白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<動物への意志>を持たない近代人Kの悲劇

2022年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム
廊下に響き渡る役人の「どなり声」や「ドアを急いで開閉する音」。それらはしかし「間歇(かんけつ)的」である。必然的繋がりが一つも感じられない。偶然的かとおもえば必然的でもあり必然的かとおもえば偶然的である。どちらとも言えない。だが偶然だろうとおもって無視するわけにはいかない。必然的どころか城の全機構にとって極めて重要な必要不可欠な手続きの一環だったりする。役人たちは一瞬たりとも気を抜くわけにはいかない。居眠りしているように見える時でさえ決して気を抜いているわけではない。Kが礼儀に則りノックをしてビュルゲルの部屋に入ろうとした時、ビュルゲルはぐっすり眠っていて返事一つ返さなかったにもかかわらず、Kが気をきかせて静かに部屋を去ろうとするやビュルゲルは瞬時に起きてKの前で長々と演説し始めたではないか。

「ひっきりなしに泣いていた子供も、やがてだんだんとぎれとぎれのすすり泣きに移っていくものだが、この役人の叫び声も、それとおなじであった。けれども、もうすっかり静かになってからでも、まだときおり間歇(かんけつ)的にどなり声が起ったり、例のドアを急いで開閉する音がきこえたりした」(カフカ「城・P.453」新潮文庫 一九七一年)

この「間歇(かんけつ)性」はたまらなく効果的だ。いつもがみがみ怒鳴っているよりよほど効率的でなおかつ効果が上がる。それは最初、近代ヨーロッパ監視社会で<パノプティコン>として出現した。フーコーから四箇所。

(1)「ベンサムの考えついた<一望監視施設>(パノプティコン)は、こうした組み合わせの建築学的な形象である。その原理はよく知られているとおりであって、周囲には円環状の建物、中心に塔を配して、塔には円周状にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓がいくつもつけられる(塔から内庭ごしに、周囲の建物のなかを監視するわけである)。周囲の建物は独房に区分けされ、そのひとつひとつが建物の奥行をそっくり占める。独房には窓が二つ、塔の窓に対応する位置に、内側へむかって一つあり、外側に面するもう一つの窓から光が独房を貫くようにさしこむ。それゆえ、中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで充分である。周囲の建物の独房内に捕えられている人間の小さい影が、はっきり光のなかに浮かびあがる姿を、逆光線の効果で塔から把握できるからである。独房の檻の数と同じだけ、小さい舞台があると言いうるわけで、そこではそれぞれの役者はただひとりであり、完全に個人化され、たえず可視的である。一望監視のこの仕掛けは、中断なく相手を見ることができ即座に判別しうる、そうした空間上の単位を計画配置している。要するに、土牢機能ーーー閉じ込める、光を絶つ、隠すーーーのうち、最初のを残して、あとは解消されている。(この新しい仕掛では)充分な光と監視者の視線のおかげで、土牢の暗闇の場合よりも見事に、相手を補足できる。その暗闇は結局は保護の役目しか果していなかったのだから。今や、可視性が一つの罠である」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.202」新潮社 一九七七年)

(2)「権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者にうえつけること。監視が、よしんばその働きの中断があれ効果の面では永続的であるように、また、権力が完璧になったためその行使の現実性が無用になる傾向が生じるように、さらにまた、この建築装置が、権力の行使者とは独立した或る権力関係を創出し維持する機械仕掛になるように、要するに、閉じ込められる者が自らがその維持者たる或る権力的状況のなかに組み込まれるように、そういう措置をとろう、というのである。そうであるためには、囚人が監視者にたえず見張られるだけでは充分すぎるか、それだけではまったく不充分か、なのだ。まったく不充分と言うのは、囚人が自分は監視されていると知っているのが肝心だからであり、他方、充分すぎると言ったのは、囚人は現実には監視される必要がないからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.203」新潮社 一九七七年)

(3)「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.204」新潮社 一九七七年)

(4)「誰が権力を行使するかは重大ではない。偶然に採用された者でもかまわぬぐらいの、なんらかの個人がこの機械装置を働かすことができる、したがって、その管理責任者が不在であれば、その家族でも側近の人でも友人でも来訪者でも召使でさえも代理がつとまるのだ。まったく同様に、その人を駆り立てる動機が何であってもよく、たとえば、差し出がましい人間の好奇心であれ、子供のいたずらであれ、この人間性博物館を一巡したいとおもう或る哲学者の知的好奇心であれ、見張ったり処罰したりに喜びを見出す人間の意地悪さであれかまわない。こうした無名で一時的な観察者が多数であればあるほど、被拘禁者にしてみれば、不意をおそわれる危険と観察される不安意識がなおさら増すわけである。<一望監視装置>とは、各種各様な欲望をもとにして権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛である」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.204」新潮社 一九七七年)

どんな理由があるのかわからないが一人の役人がベルを鳴らしたため廊下は一時騒然となった。次の瞬間、宿屋の亭主とお内儀(かみ)が走って駆けつけてきた。二人はベルを鳴らした役人とその周辺の騒ぎには目もくれず、Kの腕をつかんでともかくKを騒ぎの中から引っ張り出し中庭に連れ出した。宿屋の主人夫婦が困り果てて言うには、この騒ぎの原因はそもそもKにあると。Kが「廊下にいたことがいけなかったの」だと。

「『しかし、わたしがなにをしましたかね』。Kは、何度もそうたずねたが、なかなか答えが得られなかった。なぜなら、亭主夫婦にすれば、Kの罪はあまりにも自明のことで、Kがまじめに質問しているとはとうてい考えられなかったからである。Kがすべてのことを納得できるまでには、ずいぶん時間がかかった。彼は、廊下にいたことがいけなかったのである」(カフカ「城・P.457」新潮文庫 一九七一年)

だがKの側にすれば廊下は縉紳館の中の廊下である。エルランガーが呼んでいるというので縉紳館にやって来て廊下を通った。不可抗力ではないか。しかし宿屋の主人夫婦は、Kが廊下を通らなければならないのは仕方ない当たり前の事情であるによせ、問題はそういうことでは全然なく、<なぜ廊下で役人たちの動きをいちいち見ていたのか、そんな指示はどこからも来なかったはずなのに>、ということらしい。となると、役人たちの仕事を「間歇(かんけつ)的」なものにしたのはKだということになる。Kが役人たちの仕事の邪魔をし、遂に緊急ベルを鳴らせたということになる。しかしKは監獄社会の監視者ではまるでない。ただ見ていただけだ。ところがその、「見ていた」という態度こそ極めて重大問題なのだとお内儀(かみ)は力説する。なお、ここでまた城の機構の全体性と城の機構に属する<分子状>の人物(宿屋の主人夫婦たち)の関係が出現している。ヘーゲルが述べた全体と部分との関係に一致する。

「《全体》はそれぞれの自立的な存立をもつところの反省した統一である。けれども、このような統一の存立は同様にまた、その統一によって反発される。全体は否定的統一として自己自身への否定的な関係である。そのために、この統一は自己を外化〔疎外〕する。則ち、その統一は自己の《存立》を自己の対立者である多様な直接性、則ち《部分》の中にもつ。《故に全体は部分から成立する》。従って全体は部分を欠いてはあり得ない。その意味で、全体は全体的な相関であり、自立的な全体性である。しかし、またまさに同一の理由で、全体は単に一個の相関者にすぎない。なぜなら、それを全体者たらしめるところのものは、むしろそれの《他者》、則ち部分だからである。つまり全体は、その存立を自己自身の中にもたず、却ってこれをその他者の中にもつのである。同様に、部分もまた全体的な相関である。部分は反省した自立性〔全体〕に《対立する》ところの直接的な自立性であって、全体の中に成立するのではなくて、向自的に〔単独に〕存在する。しかし、それは更にまた、この全体を自己の契機としてもっている。即ち全体が部分の関係を形成する。全体がなければ部分は存在しない」(ヘーゲル「大論理学・第二巻・第二篇・第三章・A全体と部分との相関・P.188」岩波書店 一九六〇年)

廊下を通るほかエルランガーの呼び出しに応じることはできない。ところが廊下で役人たちの様子を見てしまったことは犯罪にも等しいという。ソ連のスターリニズム、日本の官僚主義的資本主義にまるで瓜二つ、というべき罪状ではないか。こうなってくるともはやKに逃げ道は残されていないかのように思える。だがもう少し考えてみよう。

人間社会は子どもを育てるだけでなく動物も育てる。ただし子育てのための有効な方法を発見して始めて事後的に動物を飼い慣らす有効な方法をも発見したのであって、動物を飼い慣らす方法を発見した後になって子育ての方法を発見したわけではまるでない。何百何千もの動物の解剖にもかかわらず何一つわからなかったように、人間は他の人間の死体を解剖し内臓諸器官の機能を比較研究してみて始めて事後的に動物解剖の意味を見出し動物実験の意義を理解するようになった。

一方、ジャッカルという動物がいる。象や犬のように飼い慣らすことはとてもできない。そしてジャッカルの故里(ふるさと)は砂漠である。彼らは飼い慣らされることを嫌う。まるで資本主義のように脱コード化する。その意味で資本主義にとっては<脱土地化>の象徴的動物の一種だ。

「『人間というのは北方であろうとどこであろうと、同じ流儀でしか考えないのかね。おれたちは殺したりしない。いくらナイルの水があろうとも、洗いきよめるには足るまいぜ。おれたちはやつらの生身(なまみ)を目にしたとたん、一目散に逃げ出すのさ。清らかな大気の中へ、砂漠へと逃げこむのさ。砂漠こそおれたちの故里(ふるさと)だ』」(カフカ「ジャッカルとアラビア人」『カフカ寓話集・P.14』岩波文庫 一九九八年)

ジャッカルは場所を移動し、夜になると群れで砂漠に散らばった動物の屍肉を喰い漁る。砂漠の掃除屋を務める。清潔好きなのだ。もしジャッカルやその類種がいなかったら砂漠は蓄積していくばかりの屍体・腐肉の山を土に還して微生物たちの営みへ流通させることはできない。

「四人がかりで運んできて、すぐ足元にドンと投げ出した。とたんにジャッカルが声をあげた。一匹ずつ、網でもって引きずられでもするように、地面に這(は)いつくばって、じりじりと近づいてくる。アラビア人を忘れ、憎しみを忘れ、ただただ目の前の屍体に魅惑されて、その首たまにワッと跳びつき、動脈に食らいついた。大火事の中でやみくもに上下している小さなポンプのように、ありとあらゆる筋肉がせわしなく蠕動(ぜんどう)していた。一匹のこらず山をなして屍体に齧りついていた」(カフカ「ジャッカルとアラビア人」『カフカ寓話集・P.19』岩波文庫 一九九八年)

だが資本主義の運動と一致するのはそこまでだ。ジャッカルはありとあらゆる腐肉の掃除にもかかわらず、その見返りを何一つ求めないからである。Kに禁止されているのはこのような<動物への意志>だ。<動物への意志>を持たない近代人Kは、ますます城の機構すべてを自分に対する罠にしてしまうほかない。

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