何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

木炭車でしか成し得ぬこと

2018-08-26 19:33:45 | 
子どもの頃に父の本棚にあったのを読んで以来すっかり忘れていた その本を再読したのは、天下の大蔵省の看板を掛け替えさせる事態にまで発展した、あの破廉恥な事件があった頃だったが、それは、あの本の最終章が、「冬また冬」だったことを思い出したからだ。
その本を再度思い出させる記事を読み、ごそごそ自分の本棚をあさり、懐かしい一冊を取りだした。

<享年58歳、命削り働く…元財務官僚の「遺言」> 読売新聞経済部 小林泰明 2018年08月23日 07時00分
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180822-OYT8T50036.html

明確に転載禁止と記載されている記事ゆえに引用すら憚られるので、半世紀以上前の通産省を描いた本に、現在にも通ずるところがあるのだと思わせた点について、記しておきたい。

「官僚たちの夏」(城山三郎)

本の裏表紙の説明より
『「国家の経済政策は政財界の思惑や利害に左右されてはならない」という固い信念で通産行政を強引、着実に押し進め、時間への最短コースを疾走する’’ミスター・通産省’’ 風越信吾。高度成長政策が開始された60年代初めの時期に視点をすえ、通産省という巨大複雑な官僚機構の内部における、政策をめぐる政府・財界との闘いと、人事をめぐる感猟官の熱い闘いをダイナミックに捉える。』


本書は何度もドラマ化されているので、今更あらすじの説明も不要だと思うし、政財界や官僚機構の生々しい部分をノンフィクションさながらに抉りだしている作風のせいか、心を打つ名言の類は見当たらないのだが、本書が描いた時代から半世紀が過ぎ、本書と記事では通産省と財務省と舞台を異にしていても、政治の風に揺れる官の姿や、政財官が国益をかけて自由貿易派と保護主義派がぶつかるところなど、変わっていないことには驚かされる。とは云え、現在は「働き方改革」などが叫ばれているので、その点では大きな変化があったのかと言えば、読売記事によると、まだまだ木炭車は健在だったのだという感動とともに、最後の?木炭車を失ってしまったという思いも強くしている。

木炭車、それは「官僚たちの夏」で、『無定量無際限』に働く男を例えている言葉だ。
当時としては「新人類」の、テニスやヨットで休日を楽しみながら働くスタイルの省員に対し、木炭車は『余力を温存しておくような生き方は、好まん。男はいつでも、仕事に全力を出して生きるべきなんだ』『一つにポストについたら、そのポストを死場所と考えろ。その場その場が、墓場なんだ』を信条に、『無定量無際限』に働き、体を壊し職務を離れざるをえなくなって尚、『離れること、忘れることの難しさ』と詠むほどの生き様。
そうして、木炭車は最後には『戸板にのって帰ってくることになる』のだ。

一つのポストを死場所・墓場と捉え無定量無際限に働き、最後には戸板に乗って帰ることになる生き方が、個人として幸福かと云われれは、それは難しい。
本書でも、木炭車の代表格が最後には『<天下国家>は、生身の人間には重すぎる』と呻くのだが、この言葉を一般に当てはめれば、「仕事が個人を押し潰してもよいのか」という事に、繋がりうると思われる。

だが、能力のある人の無定量無際限な働きによってしか果たせないこともあると、私には思えてしようがない。

だからこそ、和久さんの言葉が甦ってくる。

「正しいことをするために、偉くなれ!」

だからこそ、正しいことをするために偉くなりたいと頑張る人を、心をこめて応援し続けたいと思っている。