訪問日 令和5年5月28日
都農神社
日向国一宮
創建は神武天皇即位の6年前、天皇が東征に向かう際に鎮祭したことに始まるという
あぶら石
絵馬には祭神の「大国主命」
茅の輪
素盞鳴尊が旅の途中で、蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで宿を求めた
弟の巨旦将来は、豊かな生活をしていたのにそれを断った
兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていたが、素盞鳴尊を泊めて厚いもてなしをした
素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れて、「もし悪い病気が流行することがあったら、茅で輪を作って、腰につけていれば病気にかからないですむでしょう」 と教えた
茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものだったが、時代がたつにつれて大きくなり、これをくぐって罪やけがれを取り除くようになった
他に参拝者がいなかったので「茅の輪」を潜ってみた
手水舎
お祓い棒が手水舎に置いてあるのは珍しい
説明通り左・右・左と大きく振ってみた
神門
拝殿
正面5間側面3間平入の入母屋造で、背面中央に奥行2間の切妻造妻入の幣殿を付ける
日向国の第一の大社であったが、天正年間の島津・大友の争乱の際、大友氏の兵火により社殿・宝物・古文書等全てを焼失
御神体は尾鈴山麓に避難され難を逃れた
争乱後は長年社殿の再興も無く小さな祠があるのみであった
元禄5年に秋月藩主 秋月種政が再興し、安政6年(1859年)には篤志家の社殿の寄進があった
その後、社殿の老朽化に伴い平成14年に「御造営奉賛会」が設立され、平成19年(2007年)に現在の社殿が竣成された
拝殿内部
本殿
一間社流造銅板葺で、千木・鰹木を置く
旧本殿の造形を踏襲した
祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)< 別名 : 大国主命 >
社殿後ろにある「神の石納所」
熊野神社
社殿は本社旧本殿
足摩乳神社、手摩乳神社
2社が1宇に鎮座する
素盞嗚神社
神楽殿(旧拝殿)
御神象
願掛け太鼓
厄除弓神事
撫でウサギ
撫で大国
参拝者は誰もいなかったのに振り返ると女性が……
鳥居の方に消えていった
帰りに境内を清掃していた女性に声を掛けられた
遠くからお参りに来てくれたと感謝された
ここは2回目だがいつも声を掛けられ歓迎される
撮影 令和5年5月28日
都農神社
日向国一宮
創建は神武天皇即位の6年前、天皇が東征に向かう際に鎮祭したことに始まるという
あぶら石
絵馬には祭神の「大国主命」
茅の輪
素盞鳴尊が旅の途中で、蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで宿を求めた
弟の巨旦将来は、豊かな生活をしていたのにそれを断った
兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていたが、素盞鳴尊を泊めて厚いもてなしをした
素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れて、「もし悪い病気が流行することがあったら、茅で輪を作って、腰につけていれば病気にかからないですむでしょう」 と教えた
茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものだったが、時代がたつにつれて大きくなり、これをくぐって罪やけがれを取り除くようになった
他に参拝者がいなかったので「茅の輪」を潜ってみた
手水舎
お祓い棒が手水舎に置いてあるのは珍しい
説明通り左・右・左と大きく振ってみた
神門
拝殿
正面5間側面3間平入の入母屋造で、背面中央に奥行2間の切妻造妻入の幣殿を付ける
日向国の第一の大社であったが、天正年間の島津・大友の争乱の際、大友氏の兵火により社殿・宝物・古文書等全てを焼失
御神体は尾鈴山麓に避難され難を逃れた
争乱後は長年社殿の再興も無く小さな祠があるのみであった
元禄5年に秋月藩主 秋月種政が再興し、安政6年(1859年)には篤志家の社殿の寄進があった
その後、社殿の老朽化に伴い平成14年に「御造営奉賛会」が設立され、平成19年(2007年)に現在の社殿が竣成された
拝殿内部
本殿
一間社流造銅板葺で、千木・鰹木を置く
旧本殿の造形を踏襲した
祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)< 別名 : 大国主命 >
社殿後ろにある「神の石納所」
熊野神社
社殿は本社旧本殿
足摩乳神社、手摩乳神社
2社が1宇に鎮座する
素盞嗚神社
神楽殿(旧拝殿)
御神象
願掛け太鼓
厄除弓神事
撫でウサギ
撫で大国
参拝者は誰もいなかったのに振り返ると女性が……
鳥居の方に消えていった
帰りに境内を清掃していた女性に声を掛けられた
遠くからお参りに来てくれたと感謝された
ここは2回目だがいつも声を掛けられ歓迎される
撮影 令和5年5月28日