Kは洗濯女に訊ねる。あなたは本当に予審判事を知っているのかと。女は「もちろん」と答える。返事は極力短くあるべき世界だ。Kはすでに思い知らされている。その意味で女性の応答は正しい。ところが女性は予審判事について「知っている」理由をあれこれべらべらとしゃべり立てる。大声ではなく自慢げにでもなくごく当たり前であるかのように。Kはただただ聞き役を演じる。予審判事の行動は驚くべきものだが女性の説明もまた驚くべき長さだ。ともかく予審判事はこの女性を知っている。女性が予審判事を知っているのは予審判事が女性の存在を知っているからである。予審判事の行動の特徴として女性が真っ先に上げるのは予審判事が書き上げる書類の多さだ。彼は書類の山を書き上げると女性夫婦の寝室へやって来て女性の夫がぐっすり眠っているのを見ると大量の報告書を書いていたため遅くなったという。そして女性に言い寄って「絹の靴下(くつした)」を贈ると約束する。予審判事の贈り物を女性に届ける役目は大学生であり大学生は予審判事から女性のもとへ「派遣」されるとともに女性に対するストーカー行為を執拗に続けることができるというわけだ。ところが女性は贈られた「絹の靴下(くつした)」をもう身につけており、Kの目の前でスカートをたくし上げて自分の脚をあらわに晒け出し、「ともかくきれいな靴下なのよ、見て」とKを誘惑する。贈り物で女性を誘惑しようとしたのは予審判事だがその贈り物を身につけてKを誘惑するのは女性である。
「『もちろん』、と女は言った、『あなたに助力を申しでたときだって、一番最初にあの人のことを考えたくらいよ。彼がそんな身分の低い役人だなんて知らなかったけど、でもあなたが言うんだからきっとそうなんでしょうね。それでも、彼が上に差しだす報告書には、やはりなにがしかの影響力はあるんだと思うわ。それに彼は実にたくさん報告書を書くのよ。役人どもはみな怠け者だとあなたは言うけど、みんながそうというわけじゃない、とくにこの予審判事はそうじゃない、彼は非常にたくさん書くのよ。たとえばこの前の日曜なんか、裁判が夕方までつづいて、全員が帰ってしまっても、予審判事はホールに残っているんで、わたしがランプを持ってってやらなくちゃならなかった、うちには小さな台所用ランプしかないんだけど、彼はそれで満足してくれて、すぐ物を書きはじめたわ。そうこうするうちわたしの夫も帰ってきました、あの日曜日はちょうど休暇をとっていたんです、そこで二人で家具を運んできて、部屋を元通りにした、それからこんどはおとなりの人がきて、わたしたちはロウソクの光でおしゃべりをしたわ、要するに、わたしたち予審判事のことなどすっかり忘れて、そのまま寝てしまったんです。突然夜中に、あれはもうずいぶん夜更(よふけ)だったにちがいないわね、目を醒(さ)ますと、ベッドのわきに予審判事が立ってるんです、片手でランプをさえぎって、光が夫の顔に落ちないようにしているんです、そんな用心する必要はないのに、わたしの夫は、光が落ちたくらいじゃ目を醒まさないくらい眠りが深いのよ。わたしあんまりびっくりしたから、あやうく叫び声をあげそうになったけど、予審判事はとてもやさしかった、声をたてないようにって注意して、わたしの耳にささやくんです、いままで書きものをしていたんだ、いまランプを返しにきたところだ、おまえの寝姿を見たことは決して忘れないだろうって。わたしこんなことをすっかりお話したのも、予審判事が本当にたくさんの報告書を書くってことを、あなたに知ってもらいたかったからよ、とくにあなたのことについてね、なぜって、あなたの訊問は日曜日の法廷の主要題目の一つだったんですものね。あれくらい長い報告書がまるっきり意味がないなんてことはありえないわ。でもそればかりではなしに、いまの話からもあなたにわかったでしょうけど、予審判事はわたしに言いよろうとしてるのよ、だからまさにこの最初の時にこそーーーだいたい彼がわたしなんかに気づいたのはこれが初めてにちがいないんだからーーーわたしは彼に大きな影響力を持つことができるわけよ。彼がわたしに気があるっていう証拠なら、まだほかにもいくつもあるわ。たとえばきのう彼はわたしに絹の靴下(くつした)を贈ってくれたわ、彼がたいへん信用して自分の協力者にしている例の大学生を通じて、わたしがいつも集会室の掃除をしてくれるからっていう口実でね、でもそんなのはただの口実よ、だってこの仕事はわたしの役目にすぎないんだもの、そして夫はそのためにお給金をもらってるんですもの。ともかくきれいな靴下なのよ、見て』ーーーそう言って彼女は脚をのばし、スカートの膝(ひざ)までたくしあげて、自分でも靴下をしげしげと見つめたーーー『たしかにきれいな靴下だわ、でもだいたい上等すぎて、わたしには向かないみたいね』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.88~89」新潮文庫)
女性は下級官吏の妻であり予審判事に言い寄られておりしばしば大学生と抱き合っている。そして今度は好きになれない大学生との関係を切断しKに乗り換えようとしている。女性は下級官吏の妻としても予審判事の愛人としても官僚機構の<一分子>であり洗濯女としては<女中>であり大学生にとっては<娼婦>である。しかしKにとっては援助者であろうとしている。どういうことか。そこへ突然登場した大学生。大学生は女性に向かって自分の近くに来るよう合図した。「ちょっと来い」という感じだ。女性はKを落ち着かせるため次のようにいう。
「突然彼女は話を中断して、彼を落着かせようとするように手をKの手に重ねて、ささやいた、『しっ、ベルトルトがわたしたちを見てるわ』。Kはゆるゆる視線をあげた。会議室のドアのところに一人の若い男が立っていた、小さな男だった、真直ぐとはいいかねる脚の持主で、短くてまばらで赤っぽい総(そう)ひげを、ひっきりなしに指でいじりまわしては、威厳をつけようと試みていた。Kはその男を強い好奇心で見つめた、これこそ彼がいわば初めて目(ま)のあたりに見た、法律学という得体のしれぬものを学んでいる学生、いずれいつか高い地位の役人になるであろう男であった。ところが大学生のほうは一見Kのことなぞ少しも気にかけている様子ではなかった、彼はひげのなかからちょっと指を一本抜きだして女に合図しただけで、そのまま窓ぎわに歩いていった。女はKのほうに身をかがめて、ささやいた。『気をわるくしないでね、おねがい、わたしのことをひどい女だなんて考えないで、あいつのとこへいかなくちゃいけないのよ、ほんとにいけすかないったらありゃしない、あのひん曲がった脚を見てよ。でも、すぐ戻ってくるわ、そしてあなたと一緒に出ていくわ、あなたが連れてってくれるんだったらどこへだってついてゆくわ。そうしたらわたしにどんなことをしてもかまわない、ここからできるだけ長いあいだ離れてさえいられたら、それで幸福なんだもの、むろん永久におさらばできればそれに越したことはないけど』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.90」新潮文庫)
大学生の合図を受けて女性は大学生のいる窓ぎわへ駆けつける。Kは止めようとして彼女の手を掴(つか)もうとするが失敗し、何もない空を掴んでしまった。その瞬間、Kにすれば「女は本当に彼の気を唆(そそ)った」。欲望はその瞬間に忽然と出現したのである。しかしKは或る種の妄想に耽って満足する。
「彼女はまだKの手をさすっていたが、ふいに跳びあがると窓のほうへ駆け出した。Kは思わず女の手をとろうとして空を摑んだ。女は本当に彼の気を唆(そそ)った、なぜ女の誘惑に乗ってはいけないのか、いろいろ考えてみたけれどももっともな理由が見つからなかった。女は裁判所のためにおれをひっかけようとしてるんだ、という気もちらと頭をかすめたが、そんな異議も彼は苦もなくはねのけてしまった。どんな具合にして女に彼をひっかけることができるというのか?彼はいつだって、少くともこと彼に関する限り、この裁判機構全体をだって即座にぶちこわせるほどにも、自由でありつづけてきたではなかったか。こんな自分へのわずかな信頼さえ、彼は持つことができないのか?それに助けたいという女の申しこみには真正らしいひびきがあったし、おそらくまた価値のないものではなかった。そして予審判事やその一味にたいしては、かれらからこの女を奪いとって自分のものにしてしまうくらい効果的な復讐(ふくしゅう)はないに違いなかった。そうなればいつかきっと、予審判事がKについての嘘(うそ)八百の報告書づくりに骨折ったあと、深夜女のベッドが空(から)なのを発見する、といった事態だって起らぬものでもない。そしてそれが空なのは、女がKのものとなったからなのだ、窓ぎわにいるあの女、粗い重い布地の黒服につつまれたあのあたたかいからだが、ただもうKだけのものとなったためなのだ」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.90~91」新潮文庫)
それにしても大学生と女性との話は長い。少なくともKにとっては長過ぎると感じる。しかも二人の会話はひそひそ声で行われている。あちこちで大声が響き渡る会場ではよくあるように、ほんのちょっとした「小声・ささやき」が瞬時に目立ち、不意に会場全体を静寂のうちに叩き込んでしまう事態は誰しも経験があるだろう。この箇所でKは二人の「ひそひそ声」に欲望を刺激され感情が表に出たのかいらいらし始める。といってもこの欲望は性的欲望ではなく<法の欲望>のさらなる出現にほかならない。Kが激怒すればするほど<法>の側はますますKを嘲笑うだろう。大学生はKのいらいらをからかって見せる。Kと大学生とは二人ともひきつった怒りを隠すことなく対立する。しかしこの場面について女性をめぐる三角関係を見てとると事情を見誤ってしまう。大学生は予審判事から「派遣」された<使用人〔女中〕>であり女性は洗濯女として始めから<女中>の系列に属している。そして欲望はKの側と大学生の側との両極に分裂して対立する<法の欲望>の二つの項の両方であるに過ぎないからである。
大学生を相手に皮肉の応酬を繰り返し成り行きを見守っていたKだがとうとう大学生は女性を連れ去ろうとする。Kは止めようとしたが逆に女性から制止される。この時、大学生もKもともに<動物化>している点を見逃すわけにはいかない。大学生は「見かけによらぬ馬鹿力(ばかぢから)を出して女を片手で抱きあげると、背をまるめとろんとした目で女を見あげながら、ドアのほうに駆けだした」。Kにしても「大学生の肩に手をかけると、その手に彼はいきなり噛(か)みついてきた」。にもかかわらず女性はKに止めるなと叫ぶ。止めたりすれば「わたしが破滅しちゃう!放してやって、おねがい、彼を放してやって!」と喚くばかり。しかし<動物化>したKと大学生との二人に彼女の言葉はとどかない。
「Kは男のすぐそばに立ちどまって、微笑しながら言った。『いらいらしている、それは本当だ、しかしこのいらいらは、きみが出てってくれさえすれば、それで容易に方がつくんでね。しかしひょっとしてきみがーーー学生さんだそうだからーーーここへ勉強しに来たっていうんなら、よろこんでこの場を明けわたすさ、そしてそのご婦人と出ていきましょうよ。ともかく、裁判官にでもなろうっていうんなら、もっともっと勉強しなくちゃならないやね。ぼくは司法制度なんてとくに精(くわ)しい者でもなんでもないが、きみがいまからもう破廉恥(はれんち)に使いこなすことを心得てる、そのきみの乱暴なしゃべり方じゃ、まだまだ充分とは言えんくらいのことはわかるよ』。『こいつをこんなふうに勝手に歩きまわらしといちゃいけなかったんだ』、とKの侮蔑(ぶべつ)的な言辞への解説を女にしようというように、大学生は言った、『失敗だったな。予審判事にはちゃんと言っといたのに。せめて訊問(じんもん)のあいだはこの男を部屋に閉じこめとくべきだったんだ。あの予審判事はときどきわけのわからぬことをするよ』。『くだらんおしゃべりだね』、とKは言って、女のほうに手をのばした、『さあ行こう』。『ははん、そういうわけか』、と大学生は言った、『だめ、だめ、この人を渡すわけにいかないんだ』。そして、見かけによらぬ馬鹿力(ばかぢから)を出して女を片手で抱きあげると、背をまるめとろんとした目で女を見あげながら、ドアのほうに駆けだした。そのさいKにたいするある種の怖れが、見誤りようもなくうかがえたにもかかわらず、彼はさらにKを刺戟(しげき)しようとして、空いたほうの手で女の腕を撫(な)でたり押したりしてみせた。Kは、彼をひっつかまえて、事と次第では絞め殺してやるくらいのつもりで、並んで二、三歩走りだしたが、女が言った。『むだだからよして、予審判事が迎えによこしたのよ、あなたと行くわけにいかなくなったわ、このちびの乱暴者が』、と言って彼女は大学生の顔を手で撫でまわした、『このちびの乱暴者がわたしを放しっこないわ』。『そしてあなたも放されたがっていないんだ!』、とKが叫んで、大学生の肩に手をかけると、その手に彼はいきなり噛(か)みついてきた。『やめて!』、と女は叫んで、Kを両手で押しのけた、『やめて、やめて、それだけはやめてよ、一体何を考えてるの!そんなことしたら、わたしが破滅しちゃう!放してやって、おねがい、彼を放してやって!この人は予審判事の命令に従ってるだけ、わたしを判事のとこへ連れていくだけなのよ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.92~94」新潮文庫 一九九二年)
仕方なくKは二人の後を追ってゆっくりついて行った。部屋の戸口まで来た。<動物化>した大学生は女性を抱きあげたまま「屋根裏部屋に通じている狭い木の階段」をのぼっていく。ところがあまり急激に暴れたからかもしれないが大学生はそこで力尽きかけている。そこで女性は「手で下のKに合図を送った」。
「好奇心からKはさらに戸口まで出てみた、まさか女をかかえたまま通りまで出てゆきはしまいが、学生がどこへ女を運んでゆくか見とどけたかったのだ。が、道順は思ったよりずっと短いものだった。部屋のすぐむかいに、中途で折れているので終りまでは見えないがたぶん屋根裏部屋に通じている狭い木の階段があった。この階段を学生は女を抱えて上っていったのだ、さっき走ったりしたものだから力が萎(な)えて、おそろしくのろのろと、あえぎあえぎ。女は手で下のKに合図を送った」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.94~95」新潮文庫 一九九二年)
だがKは女性に裏切られたと思っている。予審判事のところへ連れて行かれるという女性の叫びなど嘘だったともはや諦めている。Kは女性に誘惑され騙された<被害者>感情を抱いている。ところがよくよく目の前を見てみると、女性が「手で下のKに合図を送った」通り、「屋根裏部屋に通じている狭い木の階段」の上り口に小さな札があり《裁判所事務局上り口》と書かれていた。それこそこの日のKが目指していた場所にほかならない。とすると女性は何を演じたのだろうか。
そういえば最初から女性はKを「助けたい」と言っていた。しんとして誰もいない休廷日のホール。ヘーゲル弁証法的に裁判をとっとと前へ進めたいと思っていたKはこの日、いきなり出鼻をくじかれた格好になった。Kのヘーゲル的目論見は崩壊したかのように思え、同時にヘーゲル弁証法をもまるで放棄してしまったかのような自暴自棄に陥った。そこへ洗濯女=<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性が現われる。ところが女性は予審判事から「派遣」されている大学生に強奪されそうになったのでKが止めようとすると、にもかかわらず女性自身は「止めるな」という。だから積極的に止めることはせず、ただ単に後からゆっくり追いかけてどこへ行くのか確かめるだけに留めた。するとなぜか当初の目的通りか、それより遥かに手っ取り早い場所となり得る《裁判所事務局上り口》に行き着いた。女性はKが妥協なく押し進めようとしたが挫折しそうになったヘーゲル的行動を<援助者>の立場から救い上げ、行き詰まりの様相を見せている空っぽのホールからKの目指す次の地点への過程を開き、出口も入口も不透明化してきたホールの行き詰まりを脱臼させ逃走させるのに大いに貢献した。洗濯女による援助の申し出は実現されたのである。
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「『もちろん』、と女は言った、『あなたに助力を申しでたときだって、一番最初にあの人のことを考えたくらいよ。彼がそんな身分の低い役人だなんて知らなかったけど、でもあなたが言うんだからきっとそうなんでしょうね。それでも、彼が上に差しだす報告書には、やはりなにがしかの影響力はあるんだと思うわ。それに彼は実にたくさん報告書を書くのよ。役人どもはみな怠け者だとあなたは言うけど、みんながそうというわけじゃない、とくにこの予審判事はそうじゃない、彼は非常にたくさん書くのよ。たとえばこの前の日曜なんか、裁判が夕方までつづいて、全員が帰ってしまっても、予審判事はホールに残っているんで、わたしがランプを持ってってやらなくちゃならなかった、うちには小さな台所用ランプしかないんだけど、彼はそれで満足してくれて、すぐ物を書きはじめたわ。そうこうするうちわたしの夫も帰ってきました、あの日曜日はちょうど休暇をとっていたんです、そこで二人で家具を運んできて、部屋を元通りにした、それからこんどはおとなりの人がきて、わたしたちはロウソクの光でおしゃべりをしたわ、要するに、わたしたち予審判事のことなどすっかり忘れて、そのまま寝てしまったんです。突然夜中に、あれはもうずいぶん夜更(よふけ)だったにちがいないわね、目を醒(さ)ますと、ベッドのわきに予審判事が立ってるんです、片手でランプをさえぎって、光が夫の顔に落ちないようにしているんです、そんな用心する必要はないのに、わたしの夫は、光が落ちたくらいじゃ目を醒まさないくらい眠りが深いのよ。わたしあんまりびっくりしたから、あやうく叫び声をあげそうになったけど、予審判事はとてもやさしかった、声をたてないようにって注意して、わたしの耳にささやくんです、いままで書きものをしていたんだ、いまランプを返しにきたところだ、おまえの寝姿を見たことは決して忘れないだろうって。わたしこんなことをすっかりお話したのも、予審判事が本当にたくさんの報告書を書くってことを、あなたに知ってもらいたかったからよ、とくにあなたのことについてね、なぜって、あなたの訊問は日曜日の法廷の主要題目の一つだったんですものね。あれくらい長い報告書がまるっきり意味がないなんてことはありえないわ。でもそればかりではなしに、いまの話からもあなたにわかったでしょうけど、予審判事はわたしに言いよろうとしてるのよ、だからまさにこの最初の時にこそーーーだいたい彼がわたしなんかに気づいたのはこれが初めてにちがいないんだからーーーわたしは彼に大きな影響力を持つことができるわけよ。彼がわたしに気があるっていう証拠なら、まだほかにもいくつもあるわ。たとえばきのう彼はわたしに絹の靴下(くつした)を贈ってくれたわ、彼がたいへん信用して自分の協力者にしている例の大学生を通じて、わたしがいつも集会室の掃除をしてくれるからっていう口実でね、でもそんなのはただの口実よ、だってこの仕事はわたしの役目にすぎないんだもの、そして夫はそのためにお給金をもらってるんですもの。ともかくきれいな靴下なのよ、見て』ーーーそう言って彼女は脚をのばし、スカートの膝(ひざ)までたくしあげて、自分でも靴下をしげしげと見つめたーーー『たしかにきれいな靴下だわ、でもだいたい上等すぎて、わたしには向かないみたいね』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.88~89」新潮文庫)
女性は下級官吏の妻であり予審判事に言い寄られておりしばしば大学生と抱き合っている。そして今度は好きになれない大学生との関係を切断しKに乗り換えようとしている。女性は下級官吏の妻としても予審判事の愛人としても官僚機構の<一分子>であり洗濯女としては<女中>であり大学生にとっては<娼婦>である。しかしKにとっては援助者であろうとしている。どういうことか。そこへ突然登場した大学生。大学生は女性に向かって自分の近くに来るよう合図した。「ちょっと来い」という感じだ。女性はKを落ち着かせるため次のようにいう。
「突然彼女は話を中断して、彼を落着かせようとするように手をKの手に重ねて、ささやいた、『しっ、ベルトルトがわたしたちを見てるわ』。Kはゆるゆる視線をあげた。会議室のドアのところに一人の若い男が立っていた、小さな男だった、真直ぐとはいいかねる脚の持主で、短くてまばらで赤っぽい総(そう)ひげを、ひっきりなしに指でいじりまわしては、威厳をつけようと試みていた。Kはその男を強い好奇心で見つめた、これこそ彼がいわば初めて目(ま)のあたりに見た、法律学という得体のしれぬものを学んでいる学生、いずれいつか高い地位の役人になるであろう男であった。ところが大学生のほうは一見Kのことなぞ少しも気にかけている様子ではなかった、彼はひげのなかからちょっと指を一本抜きだして女に合図しただけで、そのまま窓ぎわに歩いていった。女はKのほうに身をかがめて、ささやいた。『気をわるくしないでね、おねがい、わたしのことをひどい女だなんて考えないで、あいつのとこへいかなくちゃいけないのよ、ほんとにいけすかないったらありゃしない、あのひん曲がった脚を見てよ。でも、すぐ戻ってくるわ、そしてあなたと一緒に出ていくわ、あなたが連れてってくれるんだったらどこへだってついてゆくわ。そうしたらわたしにどんなことをしてもかまわない、ここからできるだけ長いあいだ離れてさえいられたら、それで幸福なんだもの、むろん永久におさらばできればそれに越したことはないけど』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.90」新潮文庫)
大学生の合図を受けて女性は大学生のいる窓ぎわへ駆けつける。Kは止めようとして彼女の手を掴(つか)もうとするが失敗し、何もない空を掴んでしまった。その瞬間、Kにすれば「女は本当に彼の気を唆(そそ)った」。欲望はその瞬間に忽然と出現したのである。しかしKは或る種の妄想に耽って満足する。
「彼女はまだKの手をさすっていたが、ふいに跳びあがると窓のほうへ駆け出した。Kは思わず女の手をとろうとして空を摑んだ。女は本当に彼の気を唆(そそ)った、なぜ女の誘惑に乗ってはいけないのか、いろいろ考えてみたけれどももっともな理由が見つからなかった。女は裁判所のためにおれをひっかけようとしてるんだ、という気もちらと頭をかすめたが、そんな異議も彼は苦もなくはねのけてしまった。どんな具合にして女に彼をひっかけることができるというのか?彼はいつだって、少くともこと彼に関する限り、この裁判機構全体をだって即座にぶちこわせるほどにも、自由でありつづけてきたではなかったか。こんな自分へのわずかな信頼さえ、彼は持つことができないのか?それに助けたいという女の申しこみには真正らしいひびきがあったし、おそらくまた価値のないものではなかった。そして予審判事やその一味にたいしては、かれらからこの女を奪いとって自分のものにしてしまうくらい効果的な復讐(ふくしゅう)はないに違いなかった。そうなればいつかきっと、予審判事がKについての嘘(うそ)八百の報告書づくりに骨折ったあと、深夜女のベッドが空(から)なのを発見する、といった事態だって起らぬものでもない。そしてそれが空なのは、女がKのものとなったからなのだ、窓ぎわにいるあの女、粗い重い布地の黒服につつまれたあのあたたかいからだが、ただもうKだけのものとなったためなのだ」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.90~91」新潮文庫)
それにしても大学生と女性との話は長い。少なくともKにとっては長過ぎると感じる。しかも二人の会話はひそひそ声で行われている。あちこちで大声が響き渡る会場ではよくあるように、ほんのちょっとした「小声・ささやき」が瞬時に目立ち、不意に会場全体を静寂のうちに叩き込んでしまう事態は誰しも経験があるだろう。この箇所でKは二人の「ひそひそ声」に欲望を刺激され感情が表に出たのかいらいらし始める。といってもこの欲望は性的欲望ではなく<法の欲望>のさらなる出現にほかならない。Kが激怒すればするほど<法>の側はますますKを嘲笑うだろう。大学生はKのいらいらをからかって見せる。Kと大学生とは二人ともひきつった怒りを隠すことなく対立する。しかしこの場面について女性をめぐる三角関係を見てとると事情を見誤ってしまう。大学生は予審判事から「派遣」された<使用人〔女中〕>であり女性は洗濯女として始めから<女中>の系列に属している。そして欲望はKの側と大学生の側との両極に分裂して対立する<法の欲望>の二つの項の両方であるに過ぎないからである。
大学生を相手に皮肉の応酬を繰り返し成り行きを見守っていたKだがとうとう大学生は女性を連れ去ろうとする。Kは止めようとしたが逆に女性から制止される。この時、大学生もKもともに<動物化>している点を見逃すわけにはいかない。大学生は「見かけによらぬ馬鹿力(ばかぢから)を出して女を片手で抱きあげると、背をまるめとろんとした目で女を見あげながら、ドアのほうに駆けだした」。Kにしても「大学生の肩に手をかけると、その手に彼はいきなり噛(か)みついてきた」。にもかかわらず女性はKに止めるなと叫ぶ。止めたりすれば「わたしが破滅しちゃう!放してやって、おねがい、彼を放してやって!」と喚くばかり。しかし<動物化>したKと大学生との二人に彼女の言葉はとどかない。
「Kは男のすぐそばに立ちどまって、微笑しながら言った。『いらいらしている、それは本当だ、しかしこのいらいらは、きみが出てってくれさえすれば、それで容易に方がつくんでね。しかしひょっとしてきみがーーー学生さんだそうだからーーーここへ勉強しに来たっていうんなら、よろこんでこの場を明けわたすさ、そしてそのご婦人と出ていきましょうよ。ともかく、裁判官にでもなろうっていうんなら、もっともっと勉強しなくちゃならないやね。ぼくは司法制度なんてとくに精(くわ)しい者でもなんでもないが、きみがいまからもう破廉恥(はれんち)に使いこなすことを心得てる、そのきみの乱暴なしゃべり方じゃ、まだまだ充分とは言えんくらいのことはわかるよ』。『こいつをこんなふうに勝手に歩きまわらしといちゃいけなかったんだ』、とKの侮蔑(ぶべつ)的な言辞への解説を女にしようというように、大学生は言った、『失敗だったな。予審判事にはちゃんと言っといたのに。せめて訊問(じんもん)のあいだはこの男を部屋に閉じこめとくべきだったんだ。あの予審判事はときどきわけのわからぬことをするよ』。『くだらんおしゃべりだね』、とKは言って、女のほうに手をのばした、『さあ行こう』。『ははん、そういうわけか』、と大学生は言った、『だめ、だめ、この人を渡すわけにいかないんだ』。そして、見かけによらぬ馬鹿力(ばかぢから)を出して女を片手で抱きあげると、背をまるめとろんとした目で女を見あげながら、ドアのほうに駆けだした。そのさいKにたいするある種の怖れが、見誤りようもなくうかがえたにもかかわらず、彼はさらにKを刺戟(しげき)しようとして、空いたほうの手で女の腕を撫(な)でたり押したりしてみせた。Kは、彼をひっつかまえて、事と次第では絞め殺してやるくらいのつもりで、並んで二、三歩走りだしたが、女が言った。『むだだからよして、予審判事が迎えによこしたのよ、あなたと行くわけにいかなくなったわ、このちびの乱暴者が』、と言って彼女は大学生の顔を手で撫でまわした、『このちびの乱暴者がわたしを放しっこないわ』。『そしてあなたも放されたがっていないんだ!』、とKが叫んで、大学生の肩に手をかけると、その手に彼はいきなり噛(か)みついてきた。『やめて!』、と女は叫んで、Kを両手で押しのけた、『やめて、やめて、それだけはやめてよ、一体何を考えてるの!そんなことしたら、わたしが破滅しちゃう!放してやって、おねがい、彼を放してやって!この人は予審判事の命令に従ってるだけ、わたしを判事のとこへ連れていくだけなのよ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.92~94」新潮文庫 一九九二年)
仕方なくKは二人の後を追ってゆっくりついて行った。部屋の戸口まで来た。<動物化>した大学生は女性を抱きあげたまま「屋根裏部屋に通じている狭い木の階段」をのぼっていく。ところがあまり急激に暴れたからかもしれないが大学生はそこで力尽きかけている。そこで女性は「手で下のKに合図を送った」。
「好奇心からKはさらに戸口まで出てみた、まさか女をかかえたまま通りまで出てゆきはしまいが、学生がどこへ女を運んでゆくか見とどけたかったのだ。が、道順は思ったよりずっと短いものだった。部屋のすぐむかいに、中途で折れているので終りまでは見えないがたぶん屋根裏部屋に通じている狭い木の階段があった。この階段を学生は女を抱えて上っていったのだ、さっき走ったりしたものだから力が萎(な)えて、おそろしくのろのろと、あえぎあえぎ。女は手で下のKに合図を送った」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.94~95」新潮文庫 一九九二年)
だがKは女性に裏切られたと思っている。予審判事のところへ連れて行かれるという女性の叫びなど嘘だったともはや諦めている。Kは女性に誘惑され騙された<被害者>感情を抱いている。ところがよくよく目の前を見てみると、女性が「手で下のKに合図を送った」通り、「屋根裏部屋に通じている狭い木の階段」の上り口に小さな札があり《裁判所事務局上り口》と書かれていた。それこそこの日のKが目指していた場所にほかならない。とすると女性は何を演じたのだろうか。
そういえば最初から女性はKを「助けたい」と言っていた。しんとして誰もいない休廷日のホール。ヘーゲル弁証法的に裁判をとっとと前へ進めたいと思っていたKはこの日、いきなり出鼻をくじかれた格好になった。Kのヘーゲル的目論見は崩壊したかのように思え、同時にヘーゲル弁証法をもまるで放棄してしまったかのような自暴自棄に陥った。そこへ洗濯女=<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性が現われる。ところが女性は予審判事から「派遣」されている大学生に強奪されそうになったのでKが止めようとすると、にもかかわらず女性自身は「止めるな」という。だから積極的に止めることはせず、ただ単に後からゆっくり追いかけてどこへ行くのか確かめるだけに留めた。するとなぜか当初の目的通りか、それより遥かに手っ取り早い場所となり得る《裁判所事務局上り口》に行き着いた。女性はKが妥協なく押し進めようとしたが挫折しそうになったヘーゲル的行動を<援助者>の立場から救い上げ、行き詰まりの様相を見せている空っぽのホールからKの目指す次の地点への過程を開き、出口も入口も不透明化してきたホールの行き詰まりを脱臼させ逃走させるのに大いに貢献した。洗濯女による援助の申し出は実現されたのである。
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