「どうして、医者になったんですか?」「どうして小児科医を選んだのですか?」と、今まで多くの人から尋ねられました。
小さい時から、学校の先生か、医者になりたいと思っていました。自分が物心付いた時、既に、父は、小学校の校長でした。
父は、私には、決して何になれとは、言いませんでした。私は、父には、「学校の先生、しかし、医者でもいいかな、・・・」と、小さい時に言っていた様な記憶があります。
教員の裏も見てきました。父は、管理職の為、組合からつつかれて、胃潰瘍で苦しんでいました(現役の時、手術で3分の2ほど胃を取りました)。自分に、「校長先生に宜しく・・・」と、いろんな教員からよく言われました。父は、若くして校長になっていました。あちこちで、よく講演をしていました。学校では、すごく立派で、尊敬できる父なのですが、家では、母の方が強い感じでした。又、父も、その様に、言っていました。
4人兄弟の末っ子の自分は、小学校にまだ上がる前、隣の赤ちゃんを抱いて、すごく喜んでいて、こんな赤ちゃんが自分の所にいたらどんなに楽しいだろうかと思い、隣の人に聞くと、「よかったら、ボンチャンに上げるよ」(私は、ボンチャンと言われていましたが)と言うのです。自分は、母にも、「ホントにホント?」と聞くと、「隣の人がいいと言えばいいよ」と言うのです。それから、牛乳が飲みたくしかたありませんでした。そんな時、母が、「子どもの無い校長先生がいて、子どもを欲しがっている。そこの養子になれば、牛乳が毎日飲める。行くか?」と母が何度も聞くのです。それでも、大きくなったら、親を楽にさせて上げたいと思っていました(家に今でもある当時の日記にも、そうはっきりと書かれています)。
そんな出来事が数多くあって、”大人は、嘘つき”と言うトラウマから逃れることが出来ない様になりました。毎日繰り返される奥様方の井戸端会議の話をじっと聞いていました。その内容、小学校に上がる前の自分は、殆ど理解していたと思います。大人のずる賢こさを、如実に、頭に叩き込まれました。
大人が嫌いだから、小児科を選んだ、これが正直な理由です。
人に興味を抱く様になったのは、小さい時からで、生き物も、大好きでした。先生と医者であれば、人に直に接しられるからいいかなと思う様になりました。
小学校2年生の時に、父の移動と同時に、蒲江小学校(経団連の御手洗会長の郷里)から、西上浦小学校に転校しました。かってその学校の生徒であった人から、ある時、タクシーの運転手さんとして偶然乗り合わせ、「田原校長先生が、廊下が光れば、心も光ると言われました。今でも覚えています」と言われて、父の教育が今でも生きているのだなあと感無量になりました。
西上浦小学校に通っている時、住んでいた所は、住民が1000人もいませんでした。1時間近く掛けて、学校までテクテク歩いて通っていました(そこの学校からは、校区としては、一番遠い所でした)。しかし、そこには、お医者さんがいて、スクーターで往診をしていました。そこでは、テレビがある家は、2軒だけで、夜、時々、そのお医者の所に見に行きました。
ある時、私は、クループになり、息が止まりそうになりました。夜の10時過ぎでしたが、父が私を背負って、ドンドンとそのお医者さんの門を叩くと、そのお医者さんは、寝巻き姿で起きて来て、診察してくれて、注射を打ってくれました。翌朝、嘘の様に、私は、元気になりました。母が、産婦人科の看護師だったこともあり、私は、医学の道に進むことになりました。
小さい時から、学校の先生か、医者になりたいと思っていました。自分が物心付いた時、既に、父は、小学校の校長でした。
父は、私には、決して何になれとは、言いませんでした。私は、父には、「学校の先生、しかし、医者でもいいかな、・・・」と、小さい時に言っていた様な記憶があります。
教員の裏も見てきました。父は、管理職の為、組合からつつかれて、胃潰瘍で苦しんでいました(現役の時、手術で3分の2ほど胃を取りました)。自分に、「校長先生に宜しく・・・」と、いろんな教員からよく言われました。父は、若くして校長になっていました。あちこちで、よく講演をしていました。学校では、すごく立派で、尊敬できる父なのですが、家では、母の方が強い感じでした。又、父も、その様に、言っていました。
4人兄弟の末っ子の自分は、小学校にまだ上がる前、隣の赤ちゃんを抱いて、すごく喜んでいて、こんな赤ちゃんが自分の所にいたらどんなに楽しいだろうかと思い、隣の人に聞くと、「よかったら、ボンチャンに上げるよ」(私は、ボンチャンと言われていましたが)と言うのです。自分は、母にも、「ホントにホント?」と聞くと、「隣の人がいいと言えばいいよ」と言うのです。それから、牛乳が飲みたくしかたありませんでした。そんな時、母が、「子どもの無い校長先生がいて、子どもを欲しがっている。そこの養子になれば、牛乳が毎日飲める。行くか?」と母が何度も聞くのです。それでも、大きくなったら、親を楽にさせて上げたいと思っていました(家に今でもある当時の日記にも、そうはっきりと書かれています)。
そんな出来事が数多くあって、”大人は、嘘つき”と言うトラウマから逃れることが出来ない様になりました。毎日繰り返される奥様方の井戸端会議の話をじっと聞いていました。その内容、小学校に上がる前の自分は、殆ど理解していたと思います。大人のずる賢こさを、如実に、頭に叩き込まれました。
大人が嫌いだから、小児科を選んだ、これが正直な理由です。
人に興味を抱く様になったのは、小さい時からで、生き物も、大好きでした。先生と医者であれば、人に直に接しられるからいいかなと思う様になりました。
小学校2年生の時に、父の移動と同時に、蒲江小学校(経団連の御手洗会長の郷里)から、西上浦小学校に転校しました。かってその学校の生徒であった人から、ある時、タクシーの運転手さんとして偶然乗り合わせ、「田原校長先生が、廊下が光れば、心も光ると言われました。今でも覚えています」と言われて、父の教育が今でも生きているのだなあと感無量になりました。
西上浦小学校に通っている時、住んでいた所は、住民が1000人もいませんでした。1時間近く掛けて、学校までテクテク歩いて通っていました(そこの学校からは、校区としては、一番遠い所でした)。しかし、そこには、お医者さんがいて、スクーターで往診をしていました。そこでは、テレビがある家は、2軒だけで、夜、時々、そのお医者の所に見に行きました。
ある時、私は、クループになり、息が止まりそうになりました。夜の10時過ぎでしたが、父が私を背負って、ドンドンとそのお医者さんの門を叩くと、そのお医者さんは、寝巻き姿で起きて来て、診察してくれて、注射を打ってくれました。翌朝、嘘の様に、私は、元気になりました。母が、産婦人科の看護師だったこともあり、私は、医学の道に進むことになりました。