何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

なかなか晴れない私の憂鬱

2017-07-31 21:15:55 | 
「文体に癖はあるが、読んでみるべきだ」と強く勧められた本がある。
その作者の本は今まで一度も読み通したことがないのだが、その理由が将に「文体が(私には)合わないから」であったため、読むのが躊躇われたが、強く勧められる理由を知りたいばっかりに、気忙しいなか読んでみた。

「なかなか暮れない夏の夕暮れ」(江國香織)

本書でも多用されている江國氏特有の文体が、まったく気に障わらなかったと云えば嘘になるが、それよりも、読書好きの主人公が作中 読んでいる本を、読者も同時に読みながら物語が進んでいくという凝った趣向が面白く、初めて江國氏の本を読了できた。

本書は、帯に『「人生」と「読書」が織りなす幸福なとき』とあるように、主人公を筆頭に数人の読書家とその周辺の人々の物語だが、本書を読めば読むほど、「読書は、果たして幸福な時を織りなしているのか?」という疑問が湧き起り、その疑問こそが、知人が私に本書を勧めた理由ではなかったかと思うと、少し哀しいような申し訳ないような気がしながら読んでいた。

主人公の稔は、税理士である友人をして「お前は存在していることが仕事である」と言わしめるほどの資産家で、50歳になる現在まで仕事も結婚もしたことはないが、読書好きの娘・波十や 同じく読書好きの姉・雀などと、付かず離れずといった距離を保ちながら、読書三昧な日々を送っている。
この読書好きの三人、稔と波十と雀は、別々に暮らしている。
稔の娘・波十は生みの母と、カメラマンの雀はドイツに暮らしているのだが、三人が久しぶりに顔を会わせても、特別なことをするわけでなし、同じ部屋で別々の本を読んでいる、そしてそれだけで、この三人は幸福だ。
だが、この幸福が理解できない人もいる。
いや、この幸福に疎外感を感じる人もいる。
それを本書を読み初めて知った。(『 』「なかなか暮れない夏の夕暮れ」より引用)

波十の母・渚(稔の以前の交際相手)は、本に没頭する元恋人・稔や 娘・波十が、現実や渚を拒絶し、自分の殻に閉じこもっているように感じている。
厳しく育てられたためテレビを見る習慣がない渚は、『テレビを長時間見る人間は暇で孤独か知性がないか(あるいは両方)だと決めつけて、内心軽蔑していた』のだが、稔と別れて結婚した相手は、暇さえあればテレビを見ている人だった。
最初はそれに途惑った渚だが、しだいに『(テレビを見ることを)ある種の優しさだ』『少なくとも本ばかり読んでいられるよりはずっとましだ。テレビなら夫が今何を見ているのか分かるし、一緒に見ることもできる』と感じるようになる。
それは、『たぶん’’共有’’の問題なのだ』と、渚は思う。
テレビを見ている人なら、『今ここにいると感じることが出来る』が、本ばかり読んでり読んでいる人には、『側にいてもいないようにしか感じられな』い、『(人を)置き去りにして、いつも別な場所に行ってしまうようにしか』感じられないとと云う。
それ故に渚は、見る必要のないバラエティー番組を梯子して見ている夫に疑問を感じる瞬間があっても、すぐに『本よりはましだ』と思い直すのだ。

これは由々しき問題だ。

何に拘束されることなく図書館や本屋で過すことのできる時間が至福の時だと感じる私、どれほど大切な人と一緒にいようが本を読んでいたい私は、周囲の人に拒絶感を感じさせているのだろうか?
それを伝えたいばかりに、知人は本書を私に強く勧めたのだろうか?
いや、知人自身かなりの本好きなので、注意喚起ではあっても、そこに嫌味はないだろう。

そうだとすれば、この年になっても(この年であるからかもしれないが)色々思い悩むことを抱える私に、「不惑をすぎても、なかなか暮れないのが、今の耳順だよ」と、人生の先輩として教えてくれているのだろうか?

知人の真意が「なかなか分からない盛夏の夜」なので、本書にあった気になる箇所を記して江國本を閉じたいと思う。

その一
美容院に行き軽く心地よくなった髪に満足して帰宅した女性たちの、『こういう日は水餃子よ。水餃子とビールよ』『(水餃子には)トマトを入れてね、トマト』という会話がある。
トマトスープに水餃子を入れるのなら、未だしも分からなくもないが、果たして餃子の具としてトマトを入れることはアリなのか、試してみる勇気は、ない。

その二
本書に、『’’突然’’一緒に何かが出来るか否かは、相手との距離を測る一つのバロメーターだ』という言葉がある。
誰かと一緒にいても本を読むことは止められないが、相手からの申し出が’’突然’’のものであっても、一緒にできるよう心がけたいと、思っている。