白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・新しい<援助者>レーニと「譲歩=有罪」の残酷

2022年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム
レーニがKを呼び入れたのは弁護士の書斎。部屋に「法官服を着た男の絵」が架かっている。どのように描かれているか。こうある。

「高い玉座のような椅子に坐っていて、椅子の金色が絵からきわだって見えた。ただその絵の奇妙なところは、この裁判官は落着きと威厳をもってそこに坐っているのではなくて、左腕は背と脇の凭れにしっかと押しつけているが、右腕はしかしまったく宙に浮き手先だけが脇凭れを摑(つか)んでいることで、それはまるで次の瞬間にもたぶん激昂(げきこう)して猛烈な勢いでとびあがり、なにか決定的なことを言うか、判決を下すかしようとしているかのようだった。被告はたぶん階段の足許(あしもと)にいるのだろうが、絵には黄色い絨緞をしいた階段の上の部分しか描かれていなかった」(カフカ「審判・叔父・レーニ・P.150」新潮文庫 一九九二年)

いかにも重厚長大な画風である。Kはもしかしたらこの絵の人物が自分の裁判官かもしれないと問いかける。しかしレーニはその人物について多少なりとも知っているという。そしてその絵の描かれ方は<見せかけ>に過ぎない、「作りごと」だと付け加える。

「『あの人なら知ってるわ』、とレーニは言って絵を見上げた、『ここへもよく来るのよ、若いときの絵だと思うけど、でも、あの人がこの絵にちょっとでも似てたことがあるなんて考えられないわ。なにしろまるでちびなんだから。それでも絵にはあんなふうに寸法を拡大して描かせたのよ、彼もここのみなさんと同じく見栄(みえ)っぱりなんだから。わたしだって見栄っぱりで、だからあんたに気に入られないのが非常に不満だわ』。この最後の意見にたいしKはただレーニを抱いて引きよせることで答え、彼女はおとなしく頭を彼の肩にのせた。しかし前半のことについてはこう言った。『どんな身分の人だい?』。『予審判事よ』、と彼女は言い、彼女を抱いているKの手をとって指をもてあそび始めた。『またしても予審判事か』、とKはがっかりして言った、『身分の高い役人は隠れているんだな。でもやつは玉座のような椅子に坐ってるじゃないか』。『みんな作りごとよ』、とレーニは顔をKの手の上にかがめてかがめて言い、『本当は古い鞍覆(くらおお)いをかぶせた台所の椅子に坐ってるのよ。でもあんたはそんなふうにいつも訴訟のことばかり考えてなくちゃいけないの?』、とゆっくりつけ加えた。『いや、そうじゃない』、とKは言った、『どうやらぼくはあまりにも考えなさすぎるらしいんだ』。『あんたの犯してる過ちはそれではないわね』、とレーニは言った、『わたしが耳にしたところではあんたは非常に強情なんですって』。『誰がそんなこと言った?』」(カフカ「審判・叔父・レーニ・P.151~152」新潮文庫 一九九二年)

誰が言ったかレーニは明かさない。けれどもKが巻き込まれている訴訟についてレーニはよく知っている模様だ。さらにKの性格について「非常に強情」だとされているらしい。その点ではレーニもまた「強情」な性格であることを否定しない。だがレーニはKの援助者になれるかもしれないという。Kは<援助者>の系列というべきものを頭の中で列挙してみる。「初めはビュルストナー、それから廷吏の細君、それからこの小娘」と。

「『それまで言っちゃしゃべりすぎることになるわね』、とレーニは答えた、『だから名前はきかないでちょうだい、それよりあんたの欠点を直して、これからはそんなに強情を張らないようにしたらどうなの。この裁判所にたいしてはだれも逆らうことができないのよ、みんな結局は白状してしまうのよ。この次のときはだから白状しなさいな。そうやって初めて逃れる可能性も与えられるのよ、白状して初めて。もっともそれだって他人の助けがなければできっこないけれど、この助けのことなら心配しなくてもいいわ、わたしが自分でしてあげるから』。『きみは裁判所のことも、裁判所で必要な嘘(うそ)のこともよく知ってるね』、とKは言って、彼女があまりにも強くからだを押しつけてくるので彼女を膝に抱きあげた。『このほうがいいわ』、と彼女は言って、膝の上でスカートを直したりブラウスのしわを伸ばしたりして居ずまいを直した。それから両手で彼の首っ玉にしがみつき、からだをそらし、しげしげと彼を見つめた。『するとぼくが白状しないかぎりきみは助けることができないっていうの?』とKは小当りに聞いてみた。おれにはどうも女の助力者ばかり集まるようだぞ、初めはビュルストナー、それから廷吏の細君、それからこの小娘だ、と彼はほとんどいぶかる思いで考えた。この娘はどうやらおれにたいしわけのわからぬ欲求を感じているらしい」」(カフカ「審判・叔父・レーニ・P.152」新潮文庫 一九九二年)

Kは女性の側がKに対して欲望しているのではと不審げに思う。だがしかしKは自分で自分自身の欲望についてまるで見えていない。Kの欲望の側こそが<援助者>としての<欲望の系列>をどんどん生産していっていることに気づいていない。なるほどKは大銀行の業務主任ではある。独身でもある。だからといってその社会的地位ゆえにKはただ単に漫然と若い女性たちの関心を集めていくわけでは全然ない。むしろまるで違っている。そして読者にとってこの種の違いは、間違っても見逃すわけにいかない違いである。社会的地位ゆえではまったくなく、そもそもK自身が<欲望する諸機械>の部分として社会全体の中に組み込まれている<欲望自身>である以上、<娼婦・女中・姉妹>といった若い女性たちから成る<欲望の系列>を次々と生産していくほかないのである。

レーニに訊ねられてKは愛人エルザの写真を見せることになる。「恋人かどうか」と聞かれる。Kは言葉を濁すが、あえてレーニの側から「彼女は恋人だってことにしときましょう」と一旦棚上げされる。また愛人というものについて「わたしと取り換えることになっても」と、置き換え可能性が前提されている。確かに恋愛という行為は諸商品の無限の系列のように幾らでも置き換えていくことができるわけだが。レーニは愛する相手の置き換えについて何一つ「道徳的」観点から善悪の判断を導入したりしない女性だ。そしてレーニの手には「水掻(みずか)きがついている」。爬虫類のようだ。というより<動物への意志>というべきだろう。「変身」でグレーゴルが「虫」になったように。それは人間の身体のまま同時に別の価値観の世界に生きる<他者>になるということだ。

「『じゃあ彼女は恋人だってことにしときましょう』、とレーニは言った、『でもあんたは彼女を失うとか、あるいはほかのだれか、たとえばこのわたしと取り換えることになっても、別に惜しいとは思わないんでしょうね』。『なるほど』、とKは微笑(ほほえ)んで言った、『それも考えられないことじゃない。しかし彼女はきみにくらべて一つだけ大きな長所があるんだ。つまり、ぼくの訴訟のことをぜんぜん知らないって点だよ。仮に知ったとしても彼女は訴訟のことなんか考えようともしないだろうけどね。彼女ならぼくに譲歩しろとすすめたりしないと思う』。『そんなこと長所とは言えないわ』、とレーニは言った、『彼女にそのほかの長所がないんだったらわたしは勇気をなくさないわ。どこか肉体的な欠陥はないの、その人?』『肉体的な欠陥だって?』、とKはきき返した。『ええ』、とレーニは言った、『というのはわたしにはちょっとした欠陥があるのよ、ほら』。彼女が右手の中指と薬指をひろげてみせると、そのあいだにほとんど短い指の一番上の関節まえ水掻(みずか)きがついているのだった」(カフカ「審判・叔父・レーニ・P.154~155」新潮文庫 一九九二年)

ところで「強情」はまた「残酷」を意味する。エルザについてKはこういう。「彼女ならぼくに譲歩しろとすすめたりしないと思う」。さて、「譲歩」について。「譲歩しない」とはどういう態度をいうのか。「強情」で「残酷」。レーニも自分で認めているように「強情」なのだが。ちなみにラカンはソポクレス「アンティゴネ」の「強情」で「残酷」な点について論じる。三箇所引いておこう。

(1)「アンティゴネ だってもべつに、お布令を出したお方がゼウスさまではなし、あの世をおさめる神々といっしょにおいでの、正義の女神が、そうした掟を、人間の世にお建てになったわけでもありません。またあなたのお布令に、そんな力があるとも思えませんでしたもの、書き記されてはいなくても揺ぎない神さま方がお定めの掟を、人間の身で破りすてができようなどと。

だってもそれは今日や昨日のことではけっしてないのです。この定りはいつでも、いつまでも、生きてるもので、いつできたのか知ってる人さえありません。それに対して私が、いったい誰の思惑をでも怖がって、神さま方の前へ出て、責めを追おう気を持てましょう。いずれ死ぬのはきまったこと、むろんですわ、たとえあなたのお布令がなくたって。また寿命の尽きるまえに死ぬ、それさえ私にとっては得なことだと思えますわ。次から次へと、数え切れない不仕合せに、私みたいに、とっつかれて暮らすのならば、死んじまったほうが得だと、いえないわけがどこにあって。

ですから、こうして最期を遂げようと、私は、てんで、何の苦痛も感じませんわ。それより、もしも同じ母から生まれた者が死んだというのに、葬りもせず、死骸をほっておかせるとしたら、そのほうがずっと辛いに違いありません。それに比べてこちらのほうは、辛くも何ともないことです。あなたに、私がもしも今、馬鹿をやったと見えるのでしたら、だいたいはまあ、馬鹿な方から、馬鹿だと非難を受けるのですわね」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.172~173』ちくま文庫 一九八六年)

(2)「アンティゴネ いえ、けして、私は憎しみを頒(わ)けるのではなく、愛を頒(わ)けると生まれついたもの。

クレオン そんなら、さあ、あの世へいって、是が非でも愛するならば、愛したがいい、あいつらをな。私が生きている間は、女の勝手にはさせぬぞ」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.176』ちくま文庫 一九八六年)

(3)「イスメネ お姉さまがお認めならば、いっしょの仲間で、またお咎めも頒けあいます。

アンティゴネ まあ、そんなこと正義があなたに許さないわ、あなたはいやって言ったのだし、私も仲間にしなかったから。

イスメネ でも、私、こうしたあなたの不幸にあたって、受難のおりの、道連れになるのを、けして、恥じませんわ。

アンティゴネ 誰の仕事か、冥府の神やあの世の人が、ちゃんと知っておいでだわ、口先だけの仲好しなんて、ちっとも有難くはない、私。

イスメネ お願い、お姉さま、どうか私を見下げないで、いっしょに死なせて、そいで死んだ方へのお勤めをさせて。

アンティゴネ いっしょに死ぬなんてやめてよ。手も掛けなかったことを、自分のものにしないでね。

イスメネ だって、あなたに取り残されて、どんな暮しが嬉しいでしょう。

アンティゴネ クレオンさまに訊(き)いてごらんなさい、あの方の身内だから、あなたは」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.176~177』ちくま文庫 一九八六年)

さらに(2)でアンティゴネの言葉にこうある。「私は憎しみを頒(わ)けるのではなく、愛を頒(わ)けると生まれついたもの」。この「愛を頒(わ)ける」という言葉はアンティゴネの「優しさ」を意味すると多くの人々が解釈してきた。だが単純に「優しい」だけに過ぎないとするのではなく、そもそも「愛」のあり方について二通りあるだろうとラカンはプラトン「パイドロス」を参照するよう促している。

「恋にとらわれた者が、かつてゼウスの従者であった一人ならば、翼にゆかりのある名をもつこの神(エロース)の加える重荷に、ほかの人たちよりもしっかりと堪えることができる。これに対して、アレスのしもべとして、その隊列に加わって回遊した者たちの場合は、彼らがエロースにとらえられ、その恋する相手から何か悪い仕打ちをうけたと思い込むようなとき、殺気だって、恋人をわが身もろともに、犠牲の血まつりにささげることをあえて辞さない」(プラトン「パイドロス・P.74」岩波文庫 一九六七年)

愛するということを貫徹する者たちは、「アレスのしもべ」として「恋人をわが身もろともに、犠牲の血まつりにささげることをあえて辞さない」。そして実際のところ、このタイプの人々はやたらと多い。そこでアンティゴネの側こそ「愛」を貫徹する側(英雄=ヒロイン)であり、クレオンは「二流の英雄」に過ぎないとラカンはいう。

「アンティゴネは『自律』として提示されます。それは、人間存在と、人間存在が奇跡的にその運搬者であるものとの純粋な関係です。人間存在が運搬するものとはシニフィアンによる切断であり、この切断が、人間存在は断固としてそれそのものであるという乗り越えがたい力を授けるのです。祈りとはおそらくすべてここをめぐっています。コロスが第五幕ですることはこれです。救いの神に加護を求めているのです。

その救いの神とはディオニュソスです。さもなければどうしてディオニュソスがここで言及されるのでしょうか。アンティゴネの行為、アンティゴネという人物ほどディオニュソス的なものはありません。しかし彼女は純粋欲望と呼べるものをリミットまで成就します。純然たる死の欲望そのものです。この欲望を彼女はその身に具現しているのです。

よく考えて下さい。この欲望は彼女の欲望でしょうか。それは<他者>の欲望のはずではないでしょうか。そしいて母の欲望に繋がっているのではないでしょうか。このテクストが言及しているように、母の欲望こそがすべての起源です。母の欲望は、構造のすべてを創始した欲望であり、エテオクレス、ポリュネイケス、アンティゴネ、イスメーネーという独特の子供たちを生み出しました。同時にまたこの欲望は罪の欲望でもあります。我々はこの『アンティゴネ』に、悲劇とヒューマニズムの起源に、ハムレットのそれに類似したある行き詰まりを見いだすことになります。ただし奇妙なことに、ハムレットのそれよりもっと根本的な行き詰まりです。

この両者には、いかなる媒介も可能ではありません。唯一の例外がアンティゴネのこの欲望、その徹底的に破壊的な性格です。近親相姦の婚姻の子孫は、二人の兄弟へと枝分かれしました。一方は権力を代表し、もう一方は罪を代表してします。罪を、罪の有効性を引き受ける人物はいません。アンティゴネを除いては。

この二つのあいだにあって、アンティゴネは、ただ単に罪人の存在そのものの守護者であることを選びます。ひょっとしてこうした事態は、社会共同体が二つのどちらをも許し、忘却し、これを同じ葬儀の名誉で包むことを望んでいたなら、終止符が打たれていたかもしれません。共同体がこれを拒むからこそ、家族の『アーテー』(無謀の犯した罪に対する罰として神から下される狂気、悪行、愚行、その結果としての破滅)であるこの本質的存在の維持のため、アンティゴネは自らの存在を犠牲にしなくてはなりません。これこそモティーフ、真の中軸であり、この悲劇はこれをめぐっているのです。アンティゴネはこの『アーテー』(無謀の犯した罪に対する罰として神から下される狂気、悪行、愚行、その結果としての破滅)を永続化し、永遠化し、不死のものにするのです」(ラカン「精神分析の倫理・下・21・P.176~177」岩波書店 二〇〇二年)

またアンティゴネはクレオンの側こそ「間違い」を犯してしまっていると告発する。アンティゴネはクレオンがアンティゴネを生き埋めにしようとしていることを「間違い」だと言っているのではなく、欲望に譲歩するような裏切りの態度を取ることを指して「間違い」だと述べる。次の箇所は助命嘆願などとはまるで関係がない。

「クレオン いや、もう、皆も知ってのとおり、死ぬとわかると、一人のこらず、歌だとか泣きごとだとか、いっかなきりのないものだ、言わせておくとしてのことだが。さあさっさとすぐに引っ張ってかぬか。そして命じておいたとおりに、丸天井の墓穴へ閉じこめたうえ、そのまま一人きりにしてほうっておくのだ。死ぬものにしろ、またはそうした家の中にいて生き埋めの生(よ)をおくるにしろだな。つまり私らは、この娘については、瀆(けが)れに染みたくないのだ。だが、ともかくこの世へ戻ってくる道は、なくしとくのだぞ。

アンティゴネ ああ、お墓、そこが花嫁の居間で、いつも見張りのついた掘り抜きの牢屋なのだ、そこへ今、身内の人たちと出会いに赴くところなのだわ、とても、多勢の死んでしまった人たち、その大勢を(黄泉の女王)ペルセパッサが、死人の仲間に受け入れておいでの、ーーーその最後に、私が、それもずっといちばんみじめな仕方で、降りていくのだ、まだ寿命がすっかり尽きもしないうち。それでもとにかく死んでくにしろ、確かにこうと信じていますわ、あの世へ赴(い)ったら、父さまに、可愛い娘(こ)だって言われようと、ーーーまた、お母さま、あなたにもね、それからお兄さま、あなたにも可愛い妹って。。だって、あなた方がお没(なくな)りの折、この手でもって私が、お身体(からだ)を浄(きよ)めてさしあげ、身装(みなり)を整え、お墓のうえに供養の閼伽(あか)を灌(そそ)いであげたの。こんどのことも、ポリュネイケスさま、お身体を蔽い隠してあげたというので、こんな目にあったのですわ。<でも、どうであろうと、もののわかった方々なら、私があなたに尽したことは正しかった、と言ってくれましょう。つまりは、もし私が多勢の子の母親だっても、あるいは夫が死んで、その亡き骸(なきがら)が崩れていこうと、国の人たちに逆らってまでこうした苦労を引き受ける気は出さないでしょう。そんならいったいどういう筋からこう言うのか、とお思いでしょうが、夫ならば、よしんば死んでしまったにしろ、また代りを見つけられます。また子供にしろ、その人の子をなくしたって、他の人から生みもできましょう。ところが両親ともに、二人ながらあの世へ去(い)ってしまったうえは、もう兄弟というものは、一人だっても生まれるはずがありませんもの。こういった筋からして、私はあなたにをとりわけ大切(だいじ)にしてあげたのに、それなのにクレオンさまは、これが間違い、大それた仕業ときめつけるのです。お兄さま。それで今、これから、私を無理やり、このように引っ捉(つか)まえて連れてくのですわ。婚礼の歌も聞かずに、閨(ねや)も見ず、夫婦の縁も結ばぬうち、子の養育も許されずに、このように、親しい者にも見棄てられ、みじめな運命に、生きながら、死人たちの籠る洞穴に出かけるのです>」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.194~196』ちくま文庫 一九八六年)

自己の「欲望に関して譲歩しない」アンティゴネ。ラカンはいう。

「『欲望に関して譲歩する』と私が呼ぶものは、つねに主体の運命においてなんらかの裏切りを伴うものです。皆さんもどんな症例においてもお気づきでしょう。その次元を考えて下さい。たとえば、主体は自らの道を裏切り、自らを裏切っていて、このことは彼にはっきりと解っています。あるいはもっと単純に、何かを誓い合ったり相手が裏切り、契約ーーー反逆でも逃亡でもどんな契約でもよいのです、その吉凶を問わず、暫定的な契約であれ短期間の契約であれ同じことですーーーを果たさなかったことを容認します。

人が裏切りを容認するとき、そして、善という観念ーーーこの瞬間裏切った人の善の観念と私は言いたいのですがーーーに押されて、自分自身のこだわりを捨てるとき、『こんなもんさ、我々のパースペクティヴは断念しよう、我々はどちらも、でも多分私の方が、そうたいした人間ではない、普通の平凡な道に戻ることにしよう』と納得するとき、この裏切りをめぐって何かが演じられています。ここに『欲望に関して譲歩する』と呼ばれる構造があることはお解りでしょう。

この限界、私がここで自分と他者との軽視を同じ一つの言葉で結びつけたこの限界が乗り越えられると、もはや戻ることはできません。埋め合せはできても、解約はありえないのです。このことは、精神分析が倫理的方針という領野において有効な羅針盤を我々に与えることができることを示す一つの経験的事実ではないでしょうか。

つまり私は三つの命題を提案したのです。

まず第一に、我々が有罪でありうる唯一のこと、それは欲望に関して譲歩してしまったことです。

第二に、英雄の定義、裏切られてもひるまない者です。

第三に、このような感じ方は万人の手の届くものでは決してなく、これこそ普通の人と英雄の相違です。この相違はそれと信じられているより、もっと神秘的なものです。普通の人間にとって、裏切りはほとんどつねに生じることですが、その結果として普通の人間は善への奉仕へと決定的に投げ返されます。しかしこの場合、この奉仕へと向かわせたものが本当は何であるかを見ることは彼には決してできません。

さらに申し上げましょう。善の領野、当然これは存在します。これを否定しようとするのではありません。しかしパースペクティヴを逆転させて、私は皆さんに次のことを提案します。第四の命題です。欲望への接近のため支払うべき対価ではない善はありません。というのは欲望とは、我々がすでに定義したように、我々の存在の換喩です。欲望がそこにある渓流、それはシニフィアン(記号表現)の連鎖の転調であるのみではなく、伏流として流れているのであり、これこそ本来の意味で我々がそれであるところのもの、そしてまた我々がそれでないところのものです。我々の存在、そして我々の非存在です。行為においてシニフィエ(意味されるもの)であるものが、連鎖のうちのシニフィアン(意味するもの)から他のシニフィアン(意味するもの)へと、あらゆるシニフィカシオン(意味作用)のもとで、移行しているのです」(ラカン「精神分析の倫理・下・24・倫理の諸パラドックス・P.233~235」岩波書店 二〇〇二年)

アンティゴネは「欲望に関して譲歩しない」がゆえ「英雄の定義、裏切られてもひるまない者」として自分の生をまっとうする。逆に自己の「欲望に関して譲歩した」人々は永遠に「有罪」宣告された「罪の意識」に苛まれることになる。ニーチェから二箇所。(1)は罪と神々との関係について。(2)は「良心の疾(やま)しさ」について。

(1)「『愚かさ』・『無分別』・少しばかりの『頭の狂い』、これだけは最も強く、最も勇敢な時代のギリシア人といえども、多くの凶事や災厄の原因として《許した》ーーー愚かさであって、罪では《ない》のだ!諸君にはそれがわかるかーーーしかしこの頭の狂いすらも一つの問題であったーーー『そうだ、そんなことが一体どうして可能なのか。それは一体どこから来たのか。《われわれ》高貴な素性(すじょう)の人間、幸福な人間、育ちのよい人間、最もよい社会の人間、貴族的な人間、有徳な人間のもっているような頭に?』ーーー数世紀にわたってあの高貴なギリシア人は、自分の仲間の一人が犯した合点の行かぬような悪虐無道に面する度ごとにそう自問した。『きっと《神》が瞞(だま)したのに違いない』とついに彼は頭を振りながら自分に言ったーーーこの遁辞はギリシア人にとって《典型的なもの》だーーーこのように当時の神々は、人間を凶事においてさえもある程度まで弁護するに役立った。すなわち、神々は悪の原因として役立ったーーー当時の神々は罰を身に引き受けないで、むしろ《より高貴なもの》を、すなわち罪を身に引き受けたのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・二三・P.113」岩波文庫 一九四〇年)

(2)「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫 一九四〇年)

例えば原発立地自治体が受けとっている豊富な交付金について。原発なしで暮らしていきたいという欲望を貫徹しようとすればアンティゴネのように「国家的排除項」とされる。驚くべき行政。他の自治体は交付金なしで途方もない生活環境ーーー打ち続く過労死・何日も同じ服を着たままの幼少期・早い時期からバイトに明け暮れる日々・教育格差・進学断念・就職格差・誕生日パーティや結婚式や葬式一つ出せないような状況ーーーの中で困難とともに生活している。逆に「譲歩すれば」一時的だが金銭的に楽にはなる。けれども都道府県の他の自治体のどこへ行っても「原発交付金でぬくぬくと育ってきた世間知らずな人間」という烙印は一生消えないし消すこともできない。同時に「譲歩した」自己意識は自分で自分自身の中で急成長し「良心の疚(やま)しさ」が全身に根を張り自己破滅へ向けて加速する。それが嫌ならどうすればいいのか。一方(譲歩しない場合)は<国家的排除>が待ち構えておりもう一方(譲歩した場合)は<自己破滅的有罪性>が待ち構えている。関連大型スポンサーを持つマスコミも行政も何一つ助けてはくれない。ひどい精神的ダメージや様々なダブルバインド(板ばさみ)がじわじわ忍び寄り吊し上げ、あたかも殺害装置のように日に日に締め付けを強化していくばかりである。まだ原発がなかった頃すでにこの種の殺害装置の逆説性についてカフカは短編「流刑地にて」を書いた。

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