《和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-3》



今朝の最低気温は午前5時の22.4℃。 最高気温は午前11時の27.7℃。

今朝は青空と雲の部分が7:3。 雲は一部がうろこ雲。 少し秋めいた空になって来ました。
部屋でテレビを見ている分には過ごしやすい気温です(笑。
ワイドショーのトップは 『小室圭さん 米国から帰国 宮内庁 近く眞子さまとの結婚発表へ』
なんかえらい騒がれとるけど、二人の問題じゃけぇ、もうええんじゃないん?
真子さんも、国からの1億数千万円の一時金を辞退し “とにかく結婚させて” と言っとるんじゃし、
そんなに反対するような問題なんじゃろか? なんか駆け落ちみたいで可哀そうじゃ
庶民のように、母親が裏からこっそり援助なんかする事は出来んのじゃろうしね
もう二人とも30歳、立派な大人じゃ、そっと見守ってあげてたらええんちゃうん?
二人はなんも悪くない。 だいたい事の発端は小室さんのお母さんの問題ですよね。
相手の男性もしっつこいよなぁ
こんなにモメさせてなんの得が有るんやろ?
やった金か貸した金か知らんけど、400万円に利子つけて、500万円もらって
もう許してやったらどないだぁ
『菅首相会見 宣言・重点措置 すべて解除決定』 2021年9月28日 20時28分
19都道府県の緊急事態宣言と8県のまん延防止等重点措置が、10月からすべて解除。
雑感… 昨夜の菅首相の会見 「ワクチンと治療薬の供給にめどがつきつつある中で
『新型コロナとの長い闘いにもはっきりとした明かりが見えてきている』と申し上げた。
この言葉には数々の批判もあったが、今や効果は明らかであり、明かりは日々輝きを増している
と実感している」 これを言った時の菅首相は誇らしげでした
(笑。
もし、この急激な感染者数の減少が1ヵ月早かったら… 菅さん、どうしてたでしょうねぇ。
次期首相への立候補を止める事とはなかったかも。 そう思うと人生の機微を感じます
ひげも “どこに灯りが見えるんじゃ?” と批判しましたが、結果的にひげの負け?
(汗。
菅さん、少しふっくらし、あの虚ろな目にも少し輝きが戻ったような気がするのはひげだけ?
(笑。
今日は 《和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-3》 です。
“だんじり” と云えば女の子の “だんじりヘアー” を見るのも楽しみの一つです(笑。



ハート形・稲妻形・流れ星… 痛いでしょうねぇ。
女の子のだんじりヘアーは別名 “地獄編み” と言うそうです(笑。
美容院で編んでもらうと1万円は下らないそうですが、大抵はお母さんが
見よう見真似で結うようですね。
今日は豊臣秀吉に関係する彫り物を集めてみました。 まずは “日吉誕生” の場面です。

ウィキによると… 【誕生日は1月1日、幼名は「日吉丸」となっているが、これは
『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から
天文6年2月6日とする説が有力であり、幼名についても疑問視されている】 …そうです。
“秀吉・小六との出会い” です。

放浪して宿もなく矢作橋(愛知県岡崎市)のたもとで寝ていると、盗賊の一団が通りかかり、
野盗の蜂須賀小六が秀吉の頭を蹴ったという話です。
しかし、矢矧川に橋が架かったのは江戸時代初期の元禄年間であり、天正年間には
渡し船で渡河していたことがわかっており、この逸話は後世の創作である… だそうです(笑。
次は “藤吉郎初見参” です。

信長に仕えた木下藤吉郎(秀吉)は草履取りになり、有る寒い朝…
藤吉郎は織田信長の足が冷たく無いようにと思い、懐で温めた草履を差し出します。
すると信長は 「主人の履物に腰をかけておったな」 と… その場面ですね。
“藤吉郎・富士川之初陣” です。

“⑥ 富士川の初陣(西山建設)” より…
【藤吉郎の役目は糧食係でしたが、密かに抜け出て戦いの様子を伺っていました。
そこへ敵の大将、日向守が深い傷を負って追われてきました。
藤吉郎は躍り出て大きな声で「勝負、勝負」と叫び続けましたが、日向守は
藤吉郎を小僧扱いしてしばらく渡り合っていました。
藤吉郎はとてもかなわないと思い馬の横腹を目がけて槍を突き出しました。
馬は驚き、日向守はモンドリ打って、まっさかさまに川の中へ落ちました。
藤吉郎はすぐさま躍りこんで見事に日向守の首を落し、今川勢の大勝利の元となりました。
これが藤吉郎初陣の手柄となり広く名を挙げました】
次は “本能寺の変” です。

ウィキによると… 【天正10年6月2日早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、
家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた】
“石川五右衛門 秀吉の命を狙う”

秀吉暗殺を依頼され秀吉の寝室に忍び込みますが、千鳥の香炉が鳴いたため気づかれ、
捕らわれてしまいます。 その後、配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれ、
文禄3年8月24日(1594年10月8日)、石川五右衛門は京都三条河原で釜茹での刑に
処せられた… という物語です。
次は “大阪城完成” です。

1598年(慶長3年)完成した大阪城を眺める豊臣秀吉が彫られています。
しかし、この時の大阪城は大坂夏の陣(1615年)で焼失してしまいました。
後に徳川により大阪城は再建(1629年)されましたが、1665年、天守閣が落雷により消失。
現在の天守閣は1931年(昭和6年)に再建された3代目なのだそうです。
最後は “醍醐の花見” です。

慶長3年(1598)の春、場所は醍醐寺。 秀吉は息子の秀頼や正室・北政所、側室の淀、
三の丸など近親の者は元より、諸大名からその配下の女房女中衆女房衆1300人を集め、
盛大な花見の宴を催しました。
それまで、醍醐寺には確かに桜の花は咲いていましたが、今ほどの規模ではなく、
秀吉が数か月をかけて、近隣諸国からなんと約700本もの桜を移植させたのだそうです。
この半年後に秀吉は亡くなります。 栄華を極めた瞬間だったのですね。





今朝は青空と雲の部分が7:3。 雲は一部がうろこ雲。 少し秋めいた空になって来ました。
部屋でテレビを見ている分には過ごしやすい気温です(笑。

なんかえらい騒がれとるけど、二人の問題じゃけぇ、もうええんじゃないん?

真子さんも、国からの1億数千万円の一時金を辞退し “とにかく結婚させて” と言っとるんじゃし、
そんなに反対するような問題なんじゃろか? なんか駆け落ちみたいで可哀そうじゃ

庶民のように、母親が裏からこっそり援助なんかする事は出来んのじゃろうしね

もう二人とも30歳、立派な大人じゃ、そっと見守ってあげてたらええんちゃうん?
二人はなんも悪くない。 だいたい事の発端は小室さんのお母さんの問題ですよね。
相手の男性もしっつこいよなぁ

やった金か貸した金か知らんけど、400万円に利子つけて、500万円もらって
もう許してやったらどないだぁ


19都道府県の緊急事態宣言と8県のまん延防止等重点措置が、10月からすべて解除。

『新型コロナとの長い闘いにもはっきりとした明かりが見えてきている』と申し上げた。
この言葉には数々の批判もあったが、今や効果は明らかであり、明かりは日々輝きを増している
と実感している」 これを言った時の菅首相は誇らしげでした

もし、この急激な感染者数の減少が1ヵ月早かったら… 菅さん、どうしてたでしょうねぇ。
次期首相への立候補を止める事とはなかったかも。 そう思うと人生の機微を感じます

ひげも “どこに灯りが見えるんじゃ?” と批判しましたが、結果的にひげの負け?

菅さん、少しふっくらし、あの虚ろな目にも少し輝きが戻ったような気がするのはひげだけ?

今日は 《和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-3》 です。
“だんじり” と云えば女の子の “だんじりヘアー” を見るのも楽しみの一つです(笑。



ハート形・稲妻形・流れ星… 痛いでしょうねぇ。
女の子のだんじりヘアーは別名 “地獄編み” と言うそうです(笑。
美容院で編んでもらうと1万円は下らないそうですが、大抵はお母さんが
見よう見真似で結うようですね。


ウィキによると… 【誕生日は1月1日、幼名は「日吉丸」となっているが、これは
『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から
天文6年2月6日とする説が有力であり、幼名についても疑問視されている】 …そうです。


放浪して宿もなく矢作橋(愛知県岡崎市)のたもとで寝ていると、盗賊の一団が通りかかり、
野盗の蜂須賀小六が秀吉の頭を蹴ったという話です。
しかし、矢矧川に橋が架かったのは江戸時代初期の元禄年間であり、天正年間には
渡し船で渡河していたことがわかっており、この逸話は後世の創作である… だそうです(笑。


信長に仕えた木下藤吉郎(秀吉)は草履取りになり、有る寒い朝…
藤吉郎は織田信長の足が冷たく無いようにと思い、懐で温めた草履を差し出します。
すると信長は 「主人の履物に腰をかけておったな」 と… その場面ですね。


“⑥ 富士川の初陣(西山建設)” より…
【藤吉郎の役目は糧食係でしたが、密かに抜け出て戦いの様子を伺っていました。
そこへ敵の大将、日向守が深い傷を負って追われてきました。
藤吉郎は躍り出て大きな声で「勝負、勝負」と叫び続けましたが、日向守は
藤吉郎を小僧扱いしてしばらく渡り合っていました。
藤吉郎はとてもかなわないと思い馬の横腹を目がけて槍を突き出しました。
馬は驚き、日向守はモンドリ打って、まっさかさまに川の中へ落ちました。
藤吉郎はすぐさま躍りこんで見事に日向守の首を落し、今川勢の大勝利の元となりました。
これが藤吉郎初陣の手柄となり広く名を挙げました】


ウィキによると… 【天正10年6月2日早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、
家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた】


秀吉暗殺を依頼され秀吉の寝室に忍び込みますが、千鳥の香炉が鳴いたため気づかれ、
捕らわれてしまいます。 その後、配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれ、
文禄3年8月24日(1594年10月8日)、石川五右衛門は京都三条河原で釜茹での刑に
処せられた… という物語です。


1598年(慶長3年)完成した大阪城を眺める豊臣秀吉が彫られています。
しかし、この時の大阪城は大坂夏の陣(1615年)で焼失してしまいました。
後に徳川により大阪城は再建(1629年)されましたが、1665年、天守閣が落雷により消失。
現在の天守閣は1931年(昭和6年)に再建された3代目なのだそうです。


慶長3年(1598)の春、場所は醍醐寺。 秀吉は息子の秀頼や正室・北政所、側室の淀、
三の丸など近親の者は元より、諸大名からその配下の女房女中衆女房衆1300人を集め、
盛大な花見の宴を催しました。
それまで、醍醐寺には確かに桜の花は咲いていましたが、今ほどの規模ではなく、
秀吉が数か月をかけて、近隣諸国からなんと約700本もの桜を移植させたのだそうです。
この半年後に秀吉は亡くなります。 栄華を極めた瞬間だったのですね。