前回の続きです。
3年生国語「ちいちゃんのかげおくり」の初発の感想が,「かわいそう」「よかった」がそれぞれ半分ずつという実態でした。
この違いはどこから生まれるのか…
考えてみました。
それは,根本的な物語の「読み方」というか「入り方」が違うんだろうと。
「かわいそう」ととらえた子は…
物語を「客観的」に読んでいる子だろうと思いました。
必要以上に登場人物に感情移入せず,戦争という舞台も含めて客観的に物語り全体をとらえ,ちいちゃんや家族の死も,戦争の犠牲としてもたらされた「死」として真っ直ぐとらえている子だろうと。
一方,「よかった」ととらえた子は…
物語を「主観的」に読んでいる子だろうと思いました。
3年生という発達段階から,登場人物に強く感情移入し,戦争そのものを見るというより,ちいちゃんとその家族を強く見ており,最後の花畑での家族の再会をハッピーエンドととらえている子だろうと。
私が「かわいそう」という感想を予想していたのは,もちろん私は大人で自然と「客観的」な読み方しか,私自身がしていなかったからだろうと,後から分かりました。
まだまだ未熟です。
「主観的」に読む3年生という発達段階はあとから理解できましたが,もう一つ,きっとこの子たちの中に存在しているのは,「ハッピーエンドと,とらえたい」という願いです。
ちいちゃんに感情移入するがあまり,自然と,「悲しい話にしたくない」「残酷さを直視できない」というフィルターのようなものができあがり,それが自分の感想を前向きな方へと持っていたのだろうと思います。
3年生国語「ちいちゃんのかげおくり」の初発の感想が,「かわいそう」「よかった」がそれぞれ半分ずつという実態でした。
この違いはどこから生まれるのか…
考えてみました。
それは,根本的な物語の「読み方」というか「入り方」が違うんだろうと。
「かわいそう」ととらえた子は…
物語を「客観的」に読んでいる子だろうと思いました。
必要以上に登場人物に感情移入せず,戦争という舞台も含めて客観的に物語り全体をとらえ,ちいちゃんや家族の死も,戦争の犠牲としてもたらされた「死」として真っ直ぐとらえている子だろうと。
一方,「よかった」ととらえた子は…
物語を「主観的」に読んでいる子だろうと思いました。
3年生という発達段階から,登場人物に強く感情移入し,戦争そのものを見るというより,ちいちゃんとその家族を強く見ており,最後の花畑での家族の再会をハッピーエンドととらえている子だろうと。
私が「かわいそう」という感想を予想していたのは,もちろん私は大人で自然と「客観的」な読み方しか,私自身がしていなかったからだろうと,後から分かりました。
まだまだ未熟です。
「主観的」に読む3年生という発達段階はあとから理解できましたが,もう一つ,きっとこの子たちの中に存在しているのは,「ハッピーエンドと,とらえたい」という願いです。
ちいちゃんに感情移入するがあまり,自然と,「悲しい話にしたくない」「残酷さを直視できない」というフィルターのようなものができあがり,それが自分の感想を前向きな方へと持っていたのだろうと思います。