白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・Kの訴訟<引き延ばし>と資本主義的永遠回帰のパラレル性

2022年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
もう一つの手法「引延し」について語るティトレリ。ティトレリはKが逮捕された以上、完全な無罪判決を得る見込みは絶対的になく、<ない>ことこそもはや自明だと確信して語っている。一方Kは、その中にもしかしたらまだ無罪判決を手に入れる要素が見出せるかもしれないという限りなく絶望に近い希望を捨てずに耳を傾けている。

「『引延しというのはですね』、と画家は言って、ぴったりした言葉を捜すように一瞬宙に目を浮かせた、『引延しとは、訴訟がいつまでも一番低い段階に引きとめられていることによって成立つのです。これをやりとげるためには、被告と援助者、とくに援助者が絶えず裁判所と個人的な接触を保つことが必要です。もう一度言うと、この場合は見せかけの無罪判決を獲得するときのような苦労はいりませんが、そのかわりはるかに大きな注意が必要です。訴訟から目を離してはならないし、担当の裁判官のもとに、特別な機会に行くのはむろんとして、たえず定期的に出かけていかねばならず、いろんな方法で彼の好意をつなぎとめておかねばならない。もしその裁判官を個人的に知らないんだったら、知人の裁判官を通して働きかけねばならないが、その場合でも直接の話し合いを断念してしまってはいけない。これらの点で努力を怠りさえしなければ、かなりの確かさで、訴訟は最初の段階から先へ進まないと信じていいのです。むろん訴訟が中止されたわけではない、しかし被告は自由の身と言ってもいいくらいに、有罪判決されるおそれがありません。見せかけの無罪にたいしこの引延しには、被告の将来が前者の場合ほど不安定でないという利点があります。突然に逮捕される驚きからは守られているし、たとえそのほかの情勢がきわめて思わしくない時期でも、あの見せかけの無罪獲得につきものの努力や緊張感を引き受けなくてはならぬのか、などと怖(おそ)れることもありません。もちろん引延しにも被告にとって決して過小評価できないある種の弱点があります。といってわたしはなにも、この場合は被告が自由になることは決してない、ということを考えているのではありません。本来の意味ではそれは見せかけの無罪の場合だって同じことですからね。それとは違う弱点です。というのは、少くとも見せかけでもその理由がなければ、訴訟は停止するわけにはいかないということです。従って、外にたいしては訴訟の中でいつも何かが起っていなければならない。つまりときおりさまざまな命令が出されなければならず、被告が訊問(じんもん)されたり、審理が行われたり、等々がなされていなければならぬわけです。そこで訴訟は絶えず、わざと人為的に局限された小さな範囲のなかで回転させられていくことになります。これはむろん被告にとってある種の不快感をともなうことですが、しかしあなたはそれではひどすぎると想像してはならんでしょう。すべては外面的なことにすぎないんですから。たとえば訊問はごく短いものですし、出かけてゆく時間や気持がなければ、断ってもかまわない。ある種の裁判官の場合には、長期にわたっての命令をあらかじめ一緒に決めておくことさえできるんです。本質的にはつまり、とにかく被告は被告なんだから、ときおり裁判官のもとに出頭するというにすぎません』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.223~225」新潮文庫 一九九二年)

ティトレリの言葉、「というにすぎません」。あまりにも軽い取り扱い方。まるで何一つ大したことではないではないかという調子。Kの身にすればからかわれているとしか思われない。Kはどこをどう探してみても逮捕される理由一つ見あたらないというのに被告にされたばかりか、裁判所の指示通り従っている限り、むしろ死刑判決ではないのだからもう十分ではないかと完全に諦めることをいとも軽々しく、また善処ででもあるかのように遥か上空から恩を着せられた気分である。死にかけの猿を見捨てず逆に拾ってやったのだから芸の一つでも覚えれば一種の社会貢献になるのでは?と大真面目な顔で教訓を与えられたかのような感覚だろう。頭に血がのぼったKはただちに画家のアトリエを立ち去ろうと決めた。無駄な時間に付き合わされてしまっただけでなく無駄以外の何ものでもない時間をわざわざ作ってしまった自分自身にも怒りを覚えている身振りを取る。なおティトレリは「引延し」について訴訟の中の一つ手段として語っているわけだが、それが「城」の機構でのバルナバスの行動とまるで同じことだとカフカは読者に教えている形になる。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫 一九七一年)

<可動的>な柵。一つの柵を越えたとしてもそれはただそれだけのことに過ぎずKの立場が次の段階に入ったことにはならない柵。どこまで行っても最終的<決済>のやって来ない<未決状態>という宙吊りにされたままのK。

またティトレリは「外面的なことにすぎない」とも言っている。ヘーゲルは言語について音声言語(声)の側が上位にあることを証明しようとして書記言語(書かれた文字)は「外面的」なものに過ぎないと証明しようとするが、証明しようとすればするほど言語の真ん中に横たわっているのはほかでもない「外面的」な書記言語だという事実を逆に証明してしまう。マルクスがヘーゲルを転倒させて観念があるところに実は物質があると述べたように。しかしなぜ延々と引き延ばすことが可能なのか。ヘーゲルはいう。

「これが《対内》主権である。主権にはなお他の側面、すなわち《対外》主権がある。ーーー過去の《封建的君主政体》には主権をもっていたが、しかし、対内的には君主だけではなく、国家も主権をもっていなかった。国家および市民社会の特殊的な職務と権力が独立の団体〔ギルド〕や共同体に専有され、したがって、全体は有機的組織であるよりはむしろ凝集体であったこともあるし、また、特殊的な職務と権力が諸個人の私的所有物であり、そのために彼らが全体を顧慮しておこなうべきことがらが彼らの臆見や好みにまかされていたということもあった」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・第三章・二七八・P.257~258」岩波文庫 二〇二一年)

或る事物の価値について「《対内》主権」と「《対外》主権」との二つがある。そして内部と外部とでは価値体系がまるで異なっている。それが根本的契機としていつも存在するため、どこまで行っても未決状態が延々と引き延びていく事態が生じる。経済的な決済が決して訪れない理由もそこに求めることができる。そしてこの事情についてマルクスもエンゲルスも気づいていなかった。世界を一国として考えている限り決して見えてこない事情である。しかし世界は生産・流通・金融とどのブロックにおいても資本主義的生産様式のそれぞれとして繋がっている以上、一国として考えることができる。そしてそう考えるのは間違っていない。さらにそのように一国として考えると資本主義的生産様式について精緻この上なく説明することができる。ところがそうすると最後に資本主義は別の生産様式へ自動的に転化することが決定されたかのように錯覚してしまう。まさに最後の最後で躓(つまず)くのだ。ゆえにヘーゲルは最後にはキリスト教によるユートピア世界が地上を支配して丸く収まるという話を持ってきて無理やり弁証法を「止揚・揚棄」してしまった。マルクスとエンゲルスはキリスト教ではなく共産主義世界の到来によって世界は「止揚・揚棄」されると宣言した。どちらが正しいかという問いはもはや無効である。どちらも弁証法を取っている限りでは間違っていない。そして今なお弁証法はますます有効でさえある。ただ「《対内》主権」と「《対外》主権」という形で常に価値体系が異なっていくばかりの<内部>と<外部>とが世界の中から、世界として出現してくる限り、どこまで行っても最終的<決済>は決してないということがわからなくなるのだ。コード化している地域があり、脱コード化している地域があり、再コード化している地域があり、そのどこへ行っても弁証法を前提に議論が行われている。<コード化・脱コード化・再コード化>は時間的に順を追って続いていくわけではまるでなく、空間的に世界のあちこちで何度も繰り返し打ち広がっていく作用なのだ。この事情は同一的な<内部>の側から先に考えていてはいつまで経っても見えてこない。逆に<外部>という差異の側から考える立場に立って始めて見えてくる。すると同一的なもの(アイデンティティ)の確立ではなく逆に差異の増殖によって世界は永遠に回帰するという思想にたどりつく。

そのことに最初に気づいたのはまたしてもニーチェである。ただニーチェの場合は論理的方法の瞞着性について暴露せざるを得ない地点へたどりついたことでそれに気づきもし気づかせもした。世界にはまるで異なる別々の価値体型があり、そうであって始めて世界は決して停止しないことの根拠になっている、という点について二箇所引いておこう。(1)は生活様式の差異の複数性について。(2)は言語体系の差異の複数性について。

(1)「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)

(2)「個々の哲学的概念は何ら任意なもの、それだけで生育したものではなく、むしろ互いに関係し類縁を持ち合って伸長するものであり、それらはどんなに唐突に、勝手次第に思惟の歴史のうちに出現するように見えても、やはり或る大きな大陸の動物のすべての成員が一つの系統に属するように、一つの系統に属している。このことは結局、極めて様々の哲学者たちもいかに確実に《可能な》諸哲学の根本図式を繰り返し充(み)たすか、という事実のうちにも窺(うかが)われる。彼らは或る眼に見えない呪縛(じゅばく)のもとに、常にまたしても新しく同一の円軌道を廻(めぐ)るのである。彼らはその批判的または体系的な意志をもって、なお互いに大いに独立的であると自ら感じているであろう。彼らのうちにある何ものかが彼らを導き、何ものかが一定の秩序において次々と彼らを駆り立てる。それはまさしく概念のあの生得的な体系性と類縁性とにほかならない。彼らの思惟は実は発見ではなく、むしろ再認であり、想起であり、かつてあの諸概念が発生して来た遥遠な大昔の魂の全世帯への還帰であり帰郷である。ーーーそのかぎりにおいて、哲学することは一種の高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげでーーー思うに、同様な文法的機能による支配と指導とのおかげでーーー始めから一切が哲学大系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞(ふさ)がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に『世界を』眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛である」(ニーチェ「善悪の彼岸・二〇・P.38~39」岩波文庫 一九七〇年)

そこで改めて差異から始めることでようやく論理的にも永遠回帰が生じてくると証明して見せたのはドゥルーズである。アナーキズム的な匂いがするとして右からも左からもうさん臭がられたドゥルーズだったが、そのドゥルーズともう一人フーコーが注目したのは偶然にもアメリカ型資本主義であり、従ってドゥルーズやフーコーの著作が漂わせていたアナーキズム的な匂いはアメリカという国家形態が発するうさん臭さから立ちのぼっていた臭気だった。

それはそれとしてKは気が進まないながらもお礼のつもりでティトレリの絵を三点購入する。そして一刻も早く外へ出て新鮮な空気を吸い込みたいと思ったKにティトレリは部屋からの出口を教えてやった。部屋のドアが開けられた瞬間、Kの目に唖然とする光景が飛び込んでくる。そこには裁判所事務局があった。

「『全部つつんでください!』、と彼は叫んで画家のおしゃべりを遮(さえぎ)った、『あした小使にとりに来させます』。『その必要はありません』、と画家は言った、『いますぐあなたと行ける運び手を見つけられるでしょう』。そしてようやく彼はベッドの上にかがみこみ、ドアの鍵を開けた。『遠慮なくベッドに上ってください』と画家は言った、『ここに来る人はみんなそうするんですから』。そうすすめてくれなくてもKは遠慮なぞしなかっただろう。それどころか彼はすでに片足を羽根ぶとんにのせてさえいたのだが、開いたドアから外を見て、またその足をひっこめてしまった。『あれはなんです?』、と彼は画家にきいた。『何を驚いてるんです?』、と画家のほうでも驚いてきき返した、『裁判所事務局ですよ。裁判所事務局がここにあるのをご存じなかったんですか?ほとんどこの屋根裏にだって裁判所事務局があるのに、ここにあっていけないわけがないでしょう?わたしのアトリエも本来裁判所事務局の一部なんですが、裁判所がわたしに使わしてくれてるんですよ』。Kはこんなところにまで裁判所事務局を見出(みいだ)したことにそれほど驚いたのではなかった。それより彼は自分にたいし、自分の裁判所に関する無知にぞっとしたのだった」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.228~229」新潮文庫 一九九二年)

あのおぞましい「長い廊下がひろが」っており、さらにアトリエの側に向かって「そこから空気が動いて来た」。Kが通うことになっている裁判所事務局とはまた別の事務局のようだがその光景はほとんど違わない。「長い廊下」、「ベンチ」に座ってうなだれている訴訟当事者、「廊下のはしの薄暗がり」。Kはめまいに襲われたかのように「よろめいて」歩くことしかできない。

「つねに用心していること、決して不意を襲われぬこと、裁判官が自分の左に立っているのにうっかり右を見つめたりしないことこそ、被告のとるべき態度の根本原則だと彼は思っていたのにーーーなんどでもまた彼が破るのは、まさにその根本原則だったのだ。彼の前には長い廊下がひろがり、そこから空気が動いて来たが、それにくらべればアトリエの空気のほうがまださわやかだった。廊下の両側にベンチがおかれている点も、Kの関(かかわ)っている事務局の待合室と正確に同じだった。事務局の設備は詳細な規定で定められているようだった。見たところここでは訴訟当事者の行き来はそれほどではなかった。一人の男がそこになかば横になって坐(すわ)っていたが、これはベンチの上の腕の中に顔をうずめ、眠っているらしかった。廊下のはしの薄暗がりにも男が一人立っていた。Kはベッドを越え、絵を持った画家がそれにつづいた。まもなく一人の廷吏に出会うとーーー私服のふつうのボタンにまじっている金ボタンで、Kはいまやすべての廷吏の見分けがついたーーー画家はその男に絵を持ってKのお供をしてくれと頼んだ。ハンケチを口にあて、Kは歩くというよりむしろよろめいていった」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.229~230」新潮文庫)

この箇所ではそれまで見分けのつかなかった一人の廷吏の姿がKの目に入ってくる。ほとんど一般人と違わない「私服」なのだが「私服のふつうのボタンにまじっている金ボタン」というほんのちょっとした「徴(しるし)」によってもはやKにははっきりと区別できるようになっている。Kは学習する。もはや絶望的だと。にもかかわらず訴訟は続いていくしK自身がますます訴訟化していく。

なお、ロシアの軍事行動が異常であるとマスコミ(主にテレビ)はやかましくがなり立てている。特にテレビは無意味な騒音に等しい。実際のところ、再開発を名目としたアフリカの自己領土化を巡って中国とアメリカとで妥協し分け合う形になり、ロシアは思いのほか領土化できない立場へ押し下げられたことが我慢ならないようだ。アメリカは中国のことをすでに「仮想敵国」と考えていないように見える。むしろ北朝鮮・ロシアをいったん<仮の>「仮想敵国」に位置付け排除しておき、アフリカを中国と分け合った上でおもむろに北朝鮮を市場に引きずり込み、圧倒的かつ驚異的軍事力で打ち固めると同時に強引に分配するつもりなのだろう。アフリカ利権で先手を打った中国がやや大きいぶん、北朝鮮は部分的にアメリカに譲ってやっても構わないという算段なのかもしれない。米中の間に政治対立はあるものの経済的には久しい以前からもはやパートナーだからである。

民族紛争は一時的にナショナリズムを高揚させて資本主義的<雑種性>をヘイトさせるが、そういう時にはトランプ政権を樹立させて加速主義を出現させ、たちまち民族紛争を疲弊へ追い込み「ヘイト禁止法」を成立させた。ヘイトには「憎悪」があるが憎悪する相手に自分の日頃から毛嫌いしている「汚点」が透けて見えることでむしろ「自己嫌悪」に近いものがある。人間にそれを学ばせることも資本主義にとっては大切な機能だ。資本主義自身が生き延びていくために。ロシア革命を「消化」するのに当たって「労働階級のための公理」を承認し「労働組合のための公理」を承認し「社会福祉のための公理」を承認し、というふうに資本主義が二度と再び転倒されないよう様々な「公理」を設け、さらに古くなった公理を新しい公理へ次々と置き換えていく。「ヘイト禁止」もまたその一つ。ナショナリズム的<アイデンティティ>は資本主義を減速させ資本主義に死をもたらす。しかし「ヘイト禁止」させることで資本主義は物流を速やかに回復させ民族主義的アイデンティティを緩和させ<雑種性>を高める方向へ置き換える。

また「持続可能なSDGs」の中に「脱炭素」が入っているけれども「脱原発」が入っていないのはなぜだろう。そもそも「持続可能」という言葉自身、人間社会の共生を目指しているわけではほとんどなく資本主義の引き延ばしのおおっぴらな宣言でしかないというのに。「人間の社会的共生を目指しているわけではほとんどない」というわけは、機械ばかりの全自動世界が実現されてしまえばもう資本主義が利子を出現させることはできなくなるからである。機械だけでは剰余価値は生まれないし消費者も生まれない。消費者が消滅すると剰余価値の実現はまったく不可能に陥る。生産も流通も金融もまるで無価値になる。しかしそれぞれの人間は各自の方法で生き延びたいと欲望する。資本主義はその欲望をもっと激しく欲望させることで<決済>を延々と引き延ばさせて<未決状態>で世界を覆い尽くす。核兵器は人類滅亡を招きかねないため、大国が所有する高性能の核兵器が実際に使用されることはない。デモンストレーション用に見せびらかされているばかりだ。今や情報戦の時代に入っているというのにどこの誰が本気で自爆の連鎖に繋がるような高性能核兵器を用いるというのだろうか。

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