訪問日 令和5年10月18日
鳥越八幡神社
正式名称は「八幡神社」 「鳥越八幡宮」とも称す
社伝によれば、寛喜元年(1229年)に鳥越義宣が相模国から鶴岡八幡宮を勧請、これを「新八幡宮」と称したことに始まるという
鳥居
社殿が重要文化財に指定されているということで訪れた
初めて訪れる神社である
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/79/cac188e6469d38c3591007d042f85eae.jpg)
案内板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/66/87a27ebf6cf491aecde4c385976330db.jpg)
社務所
社務所周辺で清掃をしている女性に元気な声で挨拶をされた
朝からとてもいい気持ちになった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/c6/652030fede2f0c87ad31e89aeb95dd67.jpg)
手水舎
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/14/31efa16938dedb1c95c4797a56858c72.jpg)
御神木「夫婦杉」
新庄のパワースポットらしい
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/21/3e5284ab6acf6bd5eef324089118c371.jpg)
参道を歩く(左側の胸像については後述)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/a9/ca3c6f786737ed8bc49a52afb9b3b3cb.jpg)
鳥居
額には社号の「八幡宮」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/21/3b8728e2662cda71c81c12c43b6492f4.jpg)
拝殿(重要文化財)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/d8/8bc7526b75366954366fc6a54e28fc9c.jpg)
新庄藩2代藩主 戸沢正誠による元禄4年(1691年)の建立
桁行3間梁間2間、入母屋造平入、銅板葺で、正面に1間の向拝
背面からは幣殿を突出させて本殿に接続している
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/b6/76ff498fb72663880bee07c6fa46f95a.jpg)
総素木(しらき)造で江戸時代中期の堅実な特色を示す
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/41/0835f7de2e8d91af8f9060c68e308bc0.jpg)
拝殿の額には社号の「八幡宮」は、霊元天皇の第1皇子である、済深法親王が揮毫された写しである
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/01/20950506dfb496f4b14420bc48d5cc59.jpg)
拝殿内部
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/ee/51369b7c6caea92f9a4dfcb1084012cd.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/52/32f31f9af66c6eef610876eff33566e2.jpg)
幣殿と本殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/e2/0d0c42fdc0e8ca82fb3d093011462703.jpg)
本殿(重要文化財)
新庄藩祖戸沢政盛の養子定盛が、寛永15年(1638年)に建立
大型の一間社流造で、屋根は茅葺であったが、近年銅板葺に改められた
現存する新庄市最古の建造物
祭神:応神天皇
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/05/cb38fb53ea5a6858db7572798cc1f49a.jpg)
大瓶束(だいへいそく)には「鬼面の彫刻」が施され、梁は「カ士像の束」で支えられている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/c3/625167ddd65ee1e756e3901293360354.jpg)
反対側に移動して同じ彫刻があるか、確認してみた
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/69/b2b83bd9491850920951fa2fd44adeb6.jpg)
鬼面・力士像とも表情が若干だが違っている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/57/9fc7272d029c8a7b9bace99ee2763902.jpg)
宮大工の技術の高さにはいつも驚かされる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/e0/10e896535a982e7138ceb229f128782d.jpg)
社殿全体の構成や比例など、随所に洗練された技量が認められるとのこと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/b7/e1407d6bd0f4c76422f5ecc351f8712b.jpg)
松田甚次郎
昭和の初め、宮沢賢治に学んで、この地に農村演劇運動をおこした篤農家
松田甚次郎が「土舞台」を築いたのもこの境内においてである
「義農 松田甚次郎先生碑」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/0d/760ca8c510c9479a190ea1cc71dbc4d3.jpg)
「松田甚次郎像」
明治42年3月3日、市内鳥越の自作兼地主の裕福な農家に長男として生まれた
大正15年(1926年)に盛岡高等農林学校農業別科(現岩手大学)に進学
宮沢賢治が花巻農学校を退職し羅須地人協会(岩手県花巻市に設立した私塾)を設立した年でもあった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/6b/dd2e70d3e4ca3622d506d8b14b821687.jpg)
盛岡高等農林学校卒業間際の昭和2年(1927年)3月に宮沢賢治を初めて訪ねる
その時、甚次郎が賢治から「小作人たれ」、「農民劇をやれ」という二つのことを諭されたという
これを生涯の実践課題として取り組み、最上協働村塾を開き、塾生とともに農耕にはげみ、経営の合理化を図った
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/79/09b049061936f17656f033b7ca42c940.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/5c/699c607fb03c8524924674e0898bbe7b.jpg)
案内板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/da/793b752ee8a39acce4fe640d66782da1.jpg)
「土舞台」
村に帰った甚次郎は、村の青年を集めて鳥越倶楽部を結成し演劇活動を始める
彼らは、鳥越八幡神社に自分たちで土舞台を築き、36回もの上演を行った
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/7d/2af11869d4cd604002b3e04af1d820d7.jpg)
昭和13年甚次郎は、過去10年間の実践記録「土に叫ぶ」を刊行
全国の青年層から熱烈に歓迎され、たちまちベストセラーになり、東京有楽座で新国劇として上演された
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/b3/06762fdb368393735149d7dc315f29a8.jpg)
土舞台から美しい社殿を眺める
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/89/e3205f8fe5cc207be9d551caf502ffe4.jpg)
社殿が目的で訪ねた神社であったが、一人の若者の生き様に感銘を受けた
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/60/ab429b289451fb1372ff15392d9cc721.jpg)
昭和18年(1943年)は史上まれにみる干ばつの年だった
村では神仏の力に頼るよりほかなしとして、こぞって新田川の水源、八森山に雨乞いに登った
連日の過労に続く、無理な登山は甚次郎の体力を奪っていき、病に倒れ入院することとなった
その病は癒えることなく、8月、35歳の若さで土に帰っていった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/8b/9963b1fee990b4edab2b503a9152f74f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/91/b7527aaf6389664f860adcc038f4b0e1.jpg)
撮影 令和5年10月18日
鳥越八幡神社
正式名称は「八幡神社」 「鳥越八幡宮」とも称す
社伝によれば、寛喜元年(1229年)に鳥越義宣が相模国から鶴岡八幡宮を勧請、これを「新八幡宮」と称したことに始まるという
鳥居
社殿が重要文化財に指定されているということで訪れた
初めて訪れる神社である
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/79/cac188e6469d38c3591007d042f85eae.jpg)
案内板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/66/87a27ebf6cf491aecde4c385976330db.jpg)
社務所
社務所周辺で清掃をしている女性に元気な声で挨拶をされた
朝からとてもいい気持ちになった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/c6/652030fede2f0c87ad31e89aeb95dd67.jpg)
手水舎
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/14/31efa16938dedb1c95c4797a56858c72.jpg)
御神木「夫婦杉」
新庄のパワースポットらしい
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/21/3e5284ab6acf6bd5eef324089118c371.jpg)
参道を歩く(左側の胸像については後述)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/a9/ca3c6f786737ed8bc49a52afb9b3b3cb.jpg)
鳥居
額には社号の「八幡宮」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/21/3b8728e2662cda71c81c12c43b6492f4.jpg)
拝殿(重要文化財)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/d8/8bc7526b75366954366fc6a54e28fc9c.jpg)
新庄藩2代藩主 戸沢正誠による元禄4年(1691年)の建立
桁行3間梁間2間、入母屋造平入、銅板葺で、正面に1間の向拝
背面からは幣殿を突出させて本殿に接続している
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/b6/76ff498fb72663880bee07c6fa46f95a.jpg)
総素木(しらき)造で江戸時代中期の堅実な特色を示す
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/41/0835f7de2e8d91af8f9060c68e308bc0.jpg)
拝殿の額には社号の「八幡宮」は、霊元天皇の第1皇子である、済深法親王が揮毫された写しである
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/01/20950506dfb496f4b14420bc48d5cc59.jpg)
拝殿内部
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/ee/51369b7c6caea92f9a4dfcb1084012cd.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/52/32f31f9af66c6eef610876eff33566e2.jpg)
幣殿と本殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/e2/0d0c42fdc0e8ca82fb3d093011462703.jpg)
本殿(重要文化財)
新庄藩祖戸沢政盛の養子定盛が、寛永15年(1638年)に建立
大型の一間社流造で、屋根は茅葺であったが、近年銅板葺に改められた
現存する新庄市最古の建造物
祭神:応神天皇
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/05/cb38fb53ea5a6858db7572798cc1f49a.jpg)
大瓶束(だいへいそく)には「鬼面の彫刻」が施され、梁は「カ士像の束」で支えられている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/c3/625167ddd65ee1e756e3901293360354.jpg)
反対側に移動して同じ彫刻があるか、確認してみた
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/69/b2b83bd9491850920951fa2fd44adeb6.jpg)
鬼面・力士像とも表情が若干だが違っている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/57/9fc7272d029c8a7b9bace99ee2763902.jpg)
宮大工の技術の高さにはいつも驚かされる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/e0/10e896535a982e7138ceb229f128782d.jpg)
社殿全体の構成や比例など、随所に洗練された技量が認められるとのこと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/b7/e1407d6bd0f4c76422f5ecc351f8712b.jpg)
松田甚次郎
昭和の初め、宮沢賢治に学んで、この地に農村演劇運動をおこした篤農家
松田甚次郎が「土舞台」を築いたのもこの境内においてである
「義農 松田甚次郎先生碑」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/0d/760ca8c510c9479a190ea1cc71dbc4d3.jpg)
「松田甚次郎像」
明治42年3月3日、市内鳥越の自作兼地主の裕福な農家に長男として生まれた
大正15年(1926年)に盛岡高等農林学校農業別科(現岩手大学)に進学
宮沢賢治が花巻農学校を退職し羅須地人協会(岩手県花巻市に設立した私塾)を設立した年でもあった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/6b/dd2e70d3e4ca3622d506d8b14b821687.jpg)
盛岡高等農林学校卒業間際の昭和2年(1927年)3月に宮沢賢治を初めて訪ねる
その時、甚次郎が賢治から「小作人たれ」、「農民劇をやれ」という二つのことを諭されたという
これを生涯の実践課題として取り組み、最上協働村塾を開き、塾生とともに農耕にはげみ、経営の合理化を図った
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/79/09b049061936f17656f033b7ca42c940.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/5c/699c607fb03c8524924674e0898bbe7b.jpg)
案内板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/da/793b752ee8a39acce4fe640d66782da1.jpg)
「土舞台」
村に帰った甚次郎は、村の青年を集めて鳥越倶楽部を結成し演劇活動を始める
彼らは、鳥越八幡神社に自分たちで土舞台を築き、36回もの上演を行った
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/7d/2af11869d4cd604002b3e04af1d820d7.jpg)
昭和13年甚次郎は、過去10年間の実践記録「土に叫ぶ」を刊行
全国の青年層から熱烈に歓迎され、たちまちベストセラーになり、東京有楽座で新国劇として上演された
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/b3/06762fdb368393735149d7dc315f29a8.jpg)
土舞台から美しい社殿を眺める
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/89/e3205f8fe5cc207be9d551caf502ffe4.jpg)
社殿が目的で訪ねた神社であったが、一人の若者の生き様に感銘を受けた
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/60/ab429b289451fb1372ff15392d9cc721.jpg)
昭和18年(1943年)は史上まれにみる干ばつの年だった
村では神仏の力に頼るよりほかなしとして、こぞって新田川の水源、八森山に雨乞いに登った
連日の過労に続く、無理な登山は甚次郎の体力を奪っていき、病に倒れ入院することとなった
その病は癒えることなく、8月、35歳の若さで土に帰っていった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/8b/9963b1fee990b4edab2b503a9152f74f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/91/b7527aaf6389664f860adcc038f4b0e1.jpg)
撮影 令和5年10月18日
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