何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

うんこ復活Ⅱ 女神降臨

2017-05-14 16:15:30 | 
昨日は「うんこ復活」などと名付けて、恥ずかしげもなく’’うんこ’’話を書いたが、振り返ってみると、このエピソードは昨年秋にも書いていた。(参照、「リアル書店に求めるもの」

どうもワンコのウンチ話にはじまり私自身、このブログにウンコうんこと書いてきたようだ。
’’うんこ’’のような駄文を反省している。

ところで、「リアル書店に求めるもの」にも書いているとおり、私は医療系の本を読むのが好きで、それは漫画であろうとも同じだ。
連休中、なぜか家に「研修医なな子」(森本梢子)という漫画があったので、読んでみた。
本書の「研修医が一人前?の医師になるまでの物語」という設定は、他の医療系の本では あまり読んだことがないので、興味深く面白く読んだのだが、医療現場の聞きしに勝る男女差別の厳しさには改めて驚かされた。

女医の友人が数人いるが、中高生の頃から大変優秀だったのをよく知っているせいか、私には女医に対しての偏見は、全くない。だが本書を読むと、女医さんが、女性というだけで、どれほど要らぬ苦労をしているか、よく分かる。

本書には「女医が第一線でやって行こうと思えば、独身を通すしかない」というセリフがあるが、本書が書かれた時期(1994~1995)を確認すると、友人たちが研修医となる数年前のことのようだ。
友人は当時「女医は、3割が独身で、3割が結婚しても離婚して、残りは医師を辞めて主婦になる(実家が病院のケースが多い)」と話していた。
私は友人の言葉を、日進月歩の医療現場における、出産・育児と知識・技術の維持・向上の両立問題だと考えていたが、決してそれだけではないことが、本書を読めばよく分かる。

患者からは、あからさまに「なんだ女医じゃないか、貧乏くじを引かされた!」と面罵され、同僚(男性)医師からは「女はいらん」と言われ、男性後輩医師が大きな手術を任されるようになっても(女医は)20年間ヘルニアと盲腸の手術しかさせてもらえなかったという話も書かれている。
本書はもちろんフィクションだが、作者は女医である姉と医療現場を入念に取材したうえで書いたというから、一面の真実ではあると思う。

有名なところで云えば、日産自動車事件を例に挙げるまでもなく、女性就労に問題があることは勿論 承知している。
言葉だけは勇ましく’’男女雇用機会均等法’’と謳ってみたことろで、表面上の機会の平等は、却って実質的な不平等を生み出しているのが現状だ。
だが、専門的知識や技術を修得していることが前提の医師界で、女医さんが、これほどの女性蔑視に耐えながら医療に励んでいたとは思いもしなかった。

21世紀になり、この問題の解決は、表面的には進んでいるようで、深いところでは悪化している感がある。
しかし、少子高齢化がますます進む日本では、男だ女だと云っている余裕はないのではないか。
残念ながら、思想信条の深いところでの改悛を待つことを、人口体系の歪みが許してくれない状態となっている。
だからこそ、日本の希望ある方向性を示すためにも、女帝を戴きたいと私は強く願っている。

二日つづけての’’うんこ’’タイトルの口直しに、庭園で見かけた花の王・牡丹の写真を。

うんこ復活

2017-05-13 15:51:55 | ひとりごと
昨年の秋ごろのことだったと思うが、私が独り言で「愚にもつかない」と言ったところ、野球小僧が「それって、’’うんこ’’みたいなことか?」と訊いてきた。
「うんこ???」

どうも野球小僧の間で、どうしようもなくバカバカしいことを、「’’うんこ’’(みたい)」の一言で片づけることが流行っていたようだ。
その後、気を付けて聞いていると「’’うんこ’’、’’うんこ’’」とあまりに多用しているので注意しようかと思っていたところ、年明けから「度し難い馬鹿」と言い出したので、そのままになっていた。

それが今また ’’うんこ’’ 流行期に入っているようだ。

連休前に、野球小僧がニヤニヤしながら「うんこドリルを作ってくれ」と頼んできた。
「’’うんこ’’ドリル???」

野球小僧は、子供たちの間で「うんこドリル 」が流行っていることを茶化しながら、ちゃっかり「自分専用の’’うんこドリル’’を作らせよう」という作戦を練ったつもりだったのだろうが、「うんこドリル」なるものが流行っていることが信じられなかったこともあり、「勉強道具(ノートやカード)を作るのも勉強だ!」と取り合わないでいた。
ところが今日立ち寄った本屋の参考書コーナーに、なんと本当に「うんこドリル」なるものがある!
ズラリと並んだ うんこドリルに着いている書店のポップには、「クソほど分かる」と書いてある。
なるほど、それ故の ’’うんこ’’か・・・・・。

野球小僧は、夜明け前から起きだし朝練をこなし、授業の後も遅くまで部活に精を出している。
その生活の、どこに勉強する時間があるのかは分からないが、それでも文武両道をとりあえずは目指している J君に、「’’うんこドリル’’を作ってやるか」 と考えている私こそ、’’うんこ’’かもしれない。

野球に情熱を傾ける野球小僧へのエール
赤いバラ:花言葉は情熱


再びのCarpe diem

2017-05-09 23:25:25 | ひとりごと
今日 2017年5月9日は、大安だった。

若かりし頃には六曜にも多少は拘ったが、拘ったほどの’’成果’’をほとんど実感したことがないため、最近ではカレンダーの隅に小さく書かれているそれを気にすることは、まず ない。
流石に新築の棟上げであれば、’’大安吉日お日柄もよく’’に拘るだろうが、今日から始まる外壁の吹付工事ぐらいでは、六曜より天気予報の方がよほど気になっていた。
案の定というべきか、連休中の連日の晴天が嘘のように今日から雨模様が続くようなので、日程の変更をお願いするかと相談していたのだが、予定通りの時刻に、小雨が降るなか現れた大工さんは、何やら神事?だけされ、本日の仕事は終わりとあいなったそうだ。だが、元々それこそが、大工さんにとって本日唯一の そして一番重要な仕事だったという。
そう今日は、大安。
ご近所さんから紹介して頂いた この大工さん、聞くところによると 宮大工としてかなりの経験を積んでおられるという。
ウサギ小屋のような我が家の、しかも外壁の吹付ごときに、丁寧な験担ぎの神事?までして下さったのは、宮大工としての習慣なのか、紹介先の顔を立ててということなのか分からないが、家人はかなり恐縮したようだ。
だが、切っ掛けはどうであれ、事を始めるに当たり神様にご報告するということは、理屈抜きに気持ちの良いものだったそうだ。

この話を帰宅後に聞き、何やら私も少し気分が晴れた。
連休中は、清々しい晴天が続いていたというのに全く気分が晴れないまま、毎年恒例の夏野菜を惰性で植えたり、「牡丹や石楠花が見ごろという庭園へ行きたい」という家人の運転手を務めたりしていた。
 

「何を見ても何をしても面白くない」という、私に憑りついている’’憂鬱の虫’’の原因は分かっているのだが、それが自分自身で何とかできる範疇の問題ではないために、’’どうしようもない’’という厭世観に囚われていた。
そのような’’憂鬱の虫’’が飛んでいる頭で、過去のブログを読み返すと、あまりの駄文に「恥の多い生涯を送ってきました」と消え入りたい気分までしてき、ここで一先ずブログを閉じるか、とまで考えていた。

そのような時、一年前に書いた「Carpe diem」がグーグルさんから届いたのだが、そこに書いていたニンニクの収穫の話が、今の私にとって、絶妙なタイミングだった。
もう何年も恒例となっている夏野菜の植える時期や作業は頭に入っているが、ニンニクは二度目のことなので収穫の時期が今一つ掴めないまま、少し黄色くなった葉を見つめていた。これを調べるくらい然程の労力も必要ないが、それをするでもなく連休中ダラダラと過していた私に、昨年の記事が届き、収穫期が来ていることが分かったのだ。
Carpe diem
「連休中は野良仕事をしていた」と書ければカッコ良いが、野良仕事と書くには烏滸がましいほどの庭をうろうろして過ごした連休だった。猫の額ほどの庭でも四季折々の景色とストーリーがある。......

駄文を綴り、間違いを書き散らかし、意味のないブログだと反省していたが、日常の些細なことでも記しておけば、ヒョンなことで(自分の)役に立つこともある。
上司の入院手術の日程も決まり忙しさに拍車がかかり、本を読む時間もそうそう取ることはできないが、ここを日々の備忘録としておけば、いつか振り返り役に立つこともあるかもしれない、そう思えば気持ちも軽くなり、連休中に見た花々の写真も輝きを増して見えるというもの。
今は、もう少し、駄文を綴ってみようかと思っている。

時代に即した・・未来を!

2017-05-08 00:01:55 | ひとりごと
「ワンコの導き 鈴蘭の教え」 「持ちつ持たれつ堕落と利用」 「利用も狡猾もお互い様」より

昨年夏からの諸々により、この数か月混乱を露呈していた。「DOTCH」
朝刊の第一面で伝えられる内容が各紙異なっているかと思えば、それが昼には覆され、その混乱がまたニュースになったりと、話題になる度に権威が低下していく感があったのだが、年明けから一つだけ方向性が揺るぎなくなっていったものが、ある。
珍妙な呼称の創設と、それを支えるための人員と費用の増大だ。

これが決定されるに至り、千代田周辺からの抵抗が消えたのを目の当たりにし、長年 皇太子様にまで及んだバッシングの理由が明確になったと私は考えている。

「時代に即した(新しい)公務」という皇太子様のご提案だ。

平成16年、皇太子様は二回の御会見(お誕生日と、デンマーク・ポルトガル・スペインご訪問に際して)で、公務の見直しについて言及された。
その際、皇太子様は公務の名をあげ具体的な指摘はされなかったが、そのご指摘の背景となったであろう事情は、ニュースや公表されている資料から明らかだと思われる。

昭和の後半(昭和50年代から63年にかけ)、皇室の公務に要する費用(宮廷費)は23~25億円、宮内庁費は50~60億円で推移していた。
それが平成になり新たな公務が次々設けられ、平成13年には宮廷費は昭和の3倍の69億円、宮内庁費は昭和の二倍の110億円にまで膨れ上がっていた。
昭和の後半、世はバブルに浮かれインフレが問題となっていたのに対し、平成はバブル崩壊とともに始まり長引くデフレが問題となっているのだから、物価上昇が費用を押し上げているわけでは、ない。

公務を増やし過ぎたことと、役割を終えた公務の整理がついていないことが問題だと思われる。

国体は持ち回り県が二巡目となり、地方予算を圧迫し始め、夏と秋の国体は同時開催となった。
冬季国体は、その性質上開催県が限られるため(頻繁に持ち回りが廻ってくる)受け入れ可能な県は開催を渋り、結局、皇族殿下の御臨席を拒むという形式で、大会継続を決定した。
皇太子御夫妻が御臨席されていた「全国農業青年交換大会」も、開催県の予算の問題から現在では規模を縮小させる事態となっている。
地方が予算捻出に苦労する一方で、珍妙な現象も起きている。
例えば、植樹祭の効果を演出する為、植樹祭が行われる式典会場の山の木を切り倒し、周囲をはげ山にしたうえで、植樹祭式典を行うという本末転倒な事態が話題となったこともある。こうなっては笑い話にしかならないが、このような「緑」関連事業は、植樹祭にはじまり育樹祭、みどり愛護のつどい、みどりの感謝祭、全国都市緑化フェア等など、さまざま存在し、御臨席賜ることになっている。

それぞれの公務には歴史があり、戦後間もない頃に始まった時には大きな役割を持ち、一巡する間には大きな役割を果たしてきたであろうが、時代が変わりその役割を果たし終えたものもあれば、重複するため取りやめが期待されるものもあると思われる。

そのような状況を、皇太子ご夫妻は理解されていたのではないだろうか。
平成16年の皇太子様の御会見では、雅子妃殿下についての「人格を否定する動き」というお言葉ばかりが取り沙汰されたが、実はこのとき併せて御指摘されていた「時代に即した(新しい)公務」というお言葉に、強い拒絶反応を示した所があったのだろうことは、その後の皇太子様の御会見のお言葉から拝察できる。
だが、お言葉の効果は確かにあった。
皇太子様の御言葉と前後し、増加の一途をたどっていた宮廷費は抑制に転じ、現在は2割減の55~56億円で推移しているのだ。

しかし、これが面白くない所はあるのだろう。

お言葉以降、雅子妃殿下が病気のために御臨席される公務に限りがあることと相俟って、公務の数を殊更にあげつらうバッシングは、皇太子様にまで及んでいる。
公務の増大は、その数をこなす方への賞賛と 人員・費用の膨張を生む一方で、そこへ疑問を呈した方を徹底的にバッシングする要因となってきた。
そして、そのバッシングの火元は現在も、「これ以上、公務を減らすことは不可能だ」と言い張っている。

だが、そうだろうか。
昭和の時代、現在より遙かに公務の件数は少なかったが、それで皇室の権威は低かっただろうか。

行き過ぎた権威主義は時代に逆行するものではあるが、拝見する機会の多さゆえの’’親しみある’’皇室であって頂きたいとは、私は思わない。

それよりは、象徴として、この国の未来の方向性を静かに示す希望の存在であって頂きたいと願っている。

昨年夏からの諸々に対応するための有識者会議は、相変わらず女子の命と存在をないものとして議論を進め、女子の命と存在を殊更に排斥するために、新たな身位まで設け、そこに人と費用を膨大に注ぎ込もうと画策している。

だが2040年、日本は出産可能年齢(~39才)の女性が激減するため、地方自治体の数が半減するというデーターもある。
その時、まさに39歳の敬宮様を、女性であるという理由で存在を認めないでいる国に、明るい未来はあるのだろうか。

時代の転換点にある今だからこそ、皇太子様の「時代に即した公務の在り方」という御提案を真摯に受け留め、更には、皇室が「男性と女性が命と存在を認め合う日本」の象徴となって下さるよう心から願っている。


利用も狡猾もお互い様

2017-05-06 11:41:45 | 
「ワンコの導き 鈴蘭の教え」 「持ちつ持たれつ堕落と利用」より

坂口安吾氏は、終戦一年目に軍人や政治家のみならず国民の狡猾さに怒り、「堕落せよ」と叫んでいる。
ここで坂口安吾が云う「堕落せよ」は一般的なイメージのそれではなく、「既存の道を(疑い)逸れてみよ」という意味だと理解しているが、私の愚考を記す前に、坂口安吾の激しい論考を、長くはなるが引用しておきたい。

「続堕落論」(坂口安吾)より
最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するが如くに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、又、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。
 人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。
 日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。
 天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花はのぞむことができないのだ。人間の正しい光は永遠にとざされ、真の人間的幸福も、人間的苦悩も、すべて人間の真実なる姿は日本を訪れる時がないだろう。私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺性のカラクリにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。我々は「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない。
~引用終了~


坂口安吾氏は、軍人や政治家だけでなく、国民にも、国民にこそ「堕落せよ」と叫んでいると思われる。
それは、日々の生活にあっては、伝統や風習 あるいは武士道から生じる仕来りに深く考えることなく従い、一朝事あらば、無謬であるが故に利用されてしまうる天皇が非常の処理をして下さるという『御利益を謳歌している』国民の狡猾さに’’喝’’を入れるためであるが、当時も今も、’’利用’’というのは一方的ではないと自覚しておかなければならないと、私は思う。
いや、坂口安吾は、それを自覚したうえで、国民側の非のみ問質し「堕落せよ」と叫んでいるのかもしれない、それが終戦から一年という時代の空気だったのかもしれない。

だが、現在のように、右も左も、上も下も、それぞれに都合よく お言葉やご活動を’’利用’’したり疎んじたりする風潮が顕著になっているのを見ると、’’利用も狡猾もお互い様’’を肝に銘じておかなければ、何度でも同じ間違いを我々は犯すことになり、そのうち大元を失うことにもなりかねないと感じている。

ワンコなら、「ここでやめておけ」と言うのだろうな ワンコ
昨年夏からの私の怒りと失望をワンコは知っているからこそ、一線を超えないように、クールダウンする機会を与えてくれたんだろうな ワンコ
ワンコの心配は分かっているのだけれど、憲法に反しかねない内容のリークの行き着いた先が、珍妙な呼称の創設と人員・費用の増大であったことを見て、心の奥底から失望しているのだよ

昨年夏からの経緯を見てさえ、8割を超える国民が女性天皇を戴くことに賛成しているというのに、それを無視し、珍妙な呼称を創設してまで女子の存在を軽んじる姿勢に強い憤りも感じているが、それよりも、憲法に反しかねない あの問題提起が望んでいたのが、この結果だということに怒りを通り越し深い深い失望を感じているんだよ

そして、この顛末を具に観察したとき見えてきたのは、皇太子様にまでに向けられ続けたバッシングの理由だ。
おそらく、それは、東宮に皇位継承権のあるお子様(男児)がおられない、という事だけではなかった。
それについては又つづく、かもしれない