ティトレリの話を聞いているKには何か根本的に矛盾しているとしか思えない点がある。それを指摘するとティトレリはいう。
「『公けの裁判所の背後で試みられていることは、いささか事情が違うんです。背後とはつまり、審議室とか、廊下とか、あるいは、たとえばここ、このアトリエとかですね』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.209」新潮文庫 一九九二年)
ティトレリは「背後」というのだが、それは公けに演じられる訴訟とはまた別に「黒幕」がいるということを言っているわけではまるでない。表層を見ているばかりでは見えてこない深層が別のところにあるという意味で言っているのではなく、むしろ見るべきはありもしない深層ではなく表層こそが問題なのだという点に注目を促しているに過ぎない。ティトレリのいう重要な表層は「公け」に信じられているような華々しい法廷などではまるでなく「審議室とか、廊下とか、あるいは、たとえばここ、このアトリエとか」という場所でのやりとりである。常識的に信じられているアクセントの位置が実は異なるというだけのことだ。そしてこれらアクセントの位置はティトレリが言っているように複数あり、いつも移動しており、どれが決定的かなど誰にもわからない。それを知らないと訴訟に勝つようなことは永遠にやってこない。またティトレリはそもそも告訴された被告が裁判に勝つということは間違っても絶対にないという。Kは自分の潔白を主張しようとしている。けれどもティトレリに言わせればKが本当に潔白であるとすれば、にもかかわらずなぜか被告になったということがそれこそもう絶望的だという。
「『いま問題になってるのは二つのそれぞれ違う事柄(ことがら)です、つまり法律に書いてあることと、わたしが個人的に体験したこととで、それを混同しちゃいけません。法律には、といってもわたしは読んだことがあるわけじゃありませんが、もちろん一方では、潔白な者は無罪とされる、と書いてある、しかし他方ではそこに、裁判官は個人的に影響されうるものだ、なんてことが載ってるわけじゃありません。ところがわたしが経験したのはまさにその正反対のことですよ。わたしは真の無罪という話は聞いたことがないが、影響されたという話ならたくさん知っています。もちろん、わたしの見聞した事例の中に潔白の場合が一つもなかったのかもしれない。しかしそんなばかな話が一体ありうるもんでしょうか?あんなにたくさんの事例の中に潔白の場合がただの一つもなかったなんて。すでに子供のころからわたしは、父が家で訴訟の話をするのや、アトリエに来た裁判官が裁判所の話をするのを、じっと聞いてきた者ですよ。なにしろうちのまわりじゃそれ以外の話なぞしないんですからね。そのあと自分で裁判所に行けるようになるとすぐ、わたしはあらゆる機会を利用しては無数の訴訟を見、その重要な段階に耳を傾け、目にふれるかぎりは追求してきました。それなのにーーーこれは認めぬわけにはいきませんがーーーただの一度でも真の無罪判決に出会ったことがないのですよ』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.213~214」新潮文庫 一九九二年)
文章にすると相当混み入った厄介な事態に見える。しかし現代アートの世界では戦後早くからかなり的確に表現された作品群が多数出現している。例えば二枚のガラス板が決して割れることなく互いに突き刺さり合って空中で静止しているような作品がそうだ。それが難解に見えるというのはクラッシック音楽で言えばベートーベンの交響曲こそが「わかりやすい」基準であると信じて疑わないような人々のあいだに限った話であるに過ぎない。かといってベートーベンの楽曲レベルが低いというわけでは全然ない。グレン・グールドの弾くベートーベンは異色だろうか。アファナシエフの弾くショパンはあまりにも遅いだろうか。エリック・サティ作曲の全楽曲は音楽ではないのだろうか。とすれば音楽などもはやどこにもないということになってしまうに違いない。難解か難解でないかという絶対的基準はすでに消滅して久しく、世界最初の総力戦が戦われた時期から考えるとしても少なくとも百年は経過しているのであって、ニーチェの言葉でいうと<神は死んだ>というに過ぎない。現代アートの場合、今なお難解だと酷評されるのはそれが見えているのに見えていないことと関係している。ヴィトゲンシュタインのいうように眼鏡のようなものだ。眼鏡はあまりにも近くにあるため普段は意識していない。だが眼鏡を指して難解だと非難するのは眼鏡に「いんねん」を付けるに等しい滑稽な仕草でしかない。ただし現代アートの世界で「アート、アート」と連呼していても実はとんでもない駄作や失敗作が多数あるのは確かだ。クラッシック音楽の古典にも駄作や失敗作が無数にあるのが確実であるように。
ところでティトレリのアトリエは狭いだけでなくどこもかしこもおかしな設計になっている。裁判官が出入りする「壁にある小さなドア」があり、それはベッドでほとんど隠れていたりする。ティトレリはその説明をしたすぐ後にひとこと付け加える。
「『ここじゃどのドアでもちょっと力を加えれば蝶番(ちょうつがい)が外れてしまうんですよ』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.217」新潮文庫 一九九二年)
危険な建築物だというわけではない。何かの拍子にたちまち「蝶番(ちょうつがい)が外れてしまう」建築物、本来なら「ばらばら」の建材を組み合わせてさらに増改築を繰り返した<モザイク>でしかないと画家は言っているわけだ。そこで「蝶番(ちょうつがい)が外れてしまう」とはどういうことか。ラカンは特定の精神疾患(主に統合失調症)で生じる症状について「クッションの綴じ目が飛んでしまう」といっている。
「すべてはシニフィアン(意味するもの)の中にあるのではありません。精神病で起きていることへと接近するためには、それとは別の領域から始めなくてはなりません。その数がいくつか私は知りませんが、人間存在がいわゆる正常であるために必須の、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)との間の基本的接着点の最小数はいくつかということを決定することは不可能ではありません。つまり、その最小数の綴じ目が満たされない時、あるいはそれが緩んだ時、精神病が起こることになる最小数です。
私が今申し上げていることはまだ全く粗けずりなものでしかありません。しかしここを出発点としてこそ、次回、主体の『人格性』の役割、つまりフランス語で『je』と『moi』とはいかに分化するのかということを検討することができるのです。
もちろん、いずれの国語(ラング)といえども、シニフィアンの次元で特権的な位置にあるというわけでは決してありません。それぞれの国語(ラング)の資産となっているものは、それぞれ大変異なるものですし、常に限りのあるものです。しかしそれでも、いかなる国語(ラング)も、それぞれシニフィカシオン(言語活動)の全領域をカバーしています。
シニフィアンの中で、人称はどこに位置しているのでしょう。いかにしてあるディスクール(言表)がディスクール(言表)の体をなすのでしょう。自分自身のものと思われるディスクール(言表)が、他ならぬシニフィアン(意味するもの)の平面で、それが自身のものであるということが主体に解らなくなるほどに脱人称的な性質を帯びるということが、どの程度まで可能なのでしょうか。
それが精神病のメカニズムそのものだと言っているのではありません。精神病のメカニズムはその点において現われるのだと言っているのです。このメカニズムを取り出す前に、この現象の段階で、どの点においてクッションの綴じ目が飛んでしまうのかということを見なくてはなりません。この綴じ目が飛んでしまう場合をいろいろ挙げてみると、驚くべき相関性を見いだすことができましょう」(ラカン「精神病・下・21・P.192~193」岩波書店 一九八七年)
ここでラカンが例に挙げているのは強度のPTSDが統合失調症化したようなケース。過去に激烈な衝撃を受けたためトラウマを抱え込んだ患者が現在において精神不安定な意識状態に陥っているような時、或る言葉の断片が自動的に出現することがしばしば起こる。しかしその言葉の断片はつい最近の日常生活の中から拾われた言葉の断片に過ぎず、その場で問題になっている過去の経験とはいかなる関係も持っていない断片でしかない場合がたいへん多い。ラカンはクレランボーの名を出しているが、フロイトが「夢判断」で述べていることとほとんど違わない。夢《素材》はつい最近の日常生活で見たり聞いたりした<諸断片>が用いられるが、しかし夢《内容(意味)》はほぼ全然別のことだと。
さらにKは、先程からアトリエ内部の澱んだ空気が気になっていたことに気づく。ティトレリに指摘されて気づいたようだが、言われてみるとなるほど窒息しそうな息苦しさを感じていた自分に気づく。上着を脱いでみてはと促されてKはようやく上着を脱いだ。するとアトリエの外で内部の様子を覗っていた<少女たち>の一人が叫んだ。
「『上着を脱いじゃったわよ!』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.217」新潮文庫 一九九二年)
たちまち<少女たち>はアトリエのドア周辺の隙間にひしめきあう。騒がしい音がKの耳に入る。同性愛的な場面だが、とはいえ同性愛が先にあるわけではない。<少女たち>の監視の目があって始めてそこに同性愛的な光景が演じられていると「事後的に」判別されている。ちなみに「変身」では自室に閉じこもってしまったグレーゴルの部屋に「派遣」されるのは妹のグレーテのみである。その点では極めて近親相姦的な描写が取られている。とはいえなぜ母ではないのか。当然のことながら母でない。というより母であってはいけないのである。社会倫理的な意味でいけないのではなく、資本主義的な生産様式が押し貫かれている以上、資本主義的社会機構が許さない。母との近親相姦ならただ単にオイディプス三角形型家父長制に基づく家庭構成が再生産されるばかりであって再び同じコードが反復されるに過ぎない。しかし妹との近親相姦であれば脱コード化されたまったく違うブロックを新しく出現させていくことができる。そこに資本主義独特の脱コード化・脱領土化という新しい局面が出現し、その利子はただ単なる反復とはまるで異なる二乗的、三乗的に増殖していく場が生成される。
もっとも、カフカはそれを念頭に置いてそう記述したわけではない。そうではなくそもそもカフカが勤務していた保険機構の業務内容には二面性があった。一方の官僚制ともう一方の民間会社的な性格。極めて両義的な意味を持つ職業への日常的関与によってカフカは社会全体のただならぬ変容が後に<脱コード化>と呼ばれるようになる傾向だといち早く気づいていたと言えるだろう。ゆえに<少女たち>監視人のはしゃぎ方が尋常でない過剰=逸脱した「大はしゃぎ」を取っていようと一つも不思議でない。
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「『公けの裁判所の背後で試みられていることは、いささか事情が違うんです。背後とはつまり、審議室とか、廊下とか、あるいは、たとえばここ、このアトリエとかですね』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.209」新潮文庫 一九九二年)
ティトレリは「背後」というのだが、それは公けに演じられる訴訟とはまた別に「黒幕」がいるということを言っているわけではまるでない。表層を見ているばかりでは見えてこない深層が別のところにあるという意味で言っているのではなく、むしろ見るべきはありもしない深層ではなく表層こそが問題なのだという点に注目を促しているに過ぎない。ティトレリのいう重要な表層は「公け」に信じられているような華々しい法廷などではまるでなく「審議室とか、廊下とか、あるいは、たとえばここ、このアトリエとか」という場所でのやりとりである。常識的に信じられているアクセントの位置が実は異なるというだけのことだ。そしてこれらアクセントの位置はティトレリが言っているように複数あり、いつも移動しており、どれが決定的かなど誰にもわからない。それを知らないと訴訟に勝つようなことは永遠にやってこない。またティトレリはそもそも告訴された被告が裁判に勝つということは間違っても絶対にないという。Kは自分の潔白を主張しようとしている。けれどもティトレリに言わせればKが本当に潔白であるとすれば、にもかかわらずなぜか被告になったということがそれこそもう絶望的だという。
「『いま問題になってるのは二つのそれぞれ違う事柄(ことがら)です、つまり法律に書いてあることと、わたしが個人的に体験したこととで、それを混同しちゃいけません。法律には、といってもわたしは読んだことがあるわけじゃありませんが、もちろん一方では、潔白な者は無罪とされる、と書いてある、しかし他方ではそこに、裁判官は個人的に影響されうるものだ、なんてことが載ってるわけじゃありません。ところがわたしが経験したのはまさにその正反対のことですよ。わたしは真の無罪という話は聞いたことがないが、影響されたという話ならたくさん知っています。もちろん、わたしの見聞した事例の中に潔白の場合が一つもなかったのかもしれない。しかしそんなばかな話が一体ありうるもんでしょうか?あんなにたくさんの事例の中に潔白の場合がただの一つもなかったなんて。すでに子供のころからわたしは、父が家で訴訟の話をするのや、アトリエに来た裁判官が裁判所の話をするのを、じっと聞いてきた者ですよ。なにしろうちのまわりじゃそれ以外の話なぞしないんですからね。そのあと自分で裁判所に行けるようになるとすぐ、わたしはあらゆる機会を利用しては無数の訴訟を見、その重要な段階に耳を傾け、目にふれるかぎりは追求してきました。それなのにーーーこれは認めぬわけにはいきませんがーーーただの一度でも真の無罪判決に出会ったことがないのですよ』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.213~214」新潮文庫 一九九二年)
文章にすると相当混み入った厄介な事態に見える。しかし現代アートの世界では戦後早くからかなり的確に表現された作品群が多数出現している。例えば二枚のガラス板が決して割れることなく互いに突き刺さり合って空中で静止しているような作品がそうだ。それが難解に見えるというのはクラッシック音楽で言えばベートーベンの交響曲こそが「わかりやすい」基準であると信じて疑わないような人々のあいだに限った話であるに過ぎない。かといってベートーベンの楽曲レベルが低いというわけでは全然ない。グレン・グールドの弾くベートーベンは異色だろうか。アファナシエフの弾くショパンはあまりにも遅いだろうか。エリック・サティ作曲の全楽曲は音楽ではないのだろうか。とすれば音楽などもはやどこにもないということになってしまうに違いない。難解か難解でないかという絶対的基準はすでに消滅して久しく、世界最初の総力戦が戦われた時期から考えるとしても少なくとも百年は経過しているのであって、ニーチェの言葉でいうと<神は死んだ>というに過ぎない。現代アートの場合、今なお難解だと酷評されるのはそれが見えているのに見えていないことと関係している。ヴィトゲンシュタインのいうように眼鏡のようなものだ。眼鏡はあまりにも近くにあるため普段は意識していない。だが眼鏡を指して難解だと非難するのは眼鏡に「いんねん」を付けるに等しい滑稽な仕草でしかない。ただし現代アートの世界で「アート、アート」と連呼していても実はとんでもない駄作や失敗作が多数あるのは確かだ。クラッシック音楽の古典にも駄作や失敗作が無数にあるのが確実であるように。
ところでティトレリのアトリエは狭いだけでなくどこもかしこもおかしな設計になっている。裁判官が出入りする「壁にある小さなドア」があり、それはベッドでほとんど隠れていたりする。ティトレリはその説明をしたすぐ後にひとこと付け加える。
「『ここじゃどのドアでもちょっと力を加えれば蝶番(ちょうつがい)が外れてしまうんですよ』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.217」新潮文庫 一九九二年)
危険な建築物だというわけではない。何かの拍子にたちまち「蝶番(ちょうつがい)が外れてしまう」建築物、本来なら「ばらばら」の建材を組み合わせてさらに増改築を繰り返した<モザイク>でしかないと画家は言っているわけだ。そこで「蝶番(ちょうつがい)が外れてしまう」とはどういうことか。ラカンは特定の精神疾患(主に統合失調症)で生じる症状について「クッションの綴じ目が飛んでしまう」といっている。
「すべてはシニフィアン(意味するもの)の中にあるのではありません。精神病で起きていることへと接近するためには、それとは別の領域から始めなくてはなりません。その数がいくつか私は知りませんが、人間存在がいわゆる正常であるために必須の、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)との間の基本的接着点の最小数はいくつかということを決定することは不可能ではありません。つまり、その最小数の綴じ目が満たされない時、あるいはそれが緩んだ時、精神病が起こることになる最小数です。
私が今申し上げていることはまだ全く粗けずりなものでしかありません。しかしここを出発点としてこそ、次回、主体の『人格性』の役割、つまりフランス語で『je』と『moi』とはいかに分化するのかということを検討することができるのです。
もちろん、いずれの国語(ラング)といえども、シニフィアンの次元で特権的な位置にあるというわけでは決してありません。それぞれの国語(ラング)の資産となっているものは、それぞれ大変異なるものですし、常に限りのあるものです。しかしそれでも、いかなる国語(ラング)も、それぞれシニフィカシオン(言語活動)の全領域をカバーしています。
シニフィアンの中で、人称はどこに位置しているのでしょう。いかにしてあるディスクール(言表)がディスクール(言表)の体をなすのでしょう。自分自身のものと思われるディスクール(言表)が、他ならぬシニフィアン(意味するもの)の平面で、それが自身のものであるということが主体に解らなくなるほどに脱人称的な性質を帯びるということが、どの程度まで可能なのでしょうか。
それが精神病のメカニズムそのものだと言っているのではありません。精神病のメカニズムはその点において現われるのだと言っているのです。このメカニズムを取り出す前に、この現象の段階で、どの点においてクッションの綴じ目が飛んでしまうのかということを見なくてはなりません。この綴じ目が飛んでしまう場合をいろいろ挙げてみると、驚くべき相関性を見いだすことができましょう」(ラカン「精神病・下・21・P.192~193」岩波書店 一九八七年)
ここでラカンが例に挙げているのは強度のPTSDが統合失調症化したようなケース。過去に激烈な衝撃を受けたためトラウマを抱え込んだ患者が現在において精神不安定な意識状態に陥っているような時、或る言葉の断片が自動的に出現することがしばしば起こる。しかしその言葉の断片はつい最近の日常生活の中から拾われた言葉の断片に過ぎず、その場で問題になっている過去の経験とはいかなる関係も持っていない断片でしかない場合がたいへん多い。ラカンはクレランボーの名を出しているが、フロイトが「夢判断」で述べていることとほとんど違わない。夢《素材》はつい最近の日常生活で見たり聞いたりした<諸断片>が用いられるが、しかし夢《内容(意味)》はほぼ全然別のことだと。
さらにKは、先程からアトリエ内部の澱んだ空気が気になっていたことに気づく。ティトレリに指摘されて気づいたようだが、言われてみるとなるほど窒息しそうな息苦しさを感じていた自分に気づく。上着を脱いでみてはと促されてKはようやく上着を脱いだ。するとアトリエの外で内部の様子を覗っていた<少女たち>の一人が叫んだ。
「『上着を脱いじゃったわよ!』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.217」新潮文庫 一九九二年)
たちまち<少女たち>はアトリエのドア周辺の隙間にひしめきあう。騒がしい音がKの耳に入る。同性愛的な場面だが、とはいえ同性愛が先にあるわけではない。<少女たち>の監視の目があって始めてそこに同性愛的な光景が演じられていると「事後的に」判別されている。ちなみに「変身」では自室に閉じこもってしまったグレーゴルの部屋に「派遣」されるのは妹のグレーテのみである。その点では極めて近親相姦的な描写が取られている。とはいえなぜ母ではないのか。当然のことながら母でない。というより母であってはいけないのである。社会倫理的な意味でいけないのではなく、資本主義的な生産様式が押し貫かれている以上、資本主義的社会機構が許さない。母との近親相姦ならただ単にオイディプス三角形型家父長制に基づく家庭構成が再生産されるばかりであって再び同じコードが反復されるに過ぎない。しかし妹との近親相姦であれば脱コード化されたまったく違うブロックを新しく出現させていくことができる。そこに資本主義独特の脱コード化・脱領土化という新しい局面が出現し、その利子はただ単なる反復とはまるで異なる二乗的、三乗的に増殖していく場が生成される。
もっとも、カフカはそれを念頭に置いてそう記述したわけではない。そうではなくそもそもカフカが勤務していた保険機構の業務内容には二面性があった。一方の官僚制ともう一方の民間会社的な性格。極めて両義的な意味を持つ職業への日常的関与によってカフカは社会全体のただならぬ変容が後に<脱コード化>と呼ばれるようになる傾向だといち早く気づいていたと言えるだろう。ゆえに<少女たち>監視人のはしゃぎ方が尋常でない過剰=逸脱した「大はしゃぎ」を取っていようと一つも不思議でない。
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