訪問日 令和5年10月18日
鳥越八幡神社
正式名称は「八幡神社」 「鳥越八幡宮」とも称す
社伝によれば、寛喜元年(1229年)に鳥越義宣が相模国から鶴岡八幡宮を勧請、これを「新八幡宮」と称したことに始まるという
鳥居
社殿が重要文化財に指定されているということで訪れた
初めて訪れる神社である

案内板

社務所
社務所周辺で清掃をしている女性に元気な声で挨拶をされた
朝からとてもいい気持ちになった

手水舎

御神木「夫婦杉」
新庄のパワースポットらしい

参道を歩く(左側の胸像については後述)

鳥居
額には社号の「八幡宮」

拝殿(重要文化財)

新庄藩2代藩主 戸沢正誠による元禄4年(1691年)の建立
桁行3間梁間2間、入母屋造平入、銅板葺で、正面に1間の向拝
背面からは幣殿を突出させて本殿に接続している

総素木(しらき)造で江戸時代中期の堅実な特色を示す

拝殿の額には社号の「八幡宮」は、霊元天皇の第1皇子である、済深法親王が揮毫された写しである

拝殿内部


幣殿と本殿

本殿(重要文化財)
新庄藩祖戸沢政盛の養子定盛が、寛永15年(1638年)に建立
大型の一間社流造で、屋根は茅葺であったが、近年銅板葺に改められた
現存する新庄市最古の建造物
祭神:応神天皇

大瓶束(だいへいそく)には「鬼面の彫刻」が施され、梁は「カ士像の束」で支えられている

反対側に移動して同じ彫刻があるか、確認してみた

鬼面・力士像とも表情が若干だが違っている

宮大工の技術の高さにはいつも驚かされる

社殿全体の構成や比例など、随所に洗練された技量が認められるとのこと

松田甚次郎
昭和の初め、宮沢賢治に学んで、この地に農村演劇運動をおこした篤農家
松田甚次郎が「土舞台」を築いたのもこの境内においてである
「義農 松田甚次郎先生碑」

「松田甚次郎像」
明治42年3月3日、市内鳥越の自作兼地主の裕福な農家に長男として生まれた
大正15年(1926年)に盛岡高等農林学校農業別科(現岩手大学)に進学
宮沢賢治が花巻農学校を退職し羅須地人協会(岩手県花巻市に設立した私塾)を設立した年でもあった

盛岡高等農林学校卒業間際の昭和2年(1927年)3月に宮沢賢治を初めて訪ねる
その時、甚次郎が賢治から「小作人たれ」、「農民劇をやれ」という二つのことを諭されたという
これを生涯の実践課題として取り組み、最上協働村塾を開き、塾生とともに農耕にはげみ、経営の合理化を図った


案内板

「土舞台」
村に帰った甚次郎は、村の青年を集めて鳥越倶楽部を結成し演劇活動を始める
彼らは、鳥越八幡神社に自分たちで土舞台を築き、36回もの上演を行った

昭和13年甚次郎は、過去10年間の実践記録「土に叫ぶ」を刊行
全国の青年層から熱烈に歓迎され、たちまちベストセラーになり、東京有楽座で新国劇として上演された

土舞台から美しい社殿を眺める

社殿が目的で訪ねた神社であったが、一人の若者の生き様に感銘を受けた

昭和18年(1943年)は史上まれにみる干ばつの年だった
村では神仏の力に頼るよりほかなしとして、こぞって新田川の水源、八森山に雨乞いに登った
連日の過労に続く、無理な登山は甚次郎の体力を奪っていき、病に倒れ入院することとなった
その病は癒えることなく、8月、35歳の若さで土に帰っていった


撮影 令和5年10月18日
鳥越八幡神社
正式名称は「八幡神社」 「鳥越八幡宮」とも称す
社伝によれば、寛喜元年(1229年)に鳥越義宣が相模国から鶴岡八幡宮を勧請、これを「新八幡宮」と称したことに始まるという
鳥居
社殿が重要文化財に指定されているということで訪れた
初めて訪れる神社である

案内板

社務所
社務所周辺で清掃をしている女性に元気な声で挨拶をされた
朝からとてもいい気持ちになった

手水舎

御神木「夫婦杉」
新庄のパワースポットらしい

参道を歩く(左側の胸像については後述)

鳥居
額には社号の「八幡宮」

拝殿(重要文化財)

新庄藩2代藩主 戸沢正誠による元禄4年(1691年)の建立
桁行3間梁間2間、入母屋造平入、銅板葺で、正面に1間の向拝
背面からは幣殿を突出させて本殿に接続している

総素木(しらき)造で江戸時代中期の堅実な特色を示す

拝殿の額には社号の「八幡宮」は、霊元天皇の第1皇子である、済深法親王が揮毫された写しである

拝殿内部


幣殿と本殿

本殿(重要文化財)
新庄藩祖戸沢政盛の養子定盛が、寛永15年(1638年)に建立
大型の一間社流造で、屋根は茅葺であったが、近年銅板葺に改められた
現存する新庄市最古の建造物
祭神:応神天皇

大瓶束(だいへいそく)には「鬼面の彫刻」が施され、梁は「カ士像の束」で支えられている

反対側に移動して同じ彫刻があるか、確認してみた

鬼面・力士像とも表情が若干だが違っている

宮大工の技術の高さにはいつも驚かされる

社殿全体の構成や比例など、随所に洗練された技量が認められるとのこと

松田甚次郎
昭和の初め、宮沢賢治に学んで、この地に農村演劇運動をおこした篤農家
松田甚次郎が「土舞台」を築いたのもこの境内においてである
「義農 松田甚次郎先生碑」

「松田甚次郎像」
明治42年3月3日、市内鳥越の自作兼地主の裕福な農家に長男として生まれた
大正15年(1926年)に盛岡高等農林学校農業別科(現岩手大学)に進学
宮沢賢治が花巻農学校を退職し羅須地人協会(岩手県花巻市に設立した私塾)を設立した年でもあった

盛岡高等農林学校卒業間際の昭和2年(1927年)3月に宮沢賢治を初めて訪ねる
その時、甚次郎が賢治から「小作人たれ」、「農民劇をやれ」という二つのことを諭されたという
これを生涯の実践課題として取り組み、最上協働村塾を開き、塾生とともに農耕にはげみ、経営の合理化を図った


案内板

「土舞台」
村に帰った甚次郎は、村の青年を集めて鳥越倶楽部を結成し演劇活動を始める
彼らは、鳥越八幡神社に自分たちで土舞台を築き、36回もの上演を行った

昭和13年甚次郎は、過去10年間の実践記録「土に叫ぶ」を刊行
全国の青年層から熱烈に歓迎され、たちまちベストセラーになり、東京有楽座で新国劇として上演された

土舞台から美しい社殿を眺める

社殿が目的で訪ねた神社であったが、一人の若者の生き様に感銘を受けた

昭和18年(1943年)は史上まれにみる干ばつの年だった
村では神仏の力に頼るよりほかなしとして、こぞって新田川の水源、八森山に雨乞いに登った
連日の過労に続く、無理な登山は甚次郎の体力を奪っていき、病に倒れ入院することとなった
その病は癒えることなく、8月、35歳の若さで土に帰っていった


撮影 令和5年10月18日
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