今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

東明山 興福寺(長崎県長崎市寺町4-32)

2023年08月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月25日

東明山 興福寺
十数年前、寺社巡りを始めた頃、参考にしていたのが五木寛之氏の「百寺巡礼」だった
その一つに、この興福寺もあり今回初めて訪れることになった

山門(長崎県指定文化財)
風頭山の山麓に15の寺院が並列する寺町通りの中ほどにある
朱色の山門により「あか寺」として市民に親しまれている



山号の「東明山」は隠元禅師の書
興福寺は、我が国最初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖「隠元禅師」が、中国より初めて日本に渡海され住持した地である



扁額「初登寶地」は隠元禅師の書
日本黄檗宗発祥の地、隠元禅師初登の聖地である



隠元禅師像
隠元禅師像というのは初めて観た
いつもなら数枚写真が残っているのだが、疲れていたためかこの1枚だけ



隠元禅師は中国から承応3年(1654年)長崎へ渡来、興福寺住職として滞在
長崎滞在1年後、禅師は、京都妙心寺竜渓禅師らの懇請により上京、将軍家綱に謁し、勅を承けて日本に留まる決心を定めた
寛文元年(1661年)京都の宇治に故郷黄檗山の山号寺号にちなんだ同じ名の黄檗宗大本山万福寺を開山
僧俗貴賤多くの人々と交わり、慕われて81歳でこの地に永眠された



斎藤茂吉歌碑



大雄宝殿 (重要文化財)
寛永9年(1632年)第二代黙子如定禅師が建立、のちに大火で類焼
元禄2年(1689年)再建、慶応元年(1865年)暴風のため大破
明治16年(1883年)に再建し現在に至る



ほとんどが中国工匠による純粋の中国建築で、資材も中国より運送したもの






「大雄宝殿」と大書した扁額は隠元禅師筆






本尊:釈迦如来
大雄宝殿の中央高く懸けてある瑠璃燈(長崎県指定文化財)は、上海より運ばれ、堂内で組み立てられた



氷裂式組子の丸窓






魚板






媽姐堂(長崎県指定文化財)
媽祖とは「菩薩」「天后聖母」などとも呼ばれる航海の守護神
中国宋代に福建省に起こった土俗的信仰だったが、元代には江南から北京へ糧米を運ぶすべての船舶に祀られた



長崎へ来航する唐船には必ず「媽祖」が祀られ、停泊中は船から揚げて唐寺の媽祖堂に安置した



脇立はふつう赤鬼青鬼と呼ばれる千里眼と順風耳



幡と五色の吹き流し






鐘鼓楼(長崎県指定文化財)
寛文3年(1663年)の市中大火のあと、元禄4年(1691年)に五代悦峰禅師が再興
享保15年(1730年)日本人棟梁により重修



二階建て上階は梵鐘を吊り太鼓を置き、階下は禅堂とした
梵鐘は戦時中に供出して今はない



旧唐人屋敷門(重要文化財)
寛永18年(1641年)出島にオランダ人が収容された
約50年後には市内に散宿していた唐船主以下中国人も民宿を禁じられ、元禄2年(1689年)十善寺郷(現在の館内町)に収容された



約一万坪の広大な敷地内には住宅、店舗、祀堂などが軒を連ね一市街地を形成し、唐館あるいは唐人屋敷と呼ばれた
当時の建物は大火や移転などで残っていないが、この唐人住宅門だけが民家の通用門として遺存していたのを、興福寺境内に復元した
建築年代は不明だが、天明4年(1784年)の唐館全焼の大火以降のものと推定される



中島聖堂遺構大学門(長崎県指定文化財)
東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともに長崎聖堂は、日本三聖堂のひとつで最も古く由緒あるもの
儒者向井元升が正保4年(1647年)に聖堂・学舎を開いた
大火類焼、一時衰退などあったが、元升の子元成が京より帰来し再興、正徳元年(1711年)に竣成した
中島川のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれた



境内は多くの花で飾られていて美しい
訪れた日は大雄宝殿内で花の写真展が開催されていた



撮影 令和5年5月25日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖寿山 崇福寺 その2(長崎県長崎市鍛冶屋町)

2023年08月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月25日

聖寿山 崇福寺 その2

大雄宝殿(国宝)
護法堂の前に位置するのが崇福寺の本堂「大雄宝殿」
正保3年(1646年)1月に唐商 何高材(がこうざい)の寄進によって創建された
長崎市に現存する最古の建物



もともとは1階建てだったが、35〜6年後に日本人の棟梁によって2階が付け加えられた
1階は中国様式、2階が和風様式になっている



扁額には「大雄寶殿」



本尊:釈迦如来坐像(長崎県指定文化財)
大雄とは釈尊の別称の一つ(世尊とも)
本尊である「釈迦如来坐像」が安置されているので大雄宝殿という



昭和10年頃の仏像修理の際、本尊の「釈迦如来坐像」の胎内から、銀製の五臓、布製の六腑等が発見された



金属の五臓があるのはこの釈迦如来が唯一のもの



十八羅漢(長崎県指定文化財)









媽祖門(重要文化財)
媽祖門(まそもん)は媽祖堂の門であり、さらに大雄宝殿と方丈を結ぶ渡り廊下の役割も兼ねている

天井の造りも特徴がある
媽祖堂側(左)は和式の舟底天井



鐘鼓楼側(右)は中国式の黄檗天井となっている
この門の中心を支点として媽祖堂側が山、鐘鼓楼側は埋立地だということが、平成元年(1989年)の保存修理工事の際判明した



この媽祖門の奥が「媽祖堂」
媽祖門を伴う媽祖堂があるのは全国で唯一崇福寺だけ



門や室内に掲げた額が扁額であり、あわせて聯額(れんがく)といい、黄檗寺院には特に多い



崇福寺の聯額では、隠元禅師、即非禅師、千獃禅師が書いたものが長崎県指定文化財となっている



媽祖堂(長崎県指定文化財)
「媽姐堂」に祀られている“媽祖(まそ)”とは、主に華南地方で尊崇されている海の守護神のこと
各唐船ごとにまつられていた媽祖像は、長崎に入港すると媽祖堂に奉安していた









「媽祖」は女神で、10世紀に福建省に実在した天候予測能力を持った女性を神性化したもの



「媽祖」像を挟み、左が「千里眼(赤鬼)像」、右が「順風耳(青鬼)像」
この2神は、元々は金精(千里眼)、水精(順風耳)と呼ばれる妖怪だったが、媽祖によって祓い清められて改心し、以降媽祖の随神となった
順風耳(青鬼)像
千里先の物音や災いを聞き分ける力を持ち、悪巧みを瞬時に聞きつけて媽祖に報告する役目を担う



千里眼(赤鬼)像
千里先のものを見分ける力を持ち、災害から媽祖を護る



開山堂
奥にある建物が媽祖堂









柱の礎盤も中国製
現地では気付かなかったが、鹿、唐獅子、麒麟等の霊獣や梅花、蓮などが浮彫されている



魚板
「かいばん」とも呼ばれ、木魚の原型とされている
食事の時を告げるために叩いたもの






崇福寺は退職時に同僚と訪れた寺院であり今回は再訪となる
あれから10数年経ったがその時の記憶ははっきりと残っている



特にこの帰り側に目線の同じ高さから観る三門(重要文化財)の姿は格別だ



撮影 令和5年5月25日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖寿山 崇福寺 その1(長崎県長崎市鍛冶屋町)

2023年08月13日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月25日

聖寿山 崇福寺 その1
黄檗宗の寺院
寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から「超然」を招聘して創建
中国様式の寺院としては日本最古のもの

三門(重要文化財)
寺院の外門で中央と左右に門戸のあることから「三門」と呼ばれる
嘉永2年(1849年)に再建された際、初めて「龍宮門」と呼ばれる様式で造られた



中国で材料を加工し、中国人技術者が建設した建物が多い多い崇福寺の中、この三門は日本人によって建てられた



右側の門



左側の門



三門の彫刻



狛犬






石段



階段途中にある



石仏の目の周りが不気味だ



第一峰門(国宝)
第一峰門は、中国の寧波(ニンポー)で加工された材料を唐船で長崎に運び入れ、元禄8年(1695年)に完成した



別名は唐門・海天門・中門など



第一峰と海天の名称は扁額の文字による



軒下の組物は、「四手先三葉栱」と呼ばれる複雑巧緻な詰組は他には例がなく、華南地方にも稀という



裏に回ってみる
赤い門扉に描かれているのは青いコウモリと牡丹の花



九州に5件ある国宝建造物の内、長崎市には3件、その内2件が崇福寺にある(あとの1件は大浦天主堂)
この組物、何故か不思議な魅力があり見入ってしまう



金鑪(きんろ)
黄金で作った香炉






護法堂(重要文化財)
享保16年(1731年)の建立
一つの堂に関帝、観音、韋駄天が祀られている






関帝堂



「護法堂」には、面白い伝説が残されている
関帝像の前の供物がネズミに食べられており、和尚が関帝像を責めて右頬を打ったために、関帝像の右頬の漆が剥げてしまった
翌朝になって見てみると、関帝像の隣にいる「韋駄天」の持つ剣にネズミが刺さっていて、関帝の命令でネズミ退治をしたようだったと



これには和尚も驚き、関帝像の右頬を修理させたが、何度漆を塗り直してもうまくいかず、現在も傷が残ったままなのだと






観音堂






天王殿
堂内の扁額『護法蔵』に因み明治43年(1910年)特別保護建造物に選ばれた際に護法堂と名付けられたという






鐘鼓楼(重要文化財)
2階に梵鐘(長崎県指定文化財)を吊り太鼓を配置し、鐘楼と鼓楼を兼ねている



棟札には、享保13年(1728年)の年号と木匠頭 荒木治右衛門の記載






大釜(長崎市指定文化財)
延宝8年(1680年)に起きた不作により米殻不足となり、長崎で多くの餓死者がでた
崇福寺でも施粥(せじゅく)をはじめたが日々1000人を超えるようになった



更に飢饉は続き普通の鍋では間に合わず、鍛冶屋町の鋳物師に注文してこの大釜を造らせた
一度に米630キロ(4200合)を炊き、飢饉に苦しむ3000人に施粥したと伝えられている



多くの人を飢餓から救った「大釜」



次回に続く

撮影 令和5年5月25日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎山 清水寺(長崎県長崎市鍛冶屋町8-43)

2023年08月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月25日

長崎山 清水寺
真言宗霊雲寺派の寺院
元和9年(1623年)京都・清水寺の僧・慶順により創建された

山門
石段の途中にある



奇縁氷人石
山門脇にある縁結びの願掛け石
江戸時代、迷子探しや男女の縁結びに役立てたと言われている
左側に「たつぬるかた」(尋ねる方)、右側に「をしゆるかた」(教える方)と刻まれ
結婚を望む人は左に、世話人は右に名前や素性を書いて紙を貼ったと伝えられている



石段(仁王門跡)
本堂に上る石段の最初の踊り場には、かつて左右に仁王門が建立されていた



天保14年(1843年)の大火で仁王門が焼失
現在は礎石だけが残されている



石段横の石仏



中門(石門)
明和8年(1771年)四方田慈輔の寄進により石段の最上段に建てられた
「廣大圓満」の文字が彫られている



長崎の寺院ではいくつかみられるが、全国的には珍しいアーチ型の石門
受付の女性の話しによると今は埋め立てられ建物が多くあるが、昔は寺の前まで海だったそうだ
塩害から護るために石門になったのではないかと説明してくれた






鐘楼



手水舎









本堂(重要文化財)
寛永4年(1627年)に現本堂の前身となる木造懸造の舞台をもつ二重屋根の瓦葺本堂が完成
寛文3年(1663年)の大火で境内の一部が被災した



寛文8年(1668年)本堂再建の造営に福建省出身の帰化唐人、何高材が息子の兆普、兆有とともに着手した
何高材の亡き妻は日本人で、その供養のために再建に尽力したのではないかといわれている



平成17年(2005年)から平成21年(2010年)にかけて解体を伴った修復工事が実施され、文久2年(1862年)当時の姿に復元された



扁額には「慈悲世界」



真言宗寺院の本堂であるが、開放的な構えや細部にみられる中国風の意匠などに黄檗寺院との共通性がみられる
長崎県内に残る密教寺院の本堂としては最も古い



堂内に入る
扁額には寺号の「清水寺」



本堂内部



本尊:千手観音菩薩
開祖である慶順僧都が京都清水寺より奉持してきた
清水型といわれる千ある手の一つが頭上で合掌する姿で、頭上には小如像を掲げている



本堂内陣の中央厨子内に秘仏として祀られる
御開帳は60年に一度と決められているという……まさかと思うが



右側厨子
堂内には本尊千手観音立像のほか、千手観音の眷属である二十八部衆像を安置する



左側厨子



堂外に出る
唐船つなぎ石
唐貿易がさかんだった頃、入港する唐船を接岸する際、この石に綱をつないだといわれている
貿易が終わった後、出島湾岸にあったものが境内へ運ばれ石灯籠として元治元年(1864年)に建立された



灯籠
「文化八年」(1811年)と彫られている



京都清水寺のものを模した石舞台に使われた欄干の一部か



写真右側の欄干が「清水石舞台」



桜(そめいよしの)
樹齢100年以上



石仏



面長な風貌は独特



狛犬






大師堂
貞享3年(1686年)に築造された祖師堂の老朽化に伴い、宝暦10年(1760年)に建立された
木造瓦葺・単層入母屋造・三十三坪の畳敷きの建物






内陣中央に弘法大師を祀った大師堂



慶順僧都を祀った祖師堂



親鸞・阿弥陀如来像と地蔵菩薩像を祀った阿弥陀堂



塔のような建物



内部には金ピカの仏像(如意輪観音か)



石仏群









歌でも歌ってそうな六地蔵尊






巡禮武佐衛門(じゅんれいぶさえもん)像



幼児を背負い妻との巡礼姿を石像にした
西国巡礼も30余度に及び長崎西国巡礼の初めといわれる



櫻姫美人稲荷神社
もとは大師堂の脇に鎮座していた石祠



寛政元(1789)年に武元珍・元儔らが奉納



「石造流見世棚造」という珍しい祠で、明治時代に本堂の南東側の丘の上に移された



稲荷社は慶順僧都の時代から境内に祀られ、江戸時代の神仏混合の名残ともいわれている



祠は平成18年9月の台風13号の暴風で倒れた大木の下敷きになり崩壊。平成21年に復元した



石仏群



仏像の風貌について尋ねると、(考えたこともなかったが)長崎の寺院の多くは帰化唐人の影響を受けていると









頭部、胴体が落ちた石仏






清水寺の受付の女性には親切にして頂いた
車を駐車場に置き、寺巡りをするようにと地図と簡単な道案内もしていただいた



撮影 令和5年5月25日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

端島<通称:軍艦島>(長崎県長崎市)

2023年08月11日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月25日

端島<通称:軍艦島>(世界遺産)
平成27年(2015年)国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録された



長崎港から「軍艦島上陸ツアー」というのもあるが年金生活者には厳しい価格帯だった
軍艦島を一番近くから見えるという野母崎総合運動公園(軍艦島展望所)に車を走らせた



長崎市内で渋滞はあったが海岸線を走る国道499号線は快適で軍艦島の姿を見ながらのドライブ
野母崎総合運動公園はきれいに整備されていて、そこから見える景色は美しい



端島での石炭の発見は一般に文化7年(1810年)のこととされる
江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった
明治23年(1890年)端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡した
譲渡後は端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長した



この頃には社船「夕顔丸」の就航、製塩・蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始
社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備され、島の周囲が段階的に埋め立てられた
大正5年(1916年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建設された
この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道



大正10年(1921年)に長崎日日新聞も、当時建造中だった戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる
「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる



野母崎総合運動公園の小高い場所に「軍艦島展望所」がある



端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった
労働者のための福利厚生も急速に整えられていたが、仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制
「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉もある



大正5年(1916年)以降から少年および婦人の坑内使役が開始
大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される
昭和14年(1939年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化する



人口が最盛期を迎えた昭和35年(1960年)には5,267人の人口があった
人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退



1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、昭和45年(1970年)に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表
その後数百万トンの石炭を残したまま昭和49年(1974年)1月15日に閉山した
4月20日の連絡船の「最終便」で退去した担当者らの離島をもって、端島は無人島となった



軍艦島展望所からの眺め



野母崎総合運動公園



軍艦島展望所から軍艦島までの距離は直線で約4km
肉眼ではぼんやり見える程度だが、デジタルカメラで撮影しパソコンで拡大するとこの程度まで見ることができる
帰り際、「良い写真が撮れたかい」と高齢者に声を掛けられた
父親が戦艦武蔵に乗っていた(生還者)そうで戦争の話しに耳を傾けた



夫婦岩
バス停近くに、4億8000万年前にできた夫婦岩がある



近くに2階建ての展望室があり撮影スポットの一つになっている



遊び心で撮ってみた



撮影 令和5年5月25日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九十九島(長崎県佐世保市)

2023年08月10日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月24日

九十九島(西海国立公園)
車での九州への旅は今回が最後になると決めていた
九十九島の美しい景色は雑誌等で知ってはいたが、自分の目で一度確かめてみたかった



九十九島は、佐世保湾の外側から北へ平戸までの約25kmの海域に点在する海域
この場所に来る途中、時折車から見える海の景色は最高で期待は高まっていた



複雑に入り組んだリアス海岸と島々が織りなす美しい自然景観が広がっている
九十九(くじゅうく)とは数がたくさんあるという意味で使われる例え言葉で、実際の島の数は208ある
平戸藩主松浦静山が、出羽国(秋田県)の「象潟九十九島」に倣い名づけたとされる



佐世保市内には「九十九島八景」と呼ばれる8ヶ所の展望スポットがある
ここは、その一つで佐世保市下船越町にある展望公園「展海峰(てんかいほう)」という場所



右側には佐世保市が遠くに見える






写真を撮っていると、ある男性から声を掛けられた
「平戸城の駐車場でも一緒でしたよね」と



私の車が札幌ナンバーだったので声を掛けてくれたようだ
現在は大阪に住み悠々自適の生活を送っているが、少し前まで北海道で競走馬の牧場を経営していたという
馬主でもあり武豊騎手や福永祐一騎手などにも騎乗してもらったという



競馬好きな私としては知り合いになりたかったが、あっさりと去って行った



こちらは1階の展望台



2・3m下がるだけで見え方も変わってくる






現地では気付かなかったが写真をよく見ると佐世保湾に軍艦がいる



調べて見ると前日の23日まで、世界最大級のアメリカ海軍原子力空母「 ニミッツ」が停泊していたという
広島で開かれたG7サミットに合わせた寄港ともみられている



撮影 令和5年5月24日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亀岡神社(長崎県平戸市岩の上町1517番地ホ第2)

2023年08月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月24日

亀岡神社
平戸城へ向かう途中に訪問予定にはなかったが気になる神社があった
歴代平戸藩藩主を祀っているという



狛犬1






狛犬2






中川愛子像
肥前国平戸藩主松浦清の11女として平戸に生まれる
姉の夫である園基茂の養女として中山忠能に嫁し、3男2女(忠愛・忠光・公董・栄子・慶子)を産んだ
娘・慶子が孝明天皇に仕え、やがて愛子の孫にあたる皇子・祐宮睦仁親王(のちの明治天皇)を産むと4歳時までその養育を任された
のちに、曾孫・明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育にもあたっており、天皇2代の養育に関わったことになる



皇室関係の像なのでプレートの傷が気になった(修復希望)



拝殿(国登録有形文化財)
寛永8年(1631年)平戸藩 藩主 松浦棟が祖霊4柱を平戸城内の霊椿山に祀ったのに創まり(霊椿山神社)
明治になって霊椿山、七郎、乙宮、八幡の4神社を合祀
明治11年(1878年)に現社地に社殿を営み、明治13年に各祭神を遷座、亀岡神社に改称した



阿翁石と呼ばれる松浦市鷹島産の玄武岩で作られた基壇の上に建てられている
桁行3間、梁間3間の入母屋造、本瓦葺で3面に欄干を配した廊下が廻り正面に石段を設ける
内部には合祀した四社のうち三社の額が掲げられ神社の歴史が伝えられる



幣殿・登廊(国登録有形文化財)
幣殿は、拝殿の北側中央から幅1間、奥行き1間半、一段下がった床の突き当たりに御神体の「鏡」が置かれている
登廊は、太鼓橋状に反りを持たせ側面に欄干を配置するなど本殿とともに独特の形式をもつ



本殿(国登録有形文化財)
境内北端中央の高い石垣に本殿が建つ
桁行3間、梁間3間の切妻造で、屋根は鉄板葺で棟に千木と鰹木が飾られている



入口は桁側から入る平入で正面中央に階段があり左右に神像を安置させる独特の形式をもつ






神馬



清宮貴子内親王御手植木






塞渕詞(そくえんし)神社
祭神:密姫命(みつひめのみこと)



社務所



神輿殿



神楽殿(国登録有形文化財)
参道の西面に建ち、桁行3間、梁間3間入母屋造本瓦葺で背面に桁行1間、梁間3間の後座を設ける
床は板張りで、四方を吹放しとしている



国の重要無形民俗文化財の「平戸神楽」を奉納する舞台






撮影 令和5年5月24日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平戸城(長崎県平戸市岩の上町1458)

2023年08月08日 | 
訪問日 令和5年5月24日

平戸城(別名:亀岡城)
初めて訪れる場所は駐車場探しに苦労する
困っていると、地元の親切な女性が城に一番近い場所を教えてくれた



乾櫓(いぬいやぐら)
駐車場から少し歩いた場所に乾櫓が見えてくる



二の丸御殿を守護していたとされる乾櫓
平戸の乾の方角(北北西)にあたることから、乾櫓と呼ばれた



「日本最初 たばこ種子渡来之地」の石碑
慶長6年(1601年)に「たばこ」の種子がこの地に伝えられたという記録をもとに建てられた
*「たばこ」が日本へ伝わった正確な年代や状況については諸説あるらしい
 天文12年(1543年)に種子島に漂着したポルトガル人が、鉄砲とともに伝えたとする説
 慶長10年(1605年)前後に、ポルトガルやスペインなどの西欧諸国から渡来したとする説



案内板
平戸藩では家臣団の再編や領国支配の強化を進める上から、居城の拡充と城下町の整備が必要となっていた
そこで慶長4年(1599年)松浦鎮信(法印)が亀岡の地(日の岳)に新城の築城を開始
平戸城はこの年に着工し、12年以上の歳月をかけて完成した



地蔵坂櫓
二の丸北側に位置する櫓
乾櫓と北虎口門を結ぶ中間点にある



城壁に張り出して、側面から北虎口門を守ることを想定している
城壁の曲線部分が美しく印象に残っている



天守閣
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃、徳川家康からの嫌疑を晴らすため、城の一部を破却したと伝わる
慶長18年(1613年)火災により大半を焼失した
自ら火を放ち城を破却したとも言われている
豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためともいわれている



元禄15年(1702年)松浦鎮信(隠居により改名)は幕府に平戸城の再築城を願い出て、翌元禄16年(1703年)に許可された
江戸時代中期に築城が裁可されたのは異例であった
これは徳川家との姻戚関係と、東シナ海警備の必要性によるものといわれている



5代藩主松浦棟が山鹿流の築城術を用いて築城に着手
元禄17年(1704年)2月に着工、宝永4年(1707年)にほぼ完成した
天守は上げられず、二の丸に建てた3重3階の乾櫓をその代用とした



城からの景色が美しい
遠くに見える朱色の「平戸大橋」を渡りやってきた
橋からの眺めは高所恐怖症ということも忘れるほどの絶景であった



北に位置する「見奏櫓」






平戸湾を往来する船



城よりもこの場所に佇み風景を愉しんでいる時間の方が長かった



見奏櫓(けんそうやぐら)
二の丸北部を守る見奏櫓は、「五段ハグチ」と呼ばれる急な崖の上にある
絶景を見ながら休憩できるスペースになっている



明治4年(1871年)廃藩置県後の廃城令により廃城となる
現存する狸櫓と北虎口門(搦手門)を残し、城の建物は解体された



昭和37年(1962年)模擬天守及び復興の見奏櫓、乾櫓、地蔵坂櫓、懐柔櫓が建てられた
天守内は松浦党などの資料館になっている
現在の城跡は亀岡神社の境内や亀岡公園となっている



撮影 令和5年5月24日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平戸ザビエル記念教会(長崎県平戸市鏡川町259-1)

2023年08月07日 | 教会
訪問日 令和5年5月24日

平戸ザビエル記念教会
平戸といえばキリスト教のイメージがある
信仰心はないが宗教施設(建築物)には昔から興味を持っていた



ルルドの泉
ピレネー山脈の麓の川縁に厳かに潜む秘境地ルルド
そこに、奇跡的にいくつもの不治の病を治した、と言い伝えられる泉がある



1854年、貧しい家の生まれの14歳の少女ベルナデットはルルド近くの洞窟付近で薪を拾っていた
そばに居た一人の女性が少女に向かって言った「泉の水で顔を洗いなさい、そしてその水を飲むのです」
しかし周りを見ても水はなく、近くにあった川の水を飲もうとすると、その女性は「洞窟の土を手で掘ってごらんなさい」と
そこから泥水が湧き出、徐々に聖水へと変化していった



そして驚くべき事に、この泉には、病気を癒す力があることが判った
ベルナデットは何度と現れるその女性に何度も名を尋ねるが、「私は無原罪の御宿りです」と答えたのが1858年、つまり4年後だった
*無原罪の御宿りとは、聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れと穢れを存在のはじめから一切受けていなかったとする、カトリック教会における教義



ベルナデッタは、貧しい家庭で育ったために学校へ通うことは出来ず、全くの無学だった
その少女が『無原罪の御宿り』という、困難な言葉を口にしたことが聖母マリアの存在を認められる決め手になった
そして初めの出現から10年経った後の1864年に聖母が現れたという洞窟に聖母像が建てられた

平戸ザビエル記念教会は、献堂75周年とザビエル生誕500周年を記念して、その洞窟ににたルルドを建設した



平戸ザビエル記念教会聖堂
「寺院と教会の見える風景」として平戸を代表する景観の一つとなっている
平戸は、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三度にわたって布教に訪れた地



教会の保護者:大天使聖ミカエル



平戸殉教者顕彰慰霊之碑






ザビエル以降に来日したイエズス会宣教師たちによって平戸島や生月島では多くの住民がカトリックの洗礼を受けた
江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタンとして信仰を受け継いでいった人が多かったという



大正2年(1913年)隣接地に「カトリック平戸教会」として仮聖堂が建てられた
昭和6年(1931年)4月に現在の教会堂が建てられ、早坂久之助司教によって献堂式がおこなわれた






聖フランシスコ・ザビエル記念像
献堂40周年の昭和46年(1971年)9月に建立









聖母マリア像









周辺で写真を撮っていると親子連れの観光客が「綺麗」と大きな声を発していた
近寄ってみると聖堂の十字架の上に太陽と雲があり美しい光を放っていた






撮影 令和5年5月24日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高野山 最教寺(長崎県平戸市岩の上町1206番地1)

2023年08月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月24日

高野山 最教寺
道路地図を見て気になっていた寺院で訪れることにした
大きな駐車場に車が1台もなく急に不安になった

境内図
この時は「西高野山」というのが最教寺の別称とは知らずにいた
境内図を参考にすることもなく、目の前にあった「本堂」を見逃してしまった



真言宗智山派の寺院
本尊:虚空蔵菩薩像



鐘楼



愛染堂






愛染堂横にある石仏



奥に「霊宝館」があり休館日ではなかったが開いていなかった
雑草が生い茂っていて整備されている感じもなかった

鎮守社









肥前七福神






八十八ヶ所 苔の参道



参道横には石仏



緩やかな苔の参道の最後は石段になる



奥の院境内



修行大師像



大日如来像



手水舎



奥の院本殿
伝承によれば、当寺がある場所は空海が唐から帰国して初めて護摩を焚いたところと言われている
真言宗に帰依していた鎮信はこの地に寺院の建立を思い立った



しかし、この場所には曹洞宗の勝音院という寺院があり、鎮信は移転を要望したが住職の竜呑はこれを拒否した
鎮信は勝音院を住職諸共焼き払ってその跡地に最教寺を復興したという



その後、鎮信はしばしば竜呑と弟子の英鉄の霊に悩まされていた
ある時、赤子の泣き声で亡霊が退散しその後悩まされることがなくなったという
当寺ではこれを起源とする「子泣き相撲」が毎年2月3日の節分の日に行われている



本殿蟇股の彫刻









堂内の様子



不動明王









三重大塔
三重大塔は、最教寺が弘法大師の1150年御遠忌を記念して、奥の院本殿横に建立した
相輪までの高さは33.5m



塔好きな私だがこの塔には何故か心が動かなかった









撮影 令和5年5月24日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第59回すすきの祭り「花魁道中」(北海道札幌市中央区)

2023年08月05日 | 北海道
訪問日 令和5年8月3日

第59回すすきの祭り「花魁道中」
2023年 すすきの祭りは8月3日(木)~5日(土)
メインイベントとともいえる「花魁道中」は初日8月3日(木)20時 豊川稲荷から始まった



写真ブログを始めてからネタを探すために撮り始めたが、年々観客が多くなっている
今回は30分前に場所を確保、偶然出発前の待機場所付近だった



出発前ではあるがこの先頭の女性は常にキリッとした表情を崩さずにいた



今年の花魁「夢千代太夫」役は、相川 みりあ さん (会社受付)
以前はススキノに勤務するホステスが選ばれていたが、最近は学生や会社員から選ばれている



出発前なので高下駄(7kg)は履いていない
この下駄の高さは30cmほどある
花魁道中の歴史を調べると、衣装や髪飾りが豪華になるにつれ、バランスをとるために高くなっていったという



出発前最後の衣装や髪飾りの確認をしている



新造役の女性も少し緊張感が増してきている



禿(かむろ)役の女の子も親から声を掛けられていた



この女性はずっと表情も姿勢もを崩さずにいる
プロ意識を感じる女性(美しい)



花魁役も着物で足もとが見えず、周囲に助けられ高下駄に足を通した



花魁の準備もできた



札幌の花魁道中の歴史について
第20回(昭和59年)に、記念行事として東京浅草から花魁役等9名を招き「花魁道中」を披露した
それが、予想以上の人気となり、翌年(昭和60年)から恒例の出し物となった
花魁は公募により2名が選ばれ「夢千代大夫」「佳津乃大夫」と命名された



拍子木が鳴り花魁道中が始まった



始まったばかりで、ここでは余裕の表情だが衣装等で30kgほどの重量がある















高げたを履いた太夫が、つま先を内側に向けた後、大きく外側に開く「外八文字」という独特の歩き方で進んで行く









花魁道中の情報をわかりやすくアナウンスしてくれている女性が目の前にいた
この美しい声は聞き慣れていたが、様子を見ていると大変そうだった



佳津乃大夫の列が続く



昔は顔を白くして薄明りの中でも出来るだけ顔を認識しやすくしたというが、写真を撮っていてなるほどと思った



新造役の女性



今年の花魁 佳津乃太夫役は、小林 世佳 さん(ネイリスト)



「花魁道中」花魁役が決定してから、この日に備えて稽古をこなしてきたと想像する



一生一度の機会に恵まれ、いい想い出になったことだろう



見事でした









「外八文字」の歩き方をしている時の顔は真剣そのもの



無事終わったあとの表情がとても可愛い



後ろ姿も艶やか



撮影 令和5年8月3日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

湊の立神岩(佐賀県唐津市湊町595)

2023年08月04日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月23日

湊の立神岩(唐津市天然記念物)
この周辺を走っていたとき、人気YouTuber「あいたの~愛犬と楽しくお出かけ~」でこの景勝地を訪れていたことを思い出した
今回の旅でこのYouTuber影響を受け、訪れた3つ目の場所になる



カーナビでは違う場所を案内されUターンもできず諦めかけた場所でもある
スマホのナビに救われたどり着くことができた



別名夫婦岩とも呼ばれている
約30mの大きな岩の柱が人のように寄り添っている



この巨岩は火山の噴火によってマグマが冷え固まったとき、ブロック状になった玄武岩でできている



確かに人の姿に見える、これが男岩か女岩かはわからない
女岩なら幼子を抱いているように見える



私の横を老人のサーファーが通っていく(いつの間にか沖に向かっている)
湊の立神岩は九州におけるサーフィンの発祥地として有名だそうで波打ち際には若者達が楽しんでいた



この老サーファーは独り波の高い場所へ移動しスタート
お爺さんは山に柴刈りに行ったのは昔の話しで、海に波乗りに行く時代になった



私の旅は寺社巡りが中心で景勝地を訪れる事は珍しい
旅の幅を広げる意味でいい刺激になった



撮影 令和5年5月23日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐津神社(佐賀県唐津市南城内3-13)

2023年08月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月23日

唐津神社
創建は天平勝宝7年(755年)と伝えられている

一の鳥居
この純白の鳥居を通り駐車場へ
これほど大きな白色の鳥居は観た記憶がない



明治6年(1873年)に郷社に列し、これを機に現在の「唐津神社」に改称した
昭和17年(1942年)県社に昇格



二の鳥居



狛犬1






手水舎



正面に社殿が見える
初めて訪れる神社ということもあり左側の境内社から回る



水天宮
唐津在住の筑後人会が筑後地方の総氏神である久留米水天宮を勧請









白玉稲荷神社
江戸末期頃、唐津唐房の黒崎坊が新町の町内安全のため奉祀









廿日恵比須神社
江戸後期頃、刀町の各家で恵比須講が組織され宮座を定めて祀っていた
その後町内で祭礼をしていたが、昭和58年、当神社境内へ奉遷






火伏稲荷神社社
文化年中(1804~1818)、唐津の首町であった本町が町内安全を祈願し稲荷大神を勧請
明治37年当神社境内へ奉遷









狛犬2






狛犬3






三の鳥居



拝殿
昭和13年竣工 間口6間・奥行3間



社伝によれば、神功皇后が三韓征伐に際して航海の安全を住吉三神に祈願
帰朝後に報謝のため松浦の海浜に宝鏡を縣けて三神を祀ったのが起源とされる



額には「唐津大明神」
天平勝宝7年(755年)領主であった神田宗次が神夢により海浜に赴くと、漂着してきた宝鏡入りの筺を得た
神功皇后の捧げた鏡であろうと帝に奏聞したところ、「唐津大明神」の称号を賜ったという



文治2年(1186年)領主 神田廣が社殿を再建し、家祖 神田宗次の神霊を合祀し二ノ宮とした



本殿
祭神:一ノ宮 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
   二ノ宮 神田宗次公



境内図(分かりやすく参考になった)






社務所



狛犬4
石燈籠の上に乗り面白いポーズをとっている






白飛稲荷神社
慶長の頃、京都伏見より呉服町に飛来された稲荷を祀る






壽社
少彦名神、国安命、神亀之霊の三柱を祀る






粟島神社
元は氏子町中町に鎮座していたが、昭和32年 社殿を境内で新築し和歌山淡島本社より御分霊を勧請






鳥居天満宮
天明3年、京町の豪商 常安久右衛門保道は太宰府天満宮へ青銅製の大鳥居を奉献した
製作成就を祈念し木綿町の鋳造場に太宰府より天満宮を勧請
大正年中(1912~1926)に当神社境内へ奉遷









古拝殿



この地域の神社を巡り気付いたのだが、いずれの神社でも「神功皇后」の名前が出てくる
私が数回訪れたことのある、秋田県にある坩満寺には神功皇后が三韓征伐の帰路、大シケに遭って象潟沖合に漂着
皇后は臨月近く、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終えた
その後、象潟で半年を過ごし、翌年の4月鰐淵から出帆し、筑紫の香椎宮に向かったという伝説がある
歴史は面白い



撮影 令和5年5月23日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐津城(佐賀県唐津市東城内8−1)

2023年08月02日 | 
訪問日 令和5年5月23日

唐津城(別名:舞鶴城)
唐津城に向かう途中、「虹の松原」という約100万本のクロマツの林の中を約4.5 km にわたって走行した
写真や動画に記録していないが運転してトリハダが立つほど感動した
静岡の「三保の松原」、福井の「気比の松原」と共に日本三大松原の一つに数えられている



駐車場に入り急に嫌な気分になった
料金案内板を見ると普通車が1時間100円に対しキャンピングカーは4倍の400円だという
2時間の料金を見ると900円、倍以上になっている

1時間以内に戻るには急がなければならない
目の前の石段など上っては間に合わない
高齢者用のエレベーターを利用し、時間短縮に努めた



文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣 寺沢広高がこの地に封ぜられた
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった



慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成
廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した



広高は松浦川の流路変更に見られるように土木事業に長け、防風林として松原の保護育成を行った
これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている



明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、建造物が解体された
昭和41年(1966年)文化観光施設として5層5階の模擬天守が築かれ、門・櫓も同時に再建された



城周辺の景色






海岸沿いに弧を描くように伸びているのが「虹の松原」である



左右が海に囲まれているため時折突風が吹き抜ける



1時間以内で何とか駐車場に戻ることができた
400円を手に料金場へ。表示された駐車料金は何と100円だった
本来なら嬉しく思うが、何故か一層腹立たしい気持ちになってしまった



撮影 令和5年5月23日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河上山 神通密寺 実相院(佐賀県佐賀市大和町大字川上947)

2023年08月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月23日

河上山 神通密寺 実相院
先に訪れた、與止日女神社西門(佐賀県指定文化財)から道路を挟んだ向こう側に立派な門が見えた
近寄って案内文を読むと1000年以上の歴史を持つ古刹だということが分かった
この日の訪問予定にはなかったが訪れることにした

仁王門(佐賀県指定文化財)
三間一戸の八脚門で、正面の額の裏に寛永20年(1643年)の年号があり、この頃の建物と考えられる



扁額には寺号の「神通密寺」と記され、菊の紋が四つ飾られている



実相院の由来



仁王門を背に緑に囲まれた参道を歩く



正面に「中門」が見えてくる






周辺には年代を感じ周囲に溶け込んでいる石仏がある



こちらには3体の石仏



それぞれ拡大して撮ってみる









こちらには大小7体の石仏






馬に乗ったものは珍しい



子供を抱いているのかとても表情が穏やかだ






写真にはないが数十段の石段を上がった所に「山門」がある



手水舎



講堂(本堂)
行基菩薩が和銅5年(712年)岩屋山に神宮寺を開基したのが実相院の始まり
380年後の實治元年(1087年)比叡山より圓尋僧正が別所一帯を開墾し、河上山神護寺実相院を建立



寛嘉2年(1230年)源頼朝の四男 貞暁法師が座主になり真言宗の寺院となる
代々の座主は河上山座主と称して與止日女神社と共に神事佛事を菅領する最高の地位で統率者であった



元亀元年(1570年)大友宗麟によって神社仏閣悉く焼き尽くされた
元亀3年(1572年)龍造寺家の援助により造営。その後鍋島家の信仰により次第に旧観に復した
実相院お経会は寛治3年(1089年)以来の長い歴史を持つ



講堂周辺の石仏


















建物の間にもひっそりと安置されている



建物の中にも(既に数の多さに圧倒されてしまった)



「実相院八十八ヶ所」
ここには百体以上の石仏が並んでいる



中央には空海像






遺髪塔(相輪屋頂式石造宝塔)
宝塔建立は納経、供養、逆修(生前供養)の3つの目的があるが、ここは供養が目的で建てられている



石垣で基壇を設け、基礎・蓮花座・塔身・笠・相輪と全長4mの大宝塔である



塔身には梵字が彫られ四仏を表している

















撮影 令和5年5月23日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする