語彙が豊富なだけでなく簡潔明瞭であるため、意図するところが真っ直ぐ届く文章を書く知人がいる。
その人の文章を読むたび、私は自分の無駄に冗長すぎる文章を反省することが多い。
例えば、上記のたった一行のなかでも、「無駄」に続けて同じ意味をもつ「冗長」を重ねているあたり、全く以て無駄に冗長すぎると反省しているのだが、長年の習性は改めようがないと諦めていた。
だが、その人に勧められた本を読み、事と次第によっては修正できるかもしれないと考え始めている。
「天窓のある家」(篠田節子)
「蜜蜂と遠雷」(恩田陸)の 「長くピアノを離れていた人や自宅にピアノがない人が、才能だけを頼りに世界的コンクールで上位を目指す」という設定は可能なのか?が話題となったとき、その人が ピアノ関連の本として「ピアニストという蛮族がいる」(中村紘子)とともに紹介してくれたのが、「天窓のある家」に収録されている「友と豆腐とベーゼンドルファー」だった。
「友と豆腐とベーゼンドルファー」の主人公・有子は、楽器店のウィンドウー越しに、’’ウィーンの至宝’’といわれているベーゼンドルファー・ピアノの中古を眺める日々を送っていた。
この三年で、有子の生活は激変した。
大手の商社マンであった夫が、人事課長として多くの社員をリストラしたことへの良心の呵責に耐えきれず、「人間性を回復する」として突如会社を辞めてしまったからだ。
夫にかわり親子三人の生活を支えることになった有子は、乗り物代を節約するため20~30分の距離なら歩き、自宅の公団団地の2LDKの一室に自前で防音機能をほどこし、以前の三倍の生徒をとってピアノを教えている。
ピアノレッスンの合間に塾へ行く息子に食事をさせ、自分は立ったまま冷飯を掻き込むという多忙な日々。
生徒のなかにはベンツで乗り付ける娘と母もいれば、高給取りのエグゼクティブもいる、そんな生徒や親の悪気のない嫌味や無遠慮で屈辱的な振る舞いにも黙って耐えているのは、彼らが払う月謝が、現在の有子一家の生活を支えているからだ。
だが、こうして爪に火を灯すようにして貯めた210万の預金のうちの100万を、有子の夫は友人に貸したいと言い出す。夫が首を切った友人の娘が難病で金銭的に困っているというのだ。
返ってくる当てが全くないとはいえ、10歳の少女の命を持ち出されては反対の仕様もなく、ある日 有子は夫の友人宅へ100万を届けることになったのだが、そこで有子が見たものとは?
夫がいう金銭的に困った友人の家とは、有子一家が住む2LDKの賃貸の公団団地とは雲泥の差の、高級分譲マンションだった。
病の娘を抱え困窮しているはずの友人の妻は、若々しくきれいな装いで、有子一家が食べたこともない一丁450円の豆腐を無造作に買い物かごへ入れていた。
その場で踵をかえした有子は、あのベーゼンドルファ―が展示されている楽器店へ行き、現金210万をその場で払いベーゼンドルファ―を購入し、その日のうちにレッスン室へ搬入してもらうのだ。
豊かな音色を奏でるグランドピアノで、リストを弾いているところに帰宅した夫に、有子が「さよなら、あなた」と呟くところで幕を閉じる「友と豆腐とベーゼンドルファ―」。
スタインウェイと並び称されるピアノを本書のタイトルにしながら、なぜピアノの前に豆腐がくるのか分からなかったが、読み終わればまさにど真ん中に鎮座すべき「豆腐」であり、「うまい」と唸らされた。
篠田節子氏の作品というと、本書以外には「ブラックボックス」しか読んだことがないので断定はできないが、短編集である本書を読む限り、篠田氏の筆致はイヤミスの女王も真っ青なほど人の本音を抉りだしていると思う。
第一編「友と豆腐とベーゼンドルファ―」より (『 』本書より引用)
戻る当てのない金を貸すという夫に、有子は言う。
『甘いわね』
『人に対する見方が甘いと言ってるんじゃないわ。
生きていく姿勢が甘いと言っているのよ』
第4編「天窓のある家」より
『この先自分が二度と幸せになれないとしても、それはあきらめがつく。
しかし元の夫が幸せになることなどあってはならなかった。
彼さえ、幸せにならなければ、自分の未来などいらない』
最終章「密会」より
父亡き後一人で暮らす母のもとを妻に内緒で通う息子は、母の気遣いや気配に恋にも似た遣る瀬なく甘い情緒を感じ、母の元こそ聖域だと思う。そんな聖域を妻に犯されるくらいなら、『愛人と抱き合っている現場を押さえられる方がよほどましだ』とも、『女房などに踏み込まれてなるものか』とも思っている。
これだけ書きながら 篠田氏がイヤミスの女王と呼ばれないのは、エグイ本音をアサヒスーパードライなみの切れ味の文体でサッパリと書いているからだと思われる。
そして この文体から思い出されたのが、本書を紹介してくれた知人の簡潔明瞭で意図が伝わりやすい文章だった。
人は、読むものの影響を受け文体が似てくることがあるのだろうか。
そうであれば、これから本を選ぶ時には、「私の無駄に冗長すぎる文章を矯正してくれるような文体」という条件を加えるべきなのだろうか と考えている文月一日である。
追記
ちなみに私は、エグイ本音をネチネチと書くゆえに’’イヤミスの女王’’を呼ばれる女王様の本の熱心な愛読者である。