白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「城」化したネット世界の可分的責任性/モザイクとしての人間

2022年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム
縉紳館のお内儀はKに説明する。Kが廊下に立っていたばっかりに「きょうの書類分配」は極めて困難な状況へ変ってしまったのだと。縉紳館はその主人とお内儀の家にほかならない。にもかかわらず役人たちの「書類分配」がどのようなものなのか主人もお内儀も「まだ見たことがない」と力説する。

「『あなたは、書類の配分を見ていたではありませんか。あれは、ごく近しい関係者以外は、だれも見ていてはならないことなんです。ここの主人やお内儀であるわたしたちでさえ、わが家でありながらまだ見たことがないのですよ。ただそれとはなしに話に聞かせてもらうだけです。たとえば、きょうも従僕から聞きました。あなたは、きょうの書類分配がどのような困難な状況のもとでおこなわれたかをお気づきにならなかったようですね』」(カフカ「城・P.459」新潮文庫 一九七一年)

役人たちの「書類分配」について「まだ見たことがない」という状況。「見たことがない」という状況を放置しておくとたちまち「見てはいけない」になりタブー化される。タブー化された「見てはいけない」という状況は、しかし事実だろうか。まるで事実でない。タブー化されている《かのように》見えるというばかりに過ぎず、少なくとも明文化されていない。もし何らかの事情に関し異議申し立てがあった場合、たちどころに司法が介入する余地は十分に残っている。ところがこの「見てはいけない」という言葉はすでに<掟>として君臨してしまっている。<掟>と化した「見てはいけない」という言葉は「もし見た場合ーーーどういうことになるか」という脅迫的意味を含む。スターリニズムは城の全機構に隈なく浸透しているというわけだ。お内儀は続ける。Kがあたかも自分の息子ででもあるかのように精一杯説得しようと必死になる。

「『あらゆる困難の根本原因がどこにあるかを、あなたはすこしも感づいていらっしゃらなかったのですか。それはね、あの分配がほとんどドアをしめたきりでおこなわれなければならず、お役人がたどうしが直接交渉なさることができなかったという点にあるのですよ。直接に交渉なされば、もちろん、たちどころに話がつくでしょう。ところが、従僕を介してとなると、ほとんど何時間もかかってしまいますし、苦情は出るし、お役人にとっても従僕にとっても悩みの種で、たぶんその後の仕事にもよからぬ影響をおよぼすにちがいありません。ところで、お役人がたは、なぜおたがいどうしで交渉できなかったのでしょうか。へえ、あなたは、これだけ申しあげてもまだおわかりにならないのですか。いままでいろんな片意地な人も相手にしてきましたが、こんな人は初めてですわ(と、お内儀が言うと、亭主が相槌(あいづち)を打った)。普通ならとても口にはできないようなことまでも、あなたにははっきり言ってあげなくてはならないのですね。でないと、あなたは、最も肝要なこともおわかりにならないのですもの。ではね、どうしても言っておかなくてはならないことは、つぎのことです。つまり、お役人がたが部屋から出られなかったのは、あなたがいらっしたためです、もっぱらそのためだけなんです』」(カフカ「城・P.459~460」新潮文庫 一九七一年)

ここでお内儀はKが廊下で見ていたために役人たちの仕事に支障が出たといってKを責めている。だがしかし重要なのはそういうことに限った事情だけなのだろうか。決してそうではない。もっと遥かに重要なのは、手続きのために必要な段取りが《伸び縮みする》ということだ。バルナバスがよく知っているように、城内部の柵(さく)は<可動的>だという事情。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫 一九七一年)

現在の中国を含めたソ連型スターリニズム、日本の官僚主義的資本主義、生存可能性を求めて殺到する難民たちを延々と足止めしたりすんなり受け入れたりする伸縮自在のアメリカ型ご都合主義的資本主義。今やいずれのケースに当てはめてみても十分比較検討できるほど「城」の機構はどれにも恐ろしく似ている。なるほどクラムが絶対的《王》の位置にいるとされてはいるけれども、そもそもクラムという人物が本当に存在するのかどうか誰にも確信が持てない。さらにフレイザーが日本の天皇について述べているように、実際のところ、絶対的《王》ほど窮屈の立場もそうないに違いない。二箇所引用。

(1)「彼(ミカド)は、自分の足を地面につけることが、自らの権威と聖性を大いに侵害するものであると考えている。このため、どこへ外出するにも、男たちの肩に乗せて運ばれなければならない。ましてや、戸外の空気にこの聖なる人間を曝すなどもってのほかであり、日の光はその頭に降り注ぐ価値などないと考えられている。身体のあらゆる部分に聖性が宿ると考えられているため、あえて髪を切ることも髭を剃ることも爪を切ることもしない。しかしながら、あまりに不潔にならないよう、彼は夜眠っている間に体を洗われる。なぜなら、眠っている間に身体から取り去られたものは、盗まれたものであって、そのような盗みは、その聖性や権威を害することにはならないからである。太古の時代には、彼は毎朝数時間玉座についていなければならなかった。皇帝の冠をかぶり、ただ像のようにじっと座っている。手足も頭も目も、それどころか身体のいかなる部分も動かすことはない。これは、自らの領土の平和と安定を保つことができるのは彼自身と考えられたからで、不運にも体の向きをどちらかに向けたりすれば、あるいはまた領地のいずこかの方角を長時間眺めていたりすれば、国を滅ぼすほどの不作や大火もしくはなんらかの大きな災いが間近に迫っている、と解釈されたからである」(フレイザー「金枝篇・上・第二章・第一節・P.165~166」ちくま学芸文庫 二〇〇三年)

(2)「早くから日本のミカドたちは、至上の権力という栄誉と重荷を自分の幼い子どもに譲り渡すという、便宜的な手段に訴えていたらしい。この国で長く俗世の権力を握ることになる大君〔将軍〕が登場したのも、あるミカドが三歳の息子のために自ら退位したことが原因である。ひとりの簒奪者が、ミカドとなった幼い皇子からその主権をもぎ取った。そこでミカドの大義を擁護したのは、気骨と実行力に富む男、〔源〕頼朝であった。頼朝はその簒奪者を倒し、ミカドにその『影』を回復してやった。つまりは権力という『実体』を、頼朝自身が確保したのである。頼朝は自らが勝ち取った権威を子孫に譲り、こうして代々に亘る大君の創始者となった。十六世紀後半にもなると、大君は実行力のある有能な統治者となった。だが大君たちも、ミカドのそれと同じ運命に見舞われる。大君が、同様に慣習と法の入り組んだ網の目に捕らえられ、単なる傀儡に堕し、城から動くこともなくなり、永遠に続くかのごとき空虚な宴に明け暮れる一方で、実質的な行政は、国策会議によって執り行われたのである」(フレイザー「金枝篇・上・第二章・第一節・P.173~174」ちくま学芸文庫 二〇〇三年)

王という権威はあっても単なる思いつきで好き勝手に行動するわけにはいかない。ましてや王の権威が高ければ高いほど王は不用意に動くことができなくなる。春秋戦国時代に書かれた古代中国の古典が語っている通りだ。王になるより王の権威を傘にきた側近の側を選ぶほうが断然面白いということは子供たちがよく知っている。かつてカフカは次のような短編を書いた。

「王となるか、王におつきの使者となるか、選択を申し渡されたとき、子供の流儀でみながいっせいに使者を志願した。そのため使者ばかりが世界中を駆けめぐり、いまや王がいないため、およそ無意味になってしまったお布れを、たがいに叫びたてている。だれもがこの惨めな生活に終止符をうちたいのだが、使者の制約があってどうにもならない」(カフカ「使者」『カフカ寓話集・P.63』岩波文庫 一九九八年)

これはもはやクラムがいなくなった世界である。ではどこの誰に責任があるのか。むろん絶対的責任者という確固たる人物はもうどこにもいない。絶対的「個人」というものはあり得ない。「個人」というのは各々の頭の中でだけ主観的に存在することができるただ単なる観念に過ぎず、社会的にはグローバル資本主義的諸関係の所産としてしか存在しない。もはや「個人」はどこまでも可分的な<諸断片>の寄せ集め〔モザイク〕でしかないからである。だからといって責任まで雲か霞のように消え失せてしまうわけではまるでない。日本だと様々な下請け企業が存在する。一次下請け二次下請けのみならず大型公共工事や原発利権の周囲には三次下請け四次下請けと数限りなく下請けの系列を投入することができる。三次下請け四次下請けとなるともはや最高責任者が誰かなどわかりようがない。ただ現場の指示に従うほかないとしか言いようがない。

今なおフクシマで原発汚染水処理に従事している最底辺労働者にとって最高責任者が誰かなどもはや誰も口にしない。無駄だからということもある。日本政府が国策として始めた事業だということは誰もが理解してはいるのだが、労賃を得るためには労働に従事しなくてはならない。過酷な労働現場で一日を終えるともうその日は力尽きてしまう。手にした労賃で飯を食って体の調子を整える。しかし現場で働けば働くほど自分の体は原発汚染水のダメージを受ける。そしてまた飯を食って体調を整え現場に出る。そのぶん再びダメージを受ける。体力が弱った順に死んでいく。その繰り返し。民間企業であろうと官僚組織であろうといずれにせよ、正当な手続きを取ろうとするや否や、そのために必要な段取りが《伸び縮みする》というカフカ的世界が出現する。ネット社会ではこの繰り返しがますます加速しつつある。だからといって世界がインターネットを手放すことはもうできない。

バロウズは書いている。あまりにも「非能率的」な身体について。

「人間の身体はまったく腹立たしいくらい非能率的だ。どうして調子の狂う口と肛門のかわりに、物を食べる《とともに》排出するようなすべての目的にかなう万能の穴があってはいけないのだ?鼻や口は密閉し、胃は詰め物をしてふさぎ、どこよりも第一にそれはそうあるべきはずの肺臓にじかに空気孔を作ることができるはずだ」(バロウズ「裸のランチ・P.183~184」河出書房新社 一九八七年)

もっともな話である。そして資本主義はすべての組織体に関してその通りの過程を歩ませることに成功した。ところがいつものように逆説が発生してきた。世界的ネット化にもかかわらず、むしろますます煩雑化する日頃の経済的やりくりと貧困格差の暴発的広がりという逆説が。ドゥルーズはいう。

「特に深刻な問題のひとつが労働組合の無能である」(ドゥルーズ「記号と事件・政治・追伸ー管理社会について・P.366」河出文庫 二〇〇七年)

カフカの長編「アメリカ」でニューヨークへ到着したカールのことを思い出そう。カールを乗せた船はなるほど港へ入港しはした。しかしその船はそこから動いただろうか。一つも動いていない。着岸していない。カールは船内でばったり伯父に出会い、船からボートに移し換えられて伯父と二人でゆらゆら揺れる海の波を眺めながらようやく陸地に上がることができた。最初「火夫」という短編で発表された小説だが「アメリカ」としてまとめられた後も、文庫本にして約五十頁以上、カールの乗った船はまったく動かず湾内に停泊しているばかりだった。ボートに移し換えられなかったらそのままヨーロッパへ舞い戻ることになっていたに違いない。それではまるで無意味な船旅に時間を費やしただけということになっていただろう。ドゥルーズが指摘する「労働組合の無能」さ。それはカールを乗せた動かない船のように、労働組合としてはもはや無意味という意味で深刻過ぎる問題なのだ。

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