Kの審理は日曜日に行われると伝えられた。短期間でかなり頻繁に行われるとこと。というのは、訴訟というものはできるだけ速やかに済ませていかなければならないと同時に過失があってはならないし、だからといって延々と長引かせるわけにもいかないため、短いあいだに次々と審理を継続するという方向で決したからである。なお審理の日として日曜日が選ばれたのはKの日常業務の邪魔にならないようにするための配慮からである。Kはそれを電話で知らされた。Kが出頭すべき場所の住所を見ると遠く離れた郊外の建物のようだ。そして日曜日になり、電話で伝えられたとおり、Kは出かけていった。
裁判所というからにはそれなりに目立つ建物を予想していたK。だが指定された住所へ行ってみるとそれらしき建物は一つも見あたらない。
「建物はきっとなんらかのしるしによって、あるいは入口前の特殊な人の動きによって、きっと遠くからでもすぐ見分けがつくんだとう、と彼は考えていた。ところがそれがあるはずのユーリウス街は、Kがいま一瞬そのとば口に立止まってみたところでは、両側ともほとんど完全に同じような家々がーーー高い、灰色の、貧しい人びとの住む賃貸住宅ばかりがーーー並んでいるだけだった」(カフカ「審判・最初の審理・P.60」新潮文庫 一九九二年)
とりあえずKは通りの奥へ進んでいくことにする。どれほど歩いたかわからない。ユーリウス街の入口からかなり遠くまで歩いた気がする。ようやく目指す建物が見えた。それは「異常なくらい間延びした家で、とくに出入口が高くて広かった」。Kは審理が行われる部屋へ行こうする。しかしよく見ると建物の中には複数の階段がありさらに複数の中庭があり、どうやって審理室へ行けばよいのか一向にはっきりしない。そこで出した答えは、「裁判所は罪によってひきつけられるというのなら、そこからひき出される結論は、審理室はまさにKが偶然選んだこの階段になければならぬ」という監視人ヴィレムの言葉からの類推だ。
「Kは審理室にいこうと階段のほうに向きなおったが、しかしまた立止まってしまった、というのは、この階段のほかに中庭にはまだそれぞれちがう階段が三つもあるのが目に入ったからで、そのうえ中庭の奥にある小さな通路は、さらに第二の中庭に通じているらしかった。彼は部屋の位置をもっとくわしく教えておいてくれなかったことに腹を立てた。こういう彼の扱い方にはなにか奇妙に怠慢でいい加減なものがあって、これは声を大にしてはっきり言ってやらねばならぬと彼は決心した。けれども結局彼はその階段を上っていって、上りながら頭のなかで監視人ヴィレムの言葉を思い出してもてあそんだ、彼の言うように裁判所は罪によってひきつけられるというのなら、そこからひき出される結論は、審理室はまさにKが偶然選んだこの階段になければならぬわけではないか、と」(カフカ「審判・最初の審理・P.62」新潮文庫 一九九二年)
Kは監視人ヴィレムの言葉を思い出している。
「『おれたちの役所は、おれの知るかぎり、といってむろん一番下の階級しか知らないが、住民の中に罪を捜したりはしない、そうじゃなくて、法律にもあるとおり、いわば罪にひきつけられておれたち監視人を派遣せずにいられなくなるんだ』」(カフカ「審判・逮捕・P.18~19」新潮文庫 一九九二年)
ところが<司法は欲望だ>というのはKが考えているようなものではまるでない。ヴィレムのいうとおり、司法当局はKのところへ監視人を「派遣」するか、少なくとも任意の誰かを監視人へ「変換」してしまうのであって、司法自身が歩いてKのところへやって来るわけでは全然ない。そもそも確固たる司法というものがあって、そしてそれがてくてくと街中を歩き廻るわけだろうか。誰かそれを見たことがあるだろうか。
ともかく建物はわかった。次にKは「異常なくらい間延びした家」のどこに目指す審理室があるか探し出さねばならない。そこでKは「指物師ランツの部屋を探している」という口実を作って建物を探索することにした。そうすれば各々の部屋の中を覗き込んで特定することができるだろうという魂胆である。しかしKが各々の部屋の中を覗き込む行為は<追いかけられている側>ではなく逆に<追いかけている側>の行為にならないだろうか。ここでKは思いがけず自分の側こそ司法化していることを忘れてしまっている。読者にとって面白いのは指物師ランツの部屋を尋ねてどんどん階段を上って歩くKに対する住人たちの反応だ。「指物師だがランツという名ではない人のことを言ってみたり」、「隣人にきいてみてくれたり」、「とんでもなく離れたドアまで案内して、自分の考えだが、ここならそんな男がもしかすると又借りしているかもしれぬ」とか、「ここには自分より事情にくわしい者が住んでいると言う」。とうとうKは建物の六階まで来てしまった。この箇所で決定的な役割を演じるのは<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する「洗濯女」のいともさりげない一言である。
「六階にかかる前で彼は探索を放棄しようと決心し、彼をさらに先へ案内しようとしていた若い親切な労働者に別れを告げて、下へおりだした。それからしかし、この企て全体の何の役にも立たなかったことに腹が立って、彼はもう一度引き返し、六階の最初のドアをノックした。彼がその小さな部屋で見た最初のものは、すでに十時をさしている大きな掛時計だった。『ランツという指物師はこちらですか?』、と彼は聞いた。『どうぞ』、と黒い輝く目をした若い女が言った、そしてちょうど子供の下着を洗濯だらいで洗濯していたところだったので、その濡(ぬ)れた手で隣室のあいているドアを指さした」(カフカ「審判・最初の審理・P.64」新潮文庫 一九九二年)
部屋の中は超満員で立錐の余地もないほど。Kの目には何かの政治集会のように見える。二つの党派があるらしく、一筋の細い道を境界線として右側と左側とに分かれているらしい。ひしめき合う群衆のどこをどう行けばいいのか迷っていると一人の少年がKの手をつかんでホールの反対側の端に置かれた演壇まで案内してくれた。予審判事はそこにいた。「城」で少年ハンスがKの手をつかんで小学校から離れたところへ移動させ、他の家々や村の事情について語ってくれたシーンに瓜二つだ。
予審判事はノートを手にとってKの審理に入った。そしていう。
「『それでは』、と予審判事は言って、ノートをめくり、確認するといった口調でKのほうを向いた。『たしか塗装職人だったね?』。『いや』、とKは言った、『ある大銀行の業務主任です』。この返答に応じて下の右の党派にどっと笑い声が起って、それがあんまり愉快そうだったので、Kもつられて笑わずにいられなかった。人びとは両手を膝(ひざ)につっぱって、ひどい咳(せき)の発作に襲われたときのように身を慄(ふる)わせて笑った」(カフカ「審判・最初の審理・P.68」新潮文庫 一九九二年)
いきなりだが何ともふざけた審理だ。しかしこの「笑い」には注意しなくてはならない。「笑い」にもいろいろあるけれども、ここでの「笑い」についてカフカは「人びとは両手を膝(ひざ)につっぱって、ひどい咳(せき)の発作に襲われたときのように身を慄(ふる)わせて笑った」と書いている。カフカ自身の持病だが「緊張症」が上げられる。身体が直線的に硬直したりひきつったりする症状。また「ひきつった笑い」にはいつも何か過剰かつ絶望的なものがある。さらに人々の「ひどい咳(せき)」はなぜか「発作的」である。人々は自らの笑いに硬直し自らの笑いに戦慄している。
ところがKはあまり動じない。むしろ混沌たるこの状況を自分の有利になるよう利用しようと考える。ここでKは騒然たるこの場を乗り切る手段としてヘーゲル弁証法的行動を選択する。それが最も有効であるように思われるからだ。
「この運動の出発点となり、この運動を支える《根拠》は、人倫の国であるが、この運動を《はたらかせる》のは、自己意識である。《人倫的》意識であるとき、この自己意識は、人倫的本質を《単一に純粋に目指している》、つまりそれは《義務》である。そのときは、立法することも査法することも断念されるゆえ、自己意識には恣意もなければ、戦いも不決断もなく、人倫的本質は、自己意識にとり直接的なもの、動揺なきもの、矛盾なきものである。だからそこには、激情と義務の衝突のうちにある愚かしい劇が、演じられるわけではないし、義務と義務の衝突のうちに在る喜劇が、演じられるのでもない。ーーーこれは内容の上から言えば、激情と義務の間の衝突と同じものである。なぜならば、意識が、その直接的な実体的な本質〔実在〕態から、自己にひきかえしている場合には、義務は、形式的な一般者となっており、これには、前に示したように、どんな内容でもうまく当てはまるため、激情はまた義務とも考えられうるからである。だが喜劇的であるのは、義務相互の衝突である。というのも、この衝突は、矛盾を、つまり《相対立する絶対的なもの》が、矛盾しているという絶対的なことを表わしており、そのままで、いうところの絶対ないし義務が空しいことを、表わしているからである。ーーーだが、人倫的意識は、自分のなすべきことを知っており、それが神々のおきてのものであるか、人間のおきてのものであるかは、すでに決まっている。このように、この意識は、そのままで決まっているから、《自体》存在なのであり、したがって、われわれが見てきたように、同時に自然的存在という意味をもっている。この自然は、観察の場合のように、環境ないし選択の偶然ではないから、一方の性に一方の法則を、他方の性に他方の法則を割り当てる。ーーー逆に言えば、両方の人倫的威力自身は、両方の性において自ら個的定在をえて、実現されるのである。
さて一方では、人倫は、本質的にはこの直接的な《決定》のうちにおり、したがって意識にとっては、一方の法則《だけ》が本質であるが、他方では、二つの人倫的な威力は、ともに意識の《自己》のうちに現に在る。このため二つの威力は互いに《排斥》し合い、互いに《対立し合う》という意味をもっている。ーーー両威力は、人倫の《国》にいるときは、《自体的》〔潜在的、即自的〕であるが、意識されるようになると、《自分だけ》〔自覚的、対自的〕になる。人倫的意識は、両威力のどちらか一方に《決められて》いるため、本質的には《性格》である。意識からみれば、両者が同じように《本質》であるわけではない。だから対立が現われるときには、義務は、ただ不正な《現実》とだけ衝突して、《不幸》に陥ることになる。人倫的意識は自己意識となるとき、このように対立する、そしてそういうものとして、同時に、対立する現実を、自らの帰属するおきてに、暴力的に従属させるか、あるいはその現実をだますかする。意識は、一方の側にだけ正義を、だが他方の側には不正を見るのだから、両方のうちで、神々のおきてに帰属する意識〔アンティゴネ〕は、他方の側に人間〔クレオン〕の偶然な《暴力》を見てとることになる。だが、人間のおきてに割り当てられた意識は、他方の側に、内にこもった自立存在〔対自存在、自独存在〕の利己心と《不従順》を見てとる。というのは、政府の命令は、白日のもとにある公開の一般的なこころであるのに、もう一つのおきての意志は、内にとじこもった地下のこころであり、これは、定在となるとき、個別者の意志として現われ、前者のこころと矛盾に陥り、不法となる。
こうして、実体のうちに《意識的なもの》と《無意識的なもの》の対立があったように、意識には、《知られたもの》と《知られていないもの》との対立が、生じてくる。そして人倫的《自己意識》の絶対的正義は、《本質》たる神々の《正義》と争うことになる。意識である限り、自己意識にとっては、対象的な現実はそのままで本質をもっているが、その実体から言えば、この自己意識は、自己とこの対立者の統一であり、人倫的自己意識は実体の意識である。それゆえ対象は、自己意識に対立するとき、自ら本質をもつという意味を、全く失っている。対象がただ《物》にすぎないような領域〔知覚や観察など〕も、意識が何かを自分から固定させ、個々の契機を本質としているような領域〔こころ、徳、誠実など〕もともにすでに消えてしまっている。このような一面性に対抗して、現実は、自己自身の力をもっており、真実と結んで意識に対抗し、意識に対して真実が何であるかを、いま初めて表わすのである。だが人倫的意識は、絶対的実体の盃をのみほして、自立存在〔対自存在〕やその目的や、それに固有な概念などの一面性を、忘れてしまっており、そのため同時に、対象的現実自身の全本質や自立的な意味を、このステュクスという地下の河で、溺れさせてしまっている。それゆえ、人倫的意識の絶対的正義は、人倫のおきてに従って行為するとき、この実現のうちに、このおきてそのものの遂行だけを見つけ、それ以外のものを見つけないということであり、行為の結果が、人倫的行為以外には、何も表わさないということである。ーーー人倫的なものは、絶対的《本質》であると同時に、絶対的《威力》であるから、自らの内容が顚倒することには、どうしても堪えられない。けれども、個人性は人倫的意識として、一面的な自立存在〔対自存在〕を捨てて、この顚倒を断念してしまっている。また逆に威力だけの場合には、それが、まだそれだけで存在しているような有〔対自存在〕であるとすれば、本質の方から顚倒されることになるであろう。しかしこれとちがい、統一があれば、その統一のゆえに、個人性は、内容となっている実体の純粋形式であり、行為は、思想から現実への移行であり、本質のない対立の運動として、つまり、その両契機が互いに異なった特殊な内容と本質を、何ももっていないような対立の運動として、在るにすぎない。それゆえ、人倫的意識の絶対的正義は、《行為の結果》、つまり己れの《現実》の《形態》が、己れの《知って》いるものにほかならないということである。
しかしながら、人倫的存在者は、自ら二つのおきてに分裂してしまっており、意識は、おきてに対し分裂のない態度をとるから、一方のおきてにだけ割りあてられている。この《単一な》意識が絶対的正義を断乎として主張し、人倫的意識としての自分には、本質が、《自体的に》〔本来、即自的に〕在る通りに《現われ》ているという場合には、この存在者は、自らが《実在である》と、つまり二重のものであると、断乎として主張していることになる。だが同時に、存在者のこの正義は、どこか別のところに在るかもしれないという形で、自己意識に対立しているのではなく、自己意識自身の本質なのである。この存在者はこの自己意識のなかにのみ、自らの定在と威力をもっており、対立するようになるのは、《自己意識》がはたらいた《結果》である。なぜならば、自己意識は、自己であると自ら知って実行に進んで行く、まさにそのとき、《単一の直接〔無媒介〕態》の外に出て、自ら《分裂》を立てるからである。自己意識は行為の結果、直接的真実を単一に確信している人倫、という規定態を捨てて、自己自身を、はたらくものとしての自己と、自己にとって否定的な対立的現実とに分裂させる。こうして自己意識は行為の結果、《罪責》を負うこととなる。というのは、それが自分の《行為》であり、この行為は、最も自己的な自分の本質だからである。しかもこの《罪責》は、また《犯罪》という意味をもっている。なぜならば、この自己意識は、単一な人倫的意識として、一方のおきてには向うが、他方のおきては拒絶し、これを、自分の行為の結果、侵すからである。ーーーこの《罪責》は、《現に》白日のもとにある行為の結果が、罪責自身の《行為》でもありうるし、そうでなくもある、というような、どちらともとれる曖昧なものではない。あたかも、行為が、行為のものではないような外的なものや、偶然のものに結びついており、この点から言って、罪責がないかもしれない、というようなものでもない。そうではなく、行為は、自分を自分で立て、これに対立して自分に縁のない外的な現実を立てるという、この分裂に自ら陥っている。つまり、このような現実が在るということは、行為自身に具わったことであり、行為によってのことである。だから罪責を負うていないのは、石が存在しているような形で、行為をしないということであるが、子供の存在などというものでは決してない。ーーーだが、内容から言えば、人倫的《行為》は、自分で犯罪という契機をもっている。そのわけは、両性に二つのおきてを、《自然的に》割り当てるのを止めないで、むしろ、《分裂のない形で》、おきてを目指し、《自然的直接態》のなかに止まっていながら、行為するときには、存在者の両側面の一方だけをつかみ、他方に対しては否定的な態度をとる、つまりそれを侵すという一面的なことをやって、罪責を負うからである。一般的人倫的な生活において、罪責と犯罪、行為と行動がどこに帰するかは、後になってもっとはっきりと言われるであろう。だが、行為をして罪責を負うのが、《この個人》ではないということだけは、すぐわかることである。なぜなら、この個人は、《この》自己としては、非現実的な影にすぎないからである。言いかえれば、個々人は一般的自己としてのみ存在し、個人性はただ《行為》一般の《形式的》契機であり、内容はおきてや習俗であり、特に個々人にとっては、自分の身分のおきてや習俗である。個々人は類としての実体であるが、この類は規定されるとき、種にはなるけれども、この種は同時にそのまま、類という一般者である。民族のうちにあるとき、自己意識は一般者から特殊性に下るだけで、個別的個人性までは下って行かない、つまり、排他的自己を、自らの行為において自らを否定する現実を、立てるような個人性までは下らない。そうではなく、自己意識は自らの行為の基礎に、全体に対する確かな信頼〔『法哲学』一四七節〕をおいており、ここには、縁なきものは何もなく、恐れも敵対関係も混じってはいないのである。
さて、《現実的》行為の本性が展開するとどうなるかは、人倫的自己意識が行ってみて、初めて経験することである。これは、神々のおきてに従った場合でも、人間のおきてに従った場合でも同じである。この自己意識にとって明らかなおきては、本質的には、対立したおきてと結びついている。本質は両者の統一である。だが行為の結果、一方を他方に対立させることになってしまったのである。といっても、本質的には反対のものと結びついているのだから、一方を果たせば他方が呼び起される。そして行為の結果、他方は、侵されたもの、ここに至って敵意をもつようになったもの、復讐を求めるものとなったのである。行為においては、もともと、決意の一方だけが明るみに出る。だがこの決意とても、《自体的には》否定的なものであり、自分の他者と、知である自分に無縁なものと対立している。だから現実は、知に無縁な他方の側面を自分のなかに隠している。現実がそれ自体に自分である通りのものを、意識に示さない。ーーーだから息子に対しては、自分を侮辱したもの、自分の殺したものが、父親であることを示さないし、ーーー自分が妻として娶(めと)った女王が母親であることを示さない〔『オイディポス王』〕。こうして人倫的自己意識の後をつけているのが、光を厭(いと)う威力である。これは、行為が起ったときになって初めて噴き出してくる。そして自己意識の行為をとらえる。というのも、行為が果たされると、知っている自己とこれに対立する現実との対立は、廃棄されているからである。行為するものは、犯罪とその罪責を否認することはできはない。ーーー行為の結果、動かないものが動くようになり、まだやっと可能態にとじこめられていたにすぎないものが、現われるようになり、そのため、意識していなかったものが意識されたものと、存在しないものが存在と、結びつけられるようになったのである。だからこういう真実態のなかに、行為の結果が白日に照らされて出てきたのである。ーーー意識的なものが無意識的なものに、自分のものが見知らぬものに、結びついた形で、また、意識は他方の側を同時に自分のものとして経験するが、この他のものは、その意識によって侵され、敵対的な態度をとって起ってきた威力であるが、そういう分裂したものの形で、白日に照らされているのである。
待ち伏せをしていた正義が、それ独特の形をとって、行為する《意識》に対して、存在しているのではなく、《自体的に》、決意と行為のうちにこもった罪責の形でのみ、存在している、ということもありうる。だが、人倫的意識が、おきてと自分の対抗する威力とを《前もって知って》おり、その威力を、暴力であり不正であり人倫的偶然であると考え、アンティゴネのように、それと知って罪を犯す場合には、その人倫的意識は一層完全であり、その罪責も一層純粋である。だが行為が果たされると見解を顚倒してしまう。つまり《遂行すること》は、《人倫的》であるものが《現実的》であらざるをえないことを、自ら言い表わしている。というのも、目的の《現実性》は行為の目的だからである。行為は、実に《現実》と《実体》の《統一》を言表しているのであり、現実が本質にとって偶然なのではなく、現実が本質と結びついていれば、真の正義でないようなものには、現実性が与えられないと、言表しているのである。そこで人倫的意識は、自分に対立しているものを、いま言った現実ゆえに、また自分の行為のゆえに、自分の現実であると認め、自分の罪責であると認めざるをえない。<われら負い目あるにより、とがめあるをうけがう>。
この承認は、人倫的な《目的》と《現実》との分裂が廃棄されていることを言い表わし、正義以外には、何ごとも認められないのだ、と知っている人理的《心情》に帰っていることを、言い表わしている。だがこれと同時に行為するものは、自分の《性格》と自分の自己の《現実》とを断念し、亡びてしまっているのである。行為者の《存在》は、自分の実体である人倫的なおきてに帰属している、ということである。が、対立者を承認するようになった以上、このことは自分の実体ではなくなっている。そこで、行為者は、自分の現実をうる代りに、心情という非現実に達したことになる。ーーーなるほど実体は個人性に《おいて》は、その《パトス》として現われ、個人性は実体を生かし、それゆえ実体を超え出るものとして現われはする。が、実体は、同時に個人の性格であるようなパトス〔ルカッチ編『美学』〕である。つまり人倫的個人性は、そのままで自体的に、自らのこの一般者と一つであり、その現実存在を、この一般者のうちにのみもっており、この人倫的威力が、対立する威力に出会って受ける没落を超えて、生きのびることはできない。
だがそのさい、この個人性は、自分と反対の威力をパトスとしている個人性の方も〔クレオン〕、《与えた禍より以上の禍》を受けることは《ない》と確信している。人倫的な二つの威力相互の、またこの威力を命として行為に移す個人性相互の動きは、両方が同じように没落を経験するときに至って初めて、《真の終局》に達するのである。というのも、両方の威力のどちらも、実体のより《本質的》な契機であるために、他方に優先して、何かをもっているわけではないからである。だが両方が等しく本質であり、相並んで無関係に存立しているとすれば、両方とも自己のない存在だということになる。つまり、《行為を果たした》ときには、ともに自己存在であるが、異なったものであり、そのため自己という統一に矛盾するもの、自己が正義を失って当然没落して行くものである。また《性格》にしても、一面では、そのパトスまたは実体から言って、一方だけのものであるが、また他面では、知という側面からすれば、一方も他方もともに意識と無意識に分裂している。各々は、自らこの対立を呼びおこすから、そして行為の結果、知らなかったものでも自分の仕事になるのだから、自分を亡ぼす罪責に、落ちこんで行くことになる。だから、一方の威力とその性格が勝って、他方が負けるのでは、仕事は部分にすぎず、完成されたことにはならない。仕事は、両方が均衡をうるまで進んで行き、止まることがない。両側面がともに屈服したとき初めて、絶対的正義が果たされたのであり、両側面をのみこむ否定的威力としての、言いかえれば、全能で公正な《運命》としての人倫的実体が、登場しているのである。
二つの威力は、その一定の内容とその個体化の上から考えるならば、形をえて対抗像をもつことになる。この像は、その形式的な面からみるとき、人倫および自己意識と、無意識的自然およびこれによって存在する偶然とが、対抗しているという形をとって現われる。ーーーこの無意識的自然が、自己意識に対抗して権利を主張するのは、この場合の自己意識〔無意識的自然〕が、その実体と《無媒介に》一つになっている、《真の》精神〔真であるがまだ直接的で自然的で無媒介であるの意〕であるからにほかならない。ーーー内容の面からみるとき、その像は、神々のおきてと人間のおきてに、分裂したものとなって現われる。ーーーそれはさて、若者は無意識的なものから、家族の精神から外に出て、、国家共同体の個人態〔主権者〕となる。だがこの若者が、まだ、自分のふり離してきた自然に帰属していることは、二人の兄弟〔エテオクレスとポリュネイケス〕という偶然な形をとって現われ、同等の権利で、同じもの〔国家〕をわがものとしようとすることから証明される。先に生れたとか後で生れたとかいうちがいは、自然の区別であるから、人倫的なもののなかに入ってきた《二人にとっては》、少しも意味がない。だが民族精神の単一なこころないし自己としての政府は、個人態が二つであることではすまされない。そこで政府は、一つであることが人倫的に当然なのだから、偶然にも複数である自然は、そのことに対立して現われることになる。だからこの二人は一つにはならない。国家権力に対する二人の同等の権利は、二人を破壊することになり、二人はともに不正を犯すことになる。だが人間のおきてからみると、相手が先頭に立っていて、自分には《所有権のない》国家共同体を攻撃する方は、犯罪を犯したことになる。これに対し、相手を、国家共同体から離れた《個別者》にすぎないものと、受けとることを心得ており、そういう無力な状態に追放する方は、自分の側に正義をもっている。つまりこちらは、個体そのものを侵しただけであって、相手方を、つまり人間的権利をもった存在者を、犯したのではない。国家共同体は、空しい個別態から攻撃を受けたり、護られたりすることがあるにしても、自分では存続して行く。そこで兄弟は、ともに違いの手で互いの没落に出会うことになる。なぜならば、《自分の自立存在〔対自存在〕に》、全体の危険をかけているような個人は、自分を国家共同体からつきはなし、自分のなかで解決することになるからである。だが、自分の味方をしてくれる一方には、国家共同体は名誉を与えるであろう。が反対に、すでに城壁にのぼって、共同体が荒廃に帰すと言った他方に対しては、国家共同体という自己を回復して単一になった政府は、最後の栄誉〔埋葬〕を剥奪して、罰を与えるであろう。共同体という、意識の最高精神に対し暴力をふるったものは、自分の存在が全く終りをつげるときの栄誉を、死に行く霊が受ける栄誉を、奪われざるをえないのである。
しかし、一般者は、そのピラミッドの頂点だけを、たやすく削りとって、個別態の反抗的原理つまり家族に対し、《勝利》をえはするものの、このためにそれは、神々のおきてとの《戦い》に、自己意識的精神は、無意識的精神との《戦い》にまきこまれたにすぎない。というのは、無意識的精神とても、他方の本質的な威力であり、そのため意識的精神によって破壊されたのではなく、ただ侮辱を受けたにすぎないからである。さらにこの精神は、白日のもとにある権力的なおきてに対抗して、血の気のない影において、その助けを《現に》実現するだけのことである。それは弱さと暗さのおきてであるから、さしあたっては、白日と力のおきてに勝てない。その権力は地下では通用するが、地上では通用しないからである。けれども、内々のものからその栄誉と威力を奪いとった現実は、そのために自らの実在を喰いつくしてしまったのである。公開の精神はその力の根を下界にもっている。民族の自ら信じ自ら断言する確信が、すべての人々を一つに結ぶ誓いの真実態をもっているにしても、それはすべての人々の、無意識的な沈黙の実体のうちでのこと、忘却〔レーテー〕の流れのうちでのことにすぎない。このため、公開の精神を完遂しようとしても、その反対に移って行き、その精神は、自らの最高の正義が最高の不正であり、自らの勝利が、むしろ、自らの没落であることを経験する。それゆえ、自らの正義が傷つけられた死者は、復讐するために、自分を侵す威力と等しい現実、等しい権力をもった道具を、見つけ出すことを心得ている。そういう権力をもっているのは、別の国家共同体〔アルゴスの国〕である。この国の祭壇は、死屍を喰った犬や鳥たちのまき散らす悪臭で汚されている〔『アンティゴネ』〕。そういう形で死屍は、それにふさわしく原始的な個体〔大地〕に送り帰されて、意識なき一般に高められているのではなく、地上の現実の国に止まっており、そこでいま、神々のおきての力となって、自覚的、現実的な一般性をもつことになっている。死屍は、自らの国家共同体に敵対の態度をとって、立ちあがり、それを亡ぼす。つまり家族の敬愛という共同体の力をもっていないで、これを破壊してしまった国家共同体を亡ぼすのである〔以上『アンティゴネ』参照〕」(ヘーゲル「精神現象学・下・D精神・六・A・b人倫的行為、人間の知と神々の知、罪責と運命・P.43~57」平凡社ライブラリー 一九九七年)
そしてKは演説を始める。ところが不可解なことに事態はKの思惑通りには進まず、途中で意図していなかった闖入者によってがらりと喜劇へ転化してしまう。Kにとっては座礁でしかないが。にもかかわらず「闖入者」に何一つ罪はなく、罪の責任を問われるべき理由はなおさらない。
BGM1
BGM2
BGM3
裁判所というからにはそれなりに目立つ建物を予想していたK。だが指定された住所へ行ってみるとそれらしき建物は一つも見あたらない。
「建物はきっとなんらかのしるしによって、あるいは入口前の特殊な人の動きによって、きっと遠くからでもすぐ見分けがつくんだとう、と彼は考えていた。ところがそれがあるはずのユーリウス街は、Kがいま一瞬そのとば口に立止まってみたところでは、両側ともほとんど完全に同じような家々がーーー高い、灰色の、貧しい人びとの住む賃貸住宅ばかりがーーー並んでいるだけだった」(カフカ「審判・最初の審理・P.60」新潮文庫 一九九二年)
とりあえずKは通りの奥へ進んでいくことにする。どれほど歩いたかわからない。ユーリウス街の入口からかなり遠くまで歩いた気がする。ようやく目指す建物が見えた。それは「異常なくらい間延びした家で、とくに出入口が高くて広かった」。Kは審理が行われる部屋へ行こうする。しかしよく見ると建物の中には複数の階段がありさらに複数の中庭があり、どうやって審理室へ行けばよいのか一向にはっきりしない。そこで出した答えは、「裁判所は罪によってひきつけられるというのなら、そこからひき出される結論は、審理室はまさにKが偶然選んだこの階段になければならぬ」という監視人ヴィレムの言葉からの類推だ。
「Kは審理室にいこうと階段のほうに向きなおったが、しかしまた立止まってしまった、というのは、この階段のほかに中庭にはまだそれぞれちがう階段が三つもあるのが目に入ったからで、そのうえ中庭の奥にある小さな通路は、さらに第二の中庭に通じているらしかった。彼は部屋の位置をもっとくわしく教えておいてくれなかったことに腹を立てた。こういう彼の扱い方にはなにか奇妙に怠慢でいい加減なものがあって、これは声を大にしてはっきり言ってやらねばならぬと彼は決心した。けれども結局彼はその階段を上っていって、上りながら頭のなかで監視人ヴィレムの言葉を思い出してもてあそんだ、彼の言うように裁判所は罪によってひきつけられるというのなら、そこからひき出される結論は、審理室はまさにKが偶然選んだこの階段になければならぬわけではないか、と」(カフカ「審判・最初の審理・P.62」新潮文庫 一九九二年)
Kは監視人ヴィレムの言葉を思い出している。
「『おれたちの役所は、おれの知るかぎり、といってむろん一番下の階級しか知らないが、住民の中に罪を捜したりはしない、そうじゃなくて、法律にもあるとおり、いわば罪にひきつけられておれたち監視人を派遣せずにいられなくなるんだ』」(カフカ「審判・逮捕・P.18~19」新潮文庫 一九九二年)
ところが<司法は欲望だ>というのはKが考えているようなものではまるでない。ヴィレムのいうとおり、司法当局はKのところへ監視人を「派遣」するか、少なくとも任意の誰かを監視人へ「変換」してしまうのであって、司法自身が歩いてKのところへやって来るわけでは全然ない。そもそも確固たる司法というものがあって、そしてそれがてくてくと街中を歩き廻るわけだろうか。誰かそれを見たことがあるだろうか。
ともかく建物はわかった。次にKは「異常なくらい間延びした家」のどこに目指す審理室があるか探し出さねばならない。そこでKは「指物師ランツの部屋を探している」という口実を作って建物を探索することにした。そうすれば各々の部屋の中を覗き込んで特定することができるだろうという魂胆である。しかしKが各々の部屋の中を覗き込む行為は<追いかけられている側>ではなく逆に<追いかけている側>の行為にならないだろうか。ここでKは思いがけず自分の側こそ司法化していることを忘れてしまっている。読者にとって面白いのは指物師ランツの部屋を尋ねてどんどん階段を上って歩くKに対する住人たちの反応だ。「指物師だがランツという名ではない人のことを言ってみたり」、「隣人にきいてみてくれたり」、「とんでもなく離れたドアまで案内して、自分の考えだが、ここならそんな男がもしかすると又借りしているかもしれぬ」とか、「ここには自分より事情にくわしい者が住んでいると言う」。とうとうKは建物の六階まで来てしまった。この箇所で決定的な役割を演じるのは<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する「洗濯女」のいともさりげない一言である。
「六階にかかる前で彼は探索を放棄しようと決心し、彼をさらに先へ案内しようとしていた若い親切な労働者に別れを告げて、下へおりだした。それからしかし、この企て全体の何の役にも立たなかったことに腹が立って、彼はもう一度引き返し、六階の最初のドアをノックした。彼がその小さな部屋で見た最初のものは、すでに十時をさしている大きな掛時計だった。『ランツという指物師はこちらですか?』、と彼は聞いた。『どうぞ』、と黒い輝く目をした若い女が言った、そしてちょうど子供の下着を洗濯だらいで洗濯していたところだったので、その濡(ぬ)れた手で隣室のあいているドアを指さした」(カフカ「審判・最初の審理・P.64」新潮文庫 一九九二年)
部屋の中は超満員で立錐の余地もないほど。Kの目には何かの政治集会のように見える。二つの党派があるらしく、一筋の細い道を境界線として右側と左側とに分かれているらしい。ひしめき合う群衆のどこをどう行けばいいのか迷っていると一人の少年がKの手をつかんでホールの反対側の端に置かれた演壇まで案内してくれた。予審判事はそこにいた。「城」で少年ハンスがKの手をつかんで小学校から離れたところへ移動させ、他の家々や村の事情について語ってくれたシーンに瓜二つだ。
予審判事はノートを手にとってKの審理に入った。そしていう。
「『それでは』、と予審判事は言って、ノートをめくり、確認するといった口調でKのほうを向いた。『たしか塗装職人だったね?』。『いや』、とKは言った、『ある大銀行の業務主任です』。この返答に応じて下の右の党派にどっと笑い声が起って、それがあんまり愉快そうだったので、Kもつられて笑わずにいられなかった。人びとは両手を膝(ひざ)につっぱって、ひどい咳(せき)の発作に襲われたときのように身を慄(ふる)わせて笑った」(カフカ「審判・最初の審理・P.68」新潮文庫 一九九二年)
いきなりだが何ともふざけた審理だ。しかしこの「笑い」には注意しなくてはならない。「笑い」にもいろいろあるけれども、ここでの「笑い」についてカフカは「人びとは両手を膝(ひざ)につっぱって、ひどい咳(せき)の発作に襲われたときのように身を慄(ふる)わせて笑った」と書いている。カフカ自身の持病だが「緊張症」が上げられる。身体が直線的に硬直したりひきつったりする症状。また「ひきつった笑い」にはいつも何か過剰かつ絶望的なものがある。さらに人々の「ひどい咳(せき)」はなぜか「発作的」である。人々は自らの笑いに硬直し自らの笑いに戦慄している。
ところがKはあまり動じない。むしろ混沌たるこの状況を自分の有利になるよう利用しようと考える。ここでKは騒然たるこの場を乗り切る手段としてヘーゲル弁証法的行動を選択する。それが最も有効であるように思われるからだ。
「この運動の出発点となり、この運動を支える《根拠》は、人倫の国であるが、この運動を《はたらかせる》のは、自己意識である。《人倫的》意識であるとき、この自己意識は、人倫的本質を《単一に純粋に目指している》、つまりそれは《義務》である。そのときは、立法することも査法することも断念されるゆえ、自己意識には恣意もなければ、戦いも不決断もなく、人倫的本質は、自己意識にとり直接的なもの、動揺なきもの、矛盾なきものである。だからそこには、激情と義務の衝突のうちにある愚かしい劇が、演じられるわけではないし、義務と義務の衝突のうちに在る喜劇が、演じられるのでもない。ーーーこれは内容の上から言えば、激情と義務の間の衝突と同じものである。なぜならば、意識が、その直接的な実体的な本質〔実在〕態から、自己にひきかえしている場合には、義務は、形式的な一般者となっており、これには、前に示したように、どんな内容でもうまく当てはまるため、激情はまた義務とも考えられうるからである。だが喜劇的であるのは、義務相互の衝突である。というのも、この衝突は、矛盾を、つまり《相対立する絶対的なもの》が、矛盾しているという絶対的なことを表わしており、そのままで、いうところの絶対ないし義務が空しいことを、表わしているからである。ーーーだが、人倫的意識は、自分のなすべきことを知っており、それが神々のおきてのものであるか、人間のおきてのものであるかは、すでに決まっている。このように、この意識は、そのままで決まっているから、《自体》存在なのであり、したがって、われわれが見てきたように、同時に自然的存在という意味をもっている。この自然は、観察の場合のように、環境ないし選択の偶然ではないから、一方の性に一方の法則を、他方の性に他方の法則を割り当てる。ーーー逆に言えば、両方の人倫的威力自身は、両方の性において自ら個的定在をえて、実現されるのである。
さて一方では、人倫は、本質的にはこの直接的な《決定》のうちにおり、したがって意識にとっては、一方の法則《だけ》が本質であるが、他方では、二つの人倫的な威力は、ともに意識の《自己》のうちに現に在る。このため二つの威力は互いに《排斥》し合い、互いに《対立し合う》という意味をもっている。ーーー両威力は、人倫の《国》にいるときは、《自体的》〔潜在的、即自的〕であるが、意識されるようになると、《自分だけ》〔自覚的、対自的〕になる。人倫的意識は、両威力のどちらか一方に《決められて》いるため、本質的には《性格》である。意識からみれば、両者が同じように《本質》であるわけではない。だから対立が現われるときには、義務は、ただ不正な《現実》とだけ衝突して、《不幸》に陥ることになる。人倫的意識は自己意識となるとき、このように対立する、そしてそういうものとして、同時に、対立する現実を、自らの帰属するおきてに、暴力的に従属させるか、あるいはその現実をだますかする。意識は、一方の側にだけ正義を、だが他方の側には不正を見るのだから、両方のうちで、神々のおきてに帰属する意識〔アンティゴネ〕は、他方の側に人間〔クレオン〕の偶然な《暴力》を見てとることになる。だが、人間のおきてに割り当てられた意識は、他方の側に、内にこもった自立存在〔対自存在、自独存在〕の利己心と《不従順》を見てとる。というのは、政府の命令は、白日のもとにある公開の一般的なこころであるのに、もう一つのおきての意志は、内にとじこもった地下のこころであり、これは、定在となるとき、個別者の意志として現われ、前者のこころと矛盾に陥り、不法となる。
こうして、実体のうちに《意識的なもの》と《無意識的なもの》の対立があったように、意識には、《知られたもの》と《知られていないもの》との対立が、生じてくる。そして人倫的《自己意識》の絶対的正義は、《本質》たる神々の《正義》と争うことになる。意識である限り、自己意識にとっては、対象的な現実はそのままで本質をもっているが、その実体から言えば、この自己意識は、自己とこの対立者の統一であり、人倫的自己意識は実体の意識である。それゆえ対象は、自己意識に対立するとき、自ら本質をもつという意味を、全く失っている。対象がただ《物》にすぎないような領域〔知覚や観察など〕も、意識が何かを自分から固定させ、個々の契機を本質としているような領域〔こころ、徳、誠実など〕もともにすでに消えてしまっている。このような一面性に対抗して、現実は、自己自身の力をもっており、真実と結んで意識に対抗し、意識に対して真実が何であるかを、いま初めて表わすのである。だが人倫的意識は、絶対的実体の盃をのみほして、自立存在〔対自存在〕やその目的や、それに固有な概念などの一面性を、忘れてしまっており、そのため同時に、対象的現実自身の全本質や自立的な意味を、このステュクスという地下の河で、溺れさせてしまっている。それゆえ、人倫的意識の絶対的正義は、人倫のおきてに従って行為するとき、この実現のうちに、このおきてそのものの遂行だけを見つけ、それ以外のものを見つけないということであり、行為の結果が、人倫的行為以外には、何も表わさないということである。ーーー人倫的なものは、絶対的《本質》であると同時に、絶対的《威力》であるから、自らの内容が顚倒することには、どうしても堪えられない。けれども、個人性は人倫的意識として、一面的な自立存在〔対自存在〕を捨てて、この顚倒を断念してしまっている。また逆に威力だけの場合には、それが、まだそれだけで存在しているような有〔対自存在〕であるとすれば、本質の方から顚倒されることになるであろう。しかしこれとちがい、統一があれば、その統一のゆえに、個人性は、内容となっている実体の純粋形式であり、行為は、思想から現実への移行であり、本質のない対立の運動として、つまり、その両契機が互いに異なった特殊な内容と本質を、何ももっていないような対立の運動として、在るにすぎない。それゆえ、人倫的意識の絶対的正義は、《行為の結果》、つまり己れの《現実》の《形態》が、己れの《知って》いるものにほかならないということである。
しかしながら、人倫的存在者は、自ら二つのおきてに分裂してしまっており、意識は、おきてに対し分裂のない態度をとるから、一方のおきてにだけ割りあてられている。この《単一な》意識が絶対的正義を断乎として主張し、人倫的意識としての自分には、本質が、《自体的に》〔本来、即自的に〕在る通りに《現われ》ているという場合には、この存在者は、自らが《実在である》と、つまり二重のものであると、断乎として主張していることになる。だが同時に、存在者のこの正義は、どこか別のところに在るかもしれないという形で、自己意識に対立しているのではなく、自己意識自身の本質なのである。この存在者はこの自己意識のなかにのみ、自らの定在と威力をもっており、対立するようになるのは、《自己意識》がはたらいた《結果》である。なぜならば、自己意識は、自己であると自ら知って実行に進んで行く、まさにそのとき、《単一の直接〔無媒介〕態》の外に出て、自ら《分裂》を立てるからである。自己意識は行為の結果、直接的真実を単一に確信している人倫、という規定態を捨てて、自己自身を、はたらくものとしての自己と、自己にとって否定的な対立的現実とに分裂させる。こうして自己意識は行為の結果、《罪責》を負うこととなる。というのは、それが自分の《行為》であり、この行為は、最も自己的な自分の本質だからである。しかもこの《罪責》は、また《犯罪》という意味をもっている。なぜならば、この自己意識は、単一な人倫的意識として、一方のおきてには向うが、他方のおきては拒絶し、これを、自分の行為の結果、侵すからである。ーーーこの《罪責》は、《現に》白日のもとにある行為の結果が、罪責自身の《行為》でもありうるし、そうでなくもある、というような、どちらともとれる曖昧なものではない。あたかも、行為が、行為のものではないような外的なものや、偶然のものに結びついており、この点から言って、罪責がないかもしれない、というようなものでもない。そうではなく、行為は、自分を自分で立て、これに対立して自分に縁のない外的な現実を立てるという、この分裂に自ら陥っている。つまり、このような現実が在るということは、行為自身に具わったことであり、行為によってのことである。だから罪責を負うていないのは、石が存在しているような形で、行為をしないということであるが、子供の存在などというものでは決してない。ーーーだが、内容から言えば、人倫的《行為》は、自分で犯罪という契機をもっている。そのわけは、両性に二つのおきてを、《自然的に》割り当てるのを止めないで、むしろ、《分裂のない形で》、おきてを目指し、《自然的直接態》のなかに止まっていながら、行為するときには、存在者の両側面の一方だけをつかみ、他方に対しては否定的な態度をとる、つまりそれを侵すという一面的なことをやって、罪責を負うからである。一般的人倫的な生活において、罪責と犯罪、行為と行動がどこに帰するかは、後になってもっとはっきりと言われるであろう。だが、行為をして罪責を負うのが、《この個人》ではないということだけは、すぐわかることである。なぜなら、この個人は、《この》自己としては、非現実的な影にすぎないからである。言いかえれば、個々人は一般的自己としてのみ存在し、個人性はただ《行為》一般の《形式的》契機であり、内容はおきてや習俗であり、特に個々人にとっては、自分の身分のおきてや習俗である。個々人は類としての実体であるが、この類は規定されるとき、種にはなるけれども、この種は同時にそのまま、類という一般者である。民族のうちにあるとき、自己意識は一般者から特殊性に下るだけで、個別的個人性までは下って行かない、つまり、排他的自己を、自らの行為において自らを否定する現実を、立てるような個人性までは下らない。そうではなく、自己意識は自らの行為の基礎に、全体に対する確かな信頼〔『法哲学』一四七節〕をおいており、ここには、縁なきものは何もなく、恐れも敵対関係も混じってはいないのである。
さて、《現実的》行為の本性が展開するとどうなるかは、人倫的自己意識が行ってみて、初めて経験することである。これは、神々のおきてに従った場合でも、人間のおきてに従った場合でも同じである。この自己意識にとって明らかなおきては、本質的には、対立したおきてと結びついている。本質は両者の統一である。だが行為の結果、一方を他方に対立させることになってしまったのである。といっても、本質的には反対のものと結びついているのだから、一方を果たせば他方が呼び起される。そして行為の結果、他方は、侵されたもの、ここに至って敵意をもつようになったもの、復讐を求めるものとなったのである。行為においては、もともと、決意の一方だけが明るみに出る。だがこの決意とても、《自体的には》否定的なものであり、自分の他者と、知である自分に無縁なものと対立している。だから現実は、知に無縁な他方の側面を自分のなかに隠している。現実がそれ自体に自分である通りのものを、意識に示さない。ーーーだから息子に対しては、自分を侮辱したもの、自分の殺したものが、父親であることを示さないし、ーーー自分が妻として娶(めと)った女王が母親であることを示さない〔『オイディポス王』〕。こうして人倫的自己意識の後をつけているのが、光を厭(いと)う威力である。これは、行為が起ったときになって初めて噴き出してくる。そして自己意識の行為をとらえる。というのも、行為が果たされると、知っている自己とこれに対立する現実との対立は、廃棄されているからである。行為するものは、犯罪とその罪責を否認することはできはない。ーーー行為の結果、動かないものが動くようになり、まだやっと可能態にとじこめられていたにすぎないものが、現われるようになり、そのため、意識していなかったものが意識されたものと、存在しないものが存在と、結びつけられるようになったのである。だからこういう真実態のなかに、行為の結果が白日に照らされて出てきたのである。ーーー意識的なものが無意識的なものに、自分のものが見知らぬものに、結びついた形で、また、意識は他方の側を同時に自分のものとして経験するが、この他のものは、その意識によって侵され、敵対的な態度をとって起ってきた威力であるが、そういう分裂したものの形で、白日に照らされているのである。
待ち伏せをしていた正義が、それ独特の形をとって、行為する《意識》に対して、存在しているのではなく、《自体的に》、決意と行為のうちにこもった罪責の形でのみ、存在している、ということもありうる。だが、人倫的意識が、おきてと自分の対抗する威力とを《前もって知って》おり、その威力を、暴力であり不正であり人倫的偶然であると考え、アンティゴネのように、それと知って罪を犯す場合には、その人倫的意識は一層完全であり、その罪責も一層純粋である。だが行為が果たされると見解を顚倒してしまう。つまり《遂行すること》は、《人倫的》であるものが《現実的》であらざるをえないことを、自ら言い表わしている。というのも、目的の《現実性》は行為の目的だからである。行為は、実に《現実》と《実体》の《統一》を言表しているのであり、現実が本質にとって偶然なのではなく、現実が本質と結びついていれば、真の正義でないようなものには、現実性が与えられないと、言表しているのである。そこで人倫的意識は、自分に対立しているものを、いま言った現実ゆえに、また自分の行為のゆえに、自分の現実であると認め、自分の罪責であると認めざるをえない。<われら負い目あるにより、とがめあるをうけがう>。
この承認は、人倫的な《目的》と《現実》との分裂が廃棄されていることを言い表わし、正義以外には、何ごとも認められないのだ、と知っている人理的《心情》に帰っていることを、言い表わしている。だがこれと同時に行為するものは、自分の《性格》と自分の自己の《現実》とを断念し、亡びてしまっているのである。行為者の《存在》は、自分の実体である人倫的なおきてに帰属している、ということである。が、対立者を承認するようになった以上、このことは自分の実体ではなくなっている。そこで、行為者は、自分の現実をうる代りに、心情という非現実に達したことになる。ーーーなるほど実体は個人性に《おいて》は、その《パトス》として現われ、個人性は実体を生かし、それゆえ実体を超え出るものとして現われはする。が、実体は、同時に個人の性格であるようなパトス〔ルカッチ編『美学』〕である。つまり人倫的個人性は、そのままで自体的に、自らのこの一般者と一つであり、その現実存在を、この一般者のうちにのみもっており、この人倫的威力が、対立する威力に出会って受ける没落を超えて、生きのびることはできない。
だがそのさい、この個人性は、自分と反対の威力をパトスとしている個人性の方も〔クレオン〕、《与えた禍より以上の禍》を受けることは《ない》と確信している。人倫的な二つの威力相互の、またこの威力を命として行為に移す個人性相互の動きは、両方が同じように没落を経験するときに至って初めて、《真の終局》に達するのである。というのも、両方の威力のどちらも、実体のより《本質的》な契機であるために、他方に優先して、何かをもっているわけではないからである。だが両方が等しく本質であり、相並んで無関係に存立しているとすれば、両方とも自己のない存在だということになる。つまり、《行為を果たした》ときには、ともに自己存在であるが、異なったものであり、そのため自己という統一に矛盾するもの、自己が正義を失って当然没落して行くものである。また《性格》にしても、一面では、そのパトスまたは実体から言って、一方だけのものであるが、また他面では、知という側面からすれば、一方も他方もともに意識と無意識に分裂している。各々は、自らこの対立を呼びおこすから、そして行為の結果、知らなかったものでも自分の仕事になるのだから、自分を亡ぼす罪責に、落ちこんで行くことになる。だから、一方の威力とその性格が勝って、他方が負けるのでは、仕事は部分にすぎず、完成されたことにはならない。仕事は、両方が均衡をうるまで進んで行き、止まることがない。両側面がともに屈服したとき初めて、絶対的正義が果たされたのであり、両側面をのみこむ否定的威力としての、言いかえれば、全能で公正な《運命》としての人倫的実体が、登場しているのである。
二つの威力は、その一定の内容とその個体化の上から考えるならば、形をえて対抗像をもつことになる。この像は、その形式的な面からみるとき、人倫および自己意識と、無意識的自然およびこれによって存在する偶然とが、対抗しているという形をとって現われる。ーーーこの無意識的自然が、自己意識に対抗して権利を主張するのは、この場合の自己意識〔無意識的自然〕が、その実体と《無媒介に》一つになっている、《真の》精神〔真であるがまだ直接的で自然的で無媒介であるの意〕であるからにほかならない。ーーー内容の面からみるとき、その像は、神々のおきてと人間のおきてに、分裂したものとなって現われる。ーーーそれはさて、若者は無意識的なものから、家族の精神から外に出て、、国家共同体の個人態〔主権者〕となる。だがこの若者が、まだ、自分のふり離してきた自然に帰属していることは、二人の兄弟〔エテオクレスとポリュネイケス〕という偶然な形をとって現われ、同等の権利で、同じもの〔国家〕をわがものとしようとすることから証明される。先に生れたとか後で生れたとかいうちがいは、自然の区別であるから、人倫的なもののなかに入ってきた《二人にとっては》、少しも意味がない。だが民族精神の単一なこころないし自己としての政府は、個人態が二つであることではすまされない。そこで政府は、一つであることが人倫的に当然なのだから、偶然にも複数である自然は、そのことに対立して現われることになる。だからこの二人は一つにはならない。国家権力に対する二人の同等の権利は、二人を破壊することになり、二人はともに不正を犯すことになる。だが人間のおきてからみると、相手が先頭に立っていて、自分には《所有権のない》国家共同体を攻撃する方は、犯罪を犯したことになる。これに対し、相手を、国家共同体から離れた《個別者》にすぎないものと、受けとることを心得ており、そういう無力な状態に追放する方は、自分の側に正義をもっている。つまりこちらは、個体そのものを侵しただけであって、相手方を、つまり人間的権利をもった存在者を、犯したのではない。国家共同体は、空しい個別態から攻撃を受けたり、護られたりすることがあるにしても、自分では存続して行く。そこで兄弟は、ともに違いの手で互いの没落に出会うことになる。なぜならば、《自分の自立存在〔対自存在〕に》、全体の危険をかけているような個人は、自分を国家共同体からつきはなし、自分のなかで解決することになるからである。だが、自分の味方をしてくれる一方には、国家共同体は名誉を与えるであろう。が反対に、すでに城壁にのぼって、共同体が荒廃に帰すと言った他方に対しては、国家共同体という自己を回復して単一になった政府は、最後の栄誉〔埋葬〕を剥奪して、罰を与えるであろう。共同体という、意識の最高精神に対し暴力をふるったものは、自分の存在が全く終りをつげるときの栄誉を、死に行く霊が受ける栄誉を、奪われざるをえないのである。
しかし、一般者は、そのピラミッドの頂点だけを、たやすく削りとって、個別態の反抗的原理つまり家族に対し、《勝利》をえはするものの、このためにそれは、神々のおきてとの《戦い》に、自己意識的精神は、無意識的精神との《戦い》にまきこまれたにすぎない。というのは、無意識的精神とても、他方の本質的な威力であり、そのため意識的精神によって破壊されたのではなく、ただ侮辱を受けたにすぎないからである。さらにこの精神は、白日のもとにある権力的なおきてに対抗して、血の気のない影において、その助けを《現に》実現するだけのことである。それは弱さと暗さのおきてであるから、さしあたっては、白日と力のおきてに勝てない。その権力は地下では通用するが、地上では通用しないからである。けれども、内々のものからその栄誉と威力を奪いとった現実は、そのために自らの実在を喰いつくしてしまったのである。公開の精神はその力の根を下界にもっている。民族の自ら信じ自ら断言する確信が、すべての人々を一つに結ぶ誓いの真実態をもっているにしても、それはすべての人々の、無意識的な沈黙の実体のうちでのこと、忘却〔レーテー〕の流れのうちでのことにすぎない。このため、公開の精神を完遂しようとしても、その反対に移って行き、その精神は、自らの最高の正義が最高の不正であり、自らの勝利が、むしろ、自らの没落であることを経験する。それゆえ、自らの正義が傷つけられた死者は、復讐するために、自分を侵す威力と等しい現実、等しい権力をもった道具を、見つけ出すことを心得ている。そういう権力をもっているのは、別の国家共同体〔アルゴスの国〕である。この国の祭壇は、死屍を喰った犬や鳥たちのまき散らす悪臭で汚されている〔『アンティゴネ』〕。そういう形で死屍は、それにふさわしく原始的な個体〔大地〕に送り帰されて、意識なき一般に高められているのではなく、地上の現実の国に止まっており、そこでいま、神々のおきての力となって、自覚的、現実的な一般性をもつことになっている。死屍は、自らの国家共同体に敵対の態度をとって、立ちあがり、それを亡ぼす。つまり家族の敬愛という共同体の力をもっていないで、これを破壊してしまった国家共同体を亡ぼすのである〔以上『アンティゴネ』参照〕」(ヘーゲル「精神現象学・下・D精神・六・A・b人倫的行為、人間の知と神々の知、罪責と運命・P.43~57」平凡社ライブラリー 一九九七年)
そしてKは演説を始める。ところが不可解なことに事態はKの思惑通りには進まず、途中で意図していなかった闖入者によってがらりと喜劇へ転化してしまう。Kにとっては座礁でしかないが。にもかかわらず「闖入者」に何一つ罪はなく、罪の責任を問われるべき理由はなおさらない。
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