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諏訪大社の起源は...

2010年05月10日 | 日記
日は諏訪大社下社御柱祭の最終日
初日から2日間参加すると、いささか疲れる。


のブログで4月に諏訪大社 御柱のルーツでいくらか調べたが御柱祭が終わった上社前宮本宮に行き
新しく建った御柱を眺めながら諏訪信仰と御柱について考えてみる。

また今日は御柱祭の起源について聞かれ上社前宮、本宮を訪ねる。



訪大社は、全国各地に10,000社以上の諏訪神社等と呼称される分社の総本社。
諏訪大社は、諏訪湖を中心として上社と下社の二つの神社で諏訪大社を構成。 
上社は諏訪市中洲の本宮と茅野市宮川の前宮の2社で構成されている。

社は下諏訪町に有る春宮と秋宮の2社で構成されている。
諏訪湖を挟んで諏訪市の南西、茅野市の西側に鎮座しているのが上社。
下諏訪町に鎮座しているのが下社。

祭神は山陰の島根県にある出雲大社に祀られる
大國主命(おおくにぬしのみこと)の第2子神「建御名方命神(たけみなかたのみこと)」
その妃神「八坂刀売神(やさかとめのみこと)」。
下社には兄神「八重事代主神(やえことしろぬしのみこと)を併せ祀られている。


訪大社の名称については、南方刀美神社(みなかたとみじんじゃ)、
建御名方寓命神社(たけみなかたとみのみことじんじゃ)、
諏方南宮上下社、諏訪神社、諏訪上下社とも呼ばれる。

た諏方南宮上下法性大明神(すわなんぐうじょうげはっしょうだいみょうじん)とも称えられ、
その起源は遠く古代にさかのぼることが歴史上の文書等により明らかである。



訪大社の起源は 『古事記』『諏方大明神画詞』に伝えられている。
それによると、出雲国を治めていた大国主命は、
高志(越=こし)の沼河媛(ぬなかわひめ)を嫁にとり、建御名方命をもうけた。

国主命の国ゆずり(出雲国ゆずり:天照大神へ献上)のとき、
大国主命の決めたこの国ゆずりに建御名方命(たけみなかたのみこと=諏訪社神)は
承知をせず、天照大神が差し向けた建御雷神と力競べをして負ける。

訪湖まで来てこの地にとどまる。
これが諏訪神社の始まりである。
 
こ諏訪にはそのときすでに洩矢神(もれや=守矢神)という地主神がいる。
建御名方命がこの地入ってくるのを防ごうと戦った。
 が、呪術合戦の末、洩矢神は力及ばず負けて家来になる。

は建御名方命のこの地方開拓の良い協力者になった。
この洩矢氏(もれや=守矢)の後裔(こうえい=子孫)は、
その後長きに亘り神長官として諏訪明神に仕えた。
 

御名方命とか諏訪明神という言葉は、個人を指すのではない。
諏訪に入ってきた出雲族の首長の呼び名である。

の出雲族は、背後に奥深い山を背負った守屋山麓の前宮のあたりに本拠をすえた。
これが諏訪大社上社の起源である。

の地は山も深く、谷もふかくて狩猟にもっとも適する土地であったから
それをまず生活の中心としたことは、後の祭事にも良く見えている。


立て替えられた御柱が天を突くように建っている。


さてここで言う出雲族とは、
『古事記』に描かれている日本神話には、
大きく高天原(たかまがはら)系と出雲系に分けられる。
それぞれが系譜でつながって一つの神界を形成している。

でも、高天原族と出雲族は天照(アマテラス)の弟がスサノオであるように、
高天原出身の同じ一族とされているものの両者を比べると、
その性格はかなり違っている。

雲の神々は、始祖のスサノオとオオクニヌシを主人公にしている。
最後には高天原族に屈伏し、国の支配権を譲る。
しかも、出雲の神々はどちらかというと、高天原族の敵役といった印象。
 
『日本書紀』では、その性格はもっと強調されている。
スサノオにいたっては、高天原をかき乱すただの乱暴者。
また、オオクニヌシの説話なども『日本書紀』ではほとんどカットされている。
国譲りの場面などもわりとスムーズで、いかにも朝廷側の思惑を反映したものになっている。
 
出雲の神々は無視することはできないが、どこか厄介者という扱い。

しかし忘れていけないのは、出雲族の祖とされるスサノオが出雲に天降ったのは、
高天原族の祖ニニギが九州に天降るよりも前であったこと。
そして出雲族が国を造ったあと、高天原族はその国を譲り受けている。


前宮御本殿は内御玉殿から200m程上。
古くは神殿に附属したお社。
高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御祭神が最初に居を構えられる。
諏訪信仰発祥の地と伝えられている。




社本宮には神体山として神聖視されている守屋山(標高:西峰=1650m、東峰=1631m)があるが、
現在の上社本宮拝殿の拝み方向は、山の方を向いていない。
「神居」と書かれた禁足の森の方角に向かっている。

を神体とする神社の多くは、社殿の背後に山を持ってきて拝み方向が
「社殿→神体山」と重なることが多いのに。

方、四脚門から硯石を拝むと、その延長線上には神体山が当たる。
このことから、当初の祭祀方向は「四脚門-硯石-神体山」ラインであり、
それがある頃から「拝殿-神居」ラインに変わったのだと考えられているよう。


むかしの話であり詳しい事は分らないが今から1200年以上前の桓武天皇(在位781〜805)の時代からであるという。

在の様に諏訪大社が脚光を浴びるようになったのは
武田信玄が軍神として諏訪大社を祀るようになったから、だという。

調べれば調べるほど謎に満ちた所がある。

れは諏訪の七不思議とも言われている

   1.氷湖の神幸:御神渡(おみわたり):諏訪湖
   2.元旦の蛙狩 (蛙ち寺神事)   :上杜
   3.五穀の筒粥 (筒粥神事)    :下社
   4.御作田の早稲 (御作田神事)  :下社
   5.宝殿の点滴           :上社
   6.高野耳割の鹿 (御頭祭)    :上社
   7.葛井の清池 (御幣送り神事)  :茅野市上原 葛井神社
がある。

又機会があったら訪ね歩き調べようと思う。