捨て台詞を残して会場を後にしたK。しかし裁判も終わったとは考えられない。判決が出ていない以上、今なお逮捕された状態であるのかもう解放された身であるのかさっぱりだからでもある。Kは首を長くして通知が来るのを待っていた。たった一週間だというのに来る日も来る日も首を長くして待っていた。が、土曜日の夜になっても通知は一つもこない。そこでKは前回と同じように同じ場所に来いということだと解釈した。呼び出されていないにもかかわらず。ということは、この時点でKはもはや<法の欲望>の虜(とりこ)になってしまっていたと言える。次の日曜日がやって来るとまた例の郊外にある漫然で巨大なばかりの建物に赴いた。前に会った洗濯女の部屋のドアをノックするとドアが開いた。ドアのそばには前に騒動を起こした洗濯女が立っており「今日は集会はありませんよ」という。Kが聞き返すと女は隣室のドアを開けて見せてくれた。なるほど会場には誰一人おらず、からっぽの空虚な寂しさが漂っている。演壇の上の机に二、三冊の本が載っている。Kはその本を見せてもらえないかと女に聞いた。「だめです」とつれない返事。というのも「あれは予審判事さんの本」だからだという。そう聞いたKはこれといって収穫のないままもう帰るしかない。すると女がKに声をかけた。次の対話は短いが意外な事実が判明する。
「『なにか予審判事さんに伝えとくことがありますか?』、と女はきいた。『あなたは彼を知ってるの?』、とKはきいた。『もちろん』、と女は言った、『わたしの夫は廷吏ですからね』。そう言われて初めてKは気がついた、この前は洗濯(せんたく)だらいしか置いていなかった部屋が、いまはきちんと整頓(せいとん)された居間になっているのだ。女は彼の驚きに気づいて言った。『ええ、わたしたちここをただで借りてるのよ、開廷日には部屋を空けるっていう約束でね。わたしの夫の身分じゃいろいろ不利なことがあるのは仕方がないわね』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.81」新潮文庫 一九九二年)
洗濯女には身分の低い廷吏を務める夫がいる。また女の住んでいる部屋について、「開廷日には部屋を空けるっていう約束で」借りているに過ぎないとのこと。さらに前の日曜日、会場に転がり込んで男と抱き合い一騒動起きた際、抱き合っていた相手の男は夫ではなく一人の大学生だという。なぜ相手が大学生だったのか、女はこう説明する。
「『わたしを知ってる人はみんなわたしを許してくれるわ』、と女は言った、『あのときわたしを抱きしめた人は、せんからずっとわたしを追っかけまわしてるのよ。だいたいわたし男を迷わすような女じゃないのに、それがあの男にとってはそうなのよ。でも、これには防ぎようがないわね、夫もこのことには観念してるわ。地位を守ろうとしたら我慢しなきゃならない、なぜって、あの男は大学生で、将来きっと偉くなるんでしょうから。あの男はしょっちゅうわたしの尻(しり)を追いまわしていて、あなたがくるちょっと前に出てったとこだわ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.82」新潮文庫 一九九二年)
それに対してKは皮肉で答える。すると女はKの意識の動きを察したかのようにこう問いかける。
「『あなたはここでなにか改革しようとしてるんじゃない?』、と女はゆっくりと、試すようにきいた、まるで彼女にとってもKにとっても危険なことを口にするというように、『それはもうあなたの演説からわかってたわ、あれはわたし個人にはとてもいい演説だったけど。でもほんの一部しか聞けなかった、初めのほうは聞きもらしたし、終りのことはあの大学生と床に転がってたから。ーーーここはまったくいやなとこだわ』、と彼女はしばらく間をおいて言って、Kの手をつかんだ、『改革の実現に成功すると思ってるの?』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.83」新潮文庫)
もとよりKは改革など思いも寄らない。とはいえ社会人として十分な経験を積んできたKにとって、少しでも洗濯女のためになり、そのことでK自身の助けにも繋がるような程度のことならまったくできない相談ではない。女は「どうしたらそんなことができるの?」と訊ねる。Kはいう。「たとえばあの机の上の本を見せてくれること」がそうだと。女はそんなのお安い御用だとばかりにKを演壇まで引っ張っていき、机の上の本を見せてくれた。ほんのつきさっきは禁止されているので駄目だと言ったばかりのはずだが。しかし今の埃っぽかったりじめじめしていたりしてプライバシー一つない惨めな境遇から抜け出せるかもしれないという彼女の欲望が前言をあっさりひっくり返した。Kは机の上に置かれていた予審判事の書籍類に目を通す。そしてほとんど絶望的なまでにがっかりする。
「『なんて汚いんだここじゃ何も彼(か)も』、とKは頭をふりふり言った、女はKが本に手を出すまえに、前掛けで、少くとも上っつらの埃(ほこり)だけははらいのけた。Kが一番上の本を開くと一枚のいかがわしい絵があらわれた。男と女が裸で寝椅子(ねいす)に腰をおろしている絵で、絵描(えか)きの卑(いや)しい意図ははっきりと見てとれたが、絵があまりにも拙劣なので、結局は要するに一人の男と一人の女がーーーあまりにもからだばかり画面からとび出していて、極度にしゃっちょこばって坐(すわ)っていて、誤った遠近法のためにやっとのことで並んで向きあっている男と女が、見てとれるというだけのものであった。Kはそれ以上めくるのをやめて、二冊目の本は扉(とびら)だけ開けてみた、それは『グレーテが夫ハンスより受けし苦しみ』という題名の小説だった。『これがここで学ばれる法律書というわけだ』、とKは言った、『そんな人間どもにぼくは裁かれるってわけだ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.84」新潮文庫)
なぜKはがっかりするのか。Kの頭の中には固定観念という厄介なものが居座っている。法廷に置いてあるからには法律書であるに違いないという固定観念が。絶望的なのはむしろ逆にKが持っているこの固定観念の側である。Kの固定観念がKを常に見誤らせる。この箇所では法律書があると思っていたまさにその場所に三文ポルノ雑誌が乱雑に置かれている。ところがそれでこそ<法>の<法>たる意義なのだ。<法は欲望である>。法律書が置かれていてしかるべき場所に扇情的ポルノ雑誌が置かれている。そしてそれらは予審判事の所有物である。<法は欲望>である以上錯覚などどこにもない。<法>のあるところにはどこにでも<欲望>があるのだ。言い換えれば「判例六法」と「ポルノ雑誌」とは置き換えることができる。ただ単に見た目だけが異なるというばかりのことで、実質的にはどちらも欲望のせめぎ合いの記録にほかならないからだ。身に覚えのない罪で逮捕されたKはその瞬間すでにそのことに気づいていなくてはならなかった。
なるほどKはヘーゲル弁証法の通りに生きてきて現在の地位を手に入れたと思っているしそのことに間違いはない。しかし実際のヘーゲルであれば<法>のあるべきところに<欲望>があると見てとるやすぐさま事情を理解し飲み込みさらなる弁証法を措定しただろう。ところがKには、もう一歩、二歩と、どんどん思考を押し進めていく<力への意志>が欠けている。その違いに気づいた読者は、Kは所詮平凡な社会人でしかない、という限界を嫌でも認めざるを得ない。だからといって自分の凡庸さから脱するために貨幣で他人を買収してのし上がろうと考えたりすれば、それこそ<法>の側は狂喜乱舞しつつ急速にその人物のすぐそばに新たな<欲望>を出現させ待機させるだろう。そして実際に貨幣がばら撒かれた瞬間、<法の欲望>はその人物と法的機関とを接続させ、もはや切り離せない立場へ回収する。とはいえ、なるほど事情次第で一時的「放免」は与えられる。二度「放免」されることもある。だが事情の変化に応じて<法が欲望する>限り、いついかなる場合でも再逮捕・再々逮捕される。<見せかけ>でしかないが。そしてもし買収や賄賂がもっと上位に位置する高級官僚や政治家からの指示によってであれば、官僚機構や政治家だけでなく彼らと親しいすべての民間人にも狙いをつける。貨幣に関わる欲望は彼ら民間人にとってとても仲のよい友、身体の内部から湧き起こってくるまたとない友だからである。逆にヘーゲル的な<生の哲学>は意識的に思惟する<力の動き>のことを指し、その弁証法的な動きはあらゆる妥協を排除しつつ運動することをやめない。
一方の女性だが、身分の低い夫のいる身。ストーカー大学生に追い廻されていながらこの大学生が将来は夫の上司になるかもしれないと思うと、大学生の暴力的性的要求を拒否できずうんざりしている。確かに優秀な銀行員Kと将来を諦めている人妻とではあまりに立場が異なっているかのように見えはする。しかし女はKには見えていない社会が見える。彼女はKの援助者になろうと申し出る。
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「『なにか予審判事さんに伝えとくことがありますか?』、と女はきいた。『あなたは彼を知ってるの?』、とKはきいた。『もちろん』、と女は言った、『わたしの夫は廷吏ですからね』。そう言われて初めてKは気がついた、この前は洗濯(せんたく)だらいしか置いていなかった部屋が、いまはきちんと整頓(せいとん)された居間になっているのだ。女は彼の驚きに気づいて言った。『ええ、わたしたちここをただで借りてるのよ、開廷日には部屋を空けるっていう約束でね。わたしの夫の身分じゃいろいろ不利なことがあるのは仕方がないわね』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.81」新潮文庫 一九九二年)
洗濯女には身分の低い廷吏を務める夫がいる。また女の住んでいる部屋について、「開廷日には部屋を空けるっていう約束で」借りているに過ぎないとのこと。さらに前の日曜日、会場に転がり込んで男と抱き合い一騒動起きた際、抱き合っていた相手の男は夫ではなく一人の大学生だという。なぜ相手が大学生だったのか、女はこう説明する。
「『わたしを知ってる人はみんなわたしを許してくれるわ』、と女は言った、『あのときわたしを抱きしめた人は、せんからずっとわたしを追っかけまわしてるのよ。だいたいわたし男を迷わすような女じゃないのに、それがあの男にとってはそうなのよ。でも、これには防ぎようがないわね、夫もこのことには観念してるわ。地位を守ろうとしたら我慢しなきゃならない、なぜって、あの男は大学生で、将来きっと偉くなるんでしょうから。あの男はしょっちゅうわたしの尻(しり)を追いまわしていて、あなたがくるちょっと前に出てったとこだわ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.82」新潮文庫 一九九二年)
それに対してKは皮肉で答える。すると女はKの意識の動きを察したかのようにこう問いかける。
「『あなたはここでなにか改革しようとしてるんじゃない?』、と女はゆっくりと、試すようにきいた、まるで彼女にとってもKにとっても危険なことを口にするというように、『それはもうあなたの演説からわかってたわ、あれはわたし個人にはとてもいい演説だったけど。でもほんの一部しか聞けなかった、初めのほうは聞きもらしたし、終りのことはあの大学生と床に転がってたから。ーーーここはまったくいやなとこだわ』、と彼女はしばらく間をおいて言って、Kの手をつかんだ、『改革の実現に成功すると思ってるの?』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.83」新潮文庫)
もとよりKは改革など思いも寄らない。とはいえ社会人として十分な経験を積んできたKにとって、少しでも洗濯女のためになり、そのことでK自身の助けにも繋がるような程度のことならまったくできない相談ではない。女は「どうしたらそんなことができるの?」と訊ねる。Kはいう。「たとえばあの机の上の本を見せてくれること」がそうだと。女はそんなのお安い御用だとばかりにKを演壇まで引っ張っていき、机の上の本を見せてくれた。ほんのつきさっきは禁止されているので駄目だと言ったばかりのはずだが。しかし今の埃っぽかったりじめじめしていたりしてプライバシー一つない惨めな境遇から抜け出せるかもしれないという彼女の欲望が前言をあっさりひっくり返した。Kは机の上に置かれていた予審判事の書籍類に目を通す。そしてほとんど絶望的なまでにがっかりする。
「『なんて汚いんだここじゃ何も彼(か)も』、とKは頭をふりふり言った、女はKが本に手を出すまえに、前掛けで、少くとも上っつらの埃(ほこり)だけははらいのけた。Kが一番上の本を開くと一枚のいかがわしい絵があらわれた。男と女が裸で寝椅子(ねいす)に腰をおろしている絵で、絵描(えか)きの卑(いや)しい意図ははっきりと見てとれたが、絵があまりにも拙劣なので、結局は要するに一人の男と一人の女がーーーあまりにもからだばかり画面からとび出していて、極度にしゃっちょこばって坐(すわ)っていて、誤った遠近法のためにやっとのことで並んで向きあっている男と女が、見てとれるというだけのものであった。Kはそれ以上めくるのをやめて、二冊目の本は扉(とびら)だけ開けてみた、それは『グレーテが夫ハンスより受けし苦しみ』という題名の小説だった。『これがここで学ばれる法律書というわけだ』、とKは言った、『そんな人間どもにぼくは裁かれるってわけだ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.84」新潮文庫)
なぜKはがっかりするのか。Kの頭の中には固定観念という厄介なものが居座っている。法廷に置いてあるからには法律書であるに違いないという固定観念が。絶望的なのはむしろ逆にKが持っているこの固定観念の側である。Kの固定観念がKを常に見誤らせる。この箇所では法律書があると思っていたまさにその場所に三文ポルノ雑誌が乱雑に置かれている。ところがそれでこそ<法>の<法>たる意義なのだ。<法は欲望である>。法律書が置かれていてしかるべき場所に扇情的ポルノ雑誌が置かれている。そしてそれらは予審判事の所有物である。<法は欲望>である以上錯覚などどこにもない。<法>のあるところにはどこにでも<欲望>があるのだ。言い換えれば「判例六法」と「ポルノ雑誌」とは置き換えることができる。ただ単に見た目だけが異なるというばかりのことで、実質的にはどちらも欲望のせめぎ合いの記録にほかならないからだ。身に覚えのない罪で逮捕されたKはその瞬間すでにそのことに気づいていなくてはならなかった。
なるほどKはヘーゲル弁証法の通りに生きてきて現在の地位を手に入れたと思っているしそのことに間違いはない。しかし実際のヘーゲルであれば<法>のあるべきところに<欲望>があると見てとるやすぐさま事情を理解し飲み込みさらなる弁証法を措定しただろう。ところがKには、もう一歩、二歩と、どんどん思考を押し進めていく<力への意志>が欠けている。その違いに気づいた読者は、Kは所詮平凡な社会人でしかない、という限界を嫌でも認めざるを得ない。だからといって自分の凡庸さから脱するために貨幣で他人を買収してのし上がろうと考えたりすれば、それこそ<法>の側は狂喜乱舞しつつ急速にその人物のすぐそばに新たな<欲望>を出現させ待機させるだろう。そして実際に貨幣がばら撒かれた瞬間、<法の欲望>はその人物と法的機関とを接続させ、もはや切り離せない立場へ回収する。とはいえ、なるほど事情次第で一時的「放免」は与えられる。二度「放免」されることもある。だが事情の変化に応じて<法が欲望する>限り、いついかなる場合でも再逮捕・再々逮捕される。<見せかけ>でしかないが。そしてもし買収や賄賂がもっと上位に位置する高級官僚や政治家からの指示によってであれば、官僚機構や政治家だけでなく彼らと親しいすべての民間人にも狙いをつける。貨幣に関わる欲望は彼ら民間人にとってとても仲のよい友、身体の内部から湧き起こってくるまたとない友だからである。逆にヘーゲル的な<生の哲学>は意識的に思惟する<力の動き>のことを指し、その弁証法的な動きはあらゆる妥協を排除しつつ運動することをやめない。
一方の女性だが、身分の低い夫のいる身。ストーカー大学生に追い廻されていながらこの大学生が将来は夫の上司になるかもしれないと思うと、大学生の暴力的性的要求を拒否できずうんざりしている。確かに優秀な銀行員Kと将来を諦めている人妻とではあまりに立場が異なっているかのように見えはする。しかし女はKには見えていない社会が見える。彼女はKの援助者になろうと申し出る。
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