平和記念資料館(重要文化財)
「広島平和記念都市建設法」に基づき、平和記念公園の中に、1955(昭和30)年6月に平和記念館が、8月に平和記念資料館が開館。
2006(平成18)年7月5日には、平和記念資料館の本館部分が国の重要文化財に指定された。

全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火された。
この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっている。
原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)
世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立した。


原爆ドーム


原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼、中にいた30人余りの人々は全員死亡したと伝えられている。

爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらした。

その形から、占領が明けた頃には「原爆ドーム」という言葉が広く使われ始めた。




動員学徒慰霊塔
第二次世界大戦中、労働力の不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍にたおれた学徒と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるため。


夕暮れ時の公園駐車場

撮影 平成21年10月11日
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