何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

頂点へ 繋ぐんじゃ

2015-10-08 18:21:15 | 
「繋ぐんじゃ」より

そもそも「七帝柔道記」(増田俊也)について書こうと思ったのは、年々巨大化する組み立て体操の大ピラミッドで怪我人が絶えないことから、ピラミッドを廃止したり高さ制限の通達がでたりしている動きに、思うところがあったからだ。

さすがに10段11段は論外だと思うが、では「5段以下にするべし」という通達が適当かというと、そうとも云えないのではないだろうか。
「祝ノーベル賞受賞 ブラボー北里研究所!」でも書いたが、ある程度の高さのピラミッドを成功させるには、体幹がしゃんとしている事とバランス感覚が優れている事が必要とされる。ここで必要とされる体幹とバランス感覚が弱いことは、将来的な体調不良(病気)の原因にもなりうるという説まであることに鑑みれば、これを鍛える授業を日々取り入れるべきだろうが、体幹を鍛える訓練は地味なものが多いようなので、そのモチベーションとして運動会の大ピラミッドを位置付ければ良いのではないか。
ピラミッドをするにあたり、体系を決定し、体系通りに行動させる以外の指導があるのだろうか。
運動会の花形競技としての一瞬の成功、極端な物言いをすれば、体裁だけを整えようとするから怪我人がでる事態となるのではないだろうか。

こう感じたのは、最近「七帝柔道記」を読んだことも影響している。
次元がまったく違う話でもあり、作者自身も予習をせずに授業を受けた言い訳でしかないと自覚している言葉ではあるが、印象的な場面がある。
授業中に辞書を使いながら訳する姿勢を注意され、「自分は英語の勉強をするために大学に入ったのではない。専門課程に行った時、動物学や海洋学の専門書を読まなければならない。その海外論文を読むために英語を勉強しているわけであり、論文を読むには辞書を使うのだから、今の授業でも辞書を使って良いはずだ」といった詭弁とも強弁ともつかない言葉を助教授に投げかけているのだが、次に続く言葉により、その詭弁と強弁に一面の真理があるように感じられた。

『僕は柔道部ですから毎日腕立て伏せを何百回もやらされます。
 でも、それは腕立て伏せ大会に出るためにやっているわけじゃないんです。
 柔道の試合に勝つためにやっているんです。
 それと同じじゃないですか。教養部の英語は将来、論文を読むためにやっているんですよ』

「英語の勉強は、授業で当てられた時に恥をかかないためにするものではなく、将来専門的な論文を読むためにするものだー学問とは、その場しのぎでするものではない」という強弁と、「三途の河の向こうに祖母を見るような乱取りの後さらに何百回も腕立てをするのは、柔道の試合に勝つためだ」という言葉は、大目標達成のための努力過程の重要性とともに、その努力過程は大目標達成の方法論でしかないことを示しているように感じられたのだ。

指示された体系を組むことで運動会当日に一瞬だけ大ピラミッドを完成させようとするのではなく、日頃から体幹とバランス感覚を鍛える地味な訓練を積み重ねた結果としての大ピラミッドの成功であれば、努力の過程は大きな意味を持ち、努力の成果は本物の達成感と喜びとなると思うのだ。
それが出来ないはずはない。

思い出されるのは、敬宮様が初等科6年生の運動会でのピラミッドだ。
小6の女子に7段ピラミッド!?と驚いたが、映像を見るとどの生徒さんも姿勢が良く行動が機敏でまったく危なげないままに大ピラミッドが成功した。
最下段の真ん中という最も負担の大きな位置で頑張られた敬宮様の膝小僧には、いくつも絆創膏が張られていたが、それは運動会前に付け焼刃に練習された結果ではない。
幾つかの報道によると、学習院では大ピラミッドにむけて一学期から(春頃からと伝える所もあった)訓練を積んでいたというのだ。
運動会まで半年近く時間をかけての訓練というからには、ただ体系を仕込むというものではないはずだ。
7段ピラミッドを成功させるために、体力気力を鍛える地味な訓練が積み重ねられたことだろう、膝小僧の絆創膏は日々の訓練の結果であり、それは大ピラミッド成功の勲章でもあると思われる。

本物の努力をしてこそ、本物の達成感と喜びを味わえる、そんな喜びを子供には知って欲しい。
そして、それを知っておられる敬宮様の素晴らしい未来を信じ、応援していきたいと思っている。

応援(談)はつづく

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