何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

人生オセロの逆転劇を望む

2017-11-15 12:00:00 | 
「大ベストセラー書き下ろしシリーズ、二幕目第六弾」と銘打たれている本書を手に取る人は、大方 同じ感想を抱いていると思う。
「惰性」
だが、惰性だのマンネリだのと言いながら、新刊がでれば結局 読んでいるのだから、本シリーズは意外にも名著かもしれない。

「料理人季蔵捕物控 うに勝負」(和田はつ子)
理由 わけ あって刀を包丁に持ち替え一膳飯屋の主となった元武士の季蔵が、隠れ者として捕物を助ける本シリーズの面白味は、もはや捕物ではなく料理なのだが、表題作の’’うに’’を私はあまり好まないので、食材としては第一話の茗荷について、書いておく。

「茗荷を食べるとバカになる」という言葉で止められずとも、子供の頃には、茗荷のあの独特の香りが大嫌いだったが、何時頃からか素麺の薬味は茗荷が一番!というほど、茗荷が好きになった。
その切っ掛けとなったのが、おそらく本書でも書かれている、茗荷をネタとした握り鮨だ。
精進料理で頂いた 甘酢に漬けた茗荷の握り鮨は、ほんのり赤い茗荷を一枚乗せた小ぶりな姿が可愛いだけでなく、味も絶品だったため、その美味しさに目覚めたのだが、茗荷の握り鮨は未だ自分で作ったことはなく、もっぱら薬味としてだけ活躍しているので、来年また庭で茗荷ができたなら、本書で紹介されていた茗荷の天麩羅を作ってみようと思っている。

’’おわり’’
・・・・・とすれば、あまりに呆気なく、やはり惰性で読んでいるだけのようだが、感想が短いのは本作のせいではなく、あまりに忙しくキツイ現在の状況のせいだ。

愚痴ればキリがないので、ふて腐れた心に引っ掛かった箇所を二つほど記しておくが、その矛盾や疑問を理解・納得できる日が来るのかは、今の自分には分からない。

まず一つ、
季蔵が隠れ者として仕える北町奉行は、江戸八百八町の人々の暮らしを守るためには、洪水や風害に備えて市中の普請を徹底的に行うべきだと考え、袖の下で何とかしたい輩どもからの「付け届け大いにけっこう」と金子集めに精を出している。
その心を、北町奉行はこう言う。
『いいか、よく聞け、人とはな、白でも黒でもない、白黒よ、
 そんな人が集まった人の世も白黒、よいではないか』
四角四面の正義を振り回すほど青くはないが、目的が正しければ手段は厭わない、を正当化する場合の 目的の正当性は一体誰が適正に判断するのだろうか。まして目的が秘密裏であれば、もう何をかいわんや だ。

もう一つ、
本書で季蔵が感じている疑問は、長年私の疑問でもあるのだが、「右の頬を打たれれば、左の頬も差し出せ」を教えとして頂きながら、なぜに その教えを信じる者や国の間で争いが続くのかということだ。
本書「うに勝負」は、隠れキリシタンを偽の信仰で操り、次々と人を殺めさせるワロモノの話だが、信者たちは、『’’主の命によりこの世に放たれた悪魔を取り除け’’』というゼウス様のお言葉?を、神のお導きだと感謝し、見ず知らずの他人を喜んで手に掛けていく。

世界一のベストセラーは聖書で、そこでは「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」「隣人を愛せ」と教えているにも拘らず、なぜに聖書の国で酷い争いが絶えないのか。
大っぴらに聖書を読むことが出来る国でさえ、これなのだから、まして禁教として潜った我が国では、せっかくの尊い教えが歪んで用いられたとしても已むを得ないと思いつつも、長年の謎は深まるばかりであった。

それでも、すっかり浮世に倦んだ私の目には、北町奉行の『人とはな、白でも黒でもない、白黒よ、そんな人が集まった人の世も白黒、よいではないか』が、未だしもマトモに思えている。

この世は、白を黒と言い 黒を白と言って憚らない者が大手を振っているのだから。