白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<訴訟>としてのKへの変換

2022年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
叔父に紹介されたフルト弁護士に何度か会ったK。その時の様子を思い返しているKについてカフカは「訴訟のことがもう頭から離れなくなっていた」と述べる。Kはもはや<訴訟を欲望している>としか思われないかのようだ。銀行の自分の事務室でKはフルト弁護士の印象を回想しているわけだが、何度会っても訴訟が進展していきそうな手応えが得られないことを確信するようになる。フルト弁護士がKに話して聞かせる話は結局のところ同じことの繰り返しで、まるで訴訟に勝利するためには何一つ役立ちそうにないからだ。だが「城」の読者にとってはたった一行さえ見逃せそうにない話であり、両者の共通点に驚愕するほかない。とはいえ「訴訟」のKと「城」のKとはあくまで別人。ではなぜカフカは別々の小説であるにもかかわらずまるで同じような長々しい説明を繰り返した描いてみせたのか。フルト弁護士の発言から四箇所ばかり拾ってみよう。

(1)「K、あなたもその目で見たろうが、役人たち、その中にはまさに高位の者もいる役人たちが自分からやってきて、情報を、あけっぴろげなあるいは少くとも容易に解釈できる情報をすすんで提供してくれたり、訴訟の次の段階について話してくれたり、その上個々のケースについては人の話にも耳を傾けてくれるし、他人の見解を受け入れてさえくれるのだ。言うまでもなくこのあとの点ではあまりかれらを信用するわけにはいかないがね。たとえかれらがいくらきっぱりと新しい、弁護のために有利な意図をうちあけてくれたところで、いったんまっすぐ事務局に帰ってしまえば、翌日のためにまるで違う決定を下すかもしれないのだ、まさに正反対といっていい内容の、被告にとってかれらの最初の意図ーーーさっきは完全にそれはもう捨てたと言っていたものだーーーよりずっときびしいかもしれぬ決定をね。それにたいしてはもちろん防ぎようがない。なぜなら二人のあいだで言われたことは、まさに二人のあいだで言われたことにすぎず、公(おおや)けの結論というわけではないからだ。弁護側としてはこれらの人びとの恩恵にあずかろうと努力するしかすべがないのではあるけれども」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.164~165」新潮文庫 一九九二年)

そういうことはあるかも知れない。役人が「いくらきっぱりと新しい、弁護のために有利な意図をうちあけてくれたところで、いったんまっすぐ事務局に帰ってしまえば、翌日のためにまるで違う決定を下すかもしれないのだ、まさに正反対といっていい内容の」。しばしばあるのだろう。その時はその時で反論すればいいのではとKは思うかもしれない。しかし弁護士の話はこう進む。

(2)「裁判所の序列と昇進は無限であり、事情通にさえ見通しがたいほどだ。ところが法廷での訴訟手続は一般に下級の役人にも秘密にされるから、自分の手がけている事件でもそれが先行きどう展開するかかれらにさえ完全にはわかるためしがなく、従ってどの裁判事件でも、それがどこから来たのかわからぬままかれらの視野に現れ、どこへ行くかわからぬうちに進んでゆくことになる。つまりこれらの役人たちは、訴訟の一つ一つの段階、最後の決定、その理由などを研究すれば汲(く)みとることのできる教訓さえ逃してしまうわけである」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.166」新潮文庫 一九九二年)

極めて重要な論点が二つ上げられている。

(a)「裁判所の序列と昇進は無限であり、事情通にさえ見通しがたい」点。

(b)「どの裁判事件でも、それがどこから来たのかわからぬままかれらの視野に現れ、どこへ行くかわからぬうちに進んでゆく」点。

とすれば責任者はいったいどこの誰なのか。「城」の官僚機構について述べた弟バルナバスから聞かされた姉オルガの言葉を思わせる。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫 一九七一年)

城の官僚機構の責任者は「クラム」なのか。それとも「クラム」と呼ばれている高級官僚はどれほど探してみたところで実際には存在せず、人物の<代わり>にその神話的言説ばかりが村全体を覆い尽くしてしまっているに過ぎないのか。しかしKは明らかにクラムと会わなければならない立場に置かれている。しかしバルナバスのいうには役所の各部屋には「柵(さく)」が設置されていて、さらにこの「柵」だが、「訴訟」のフルト弁護士の言葉に置き換えれば「無限であり、事情通にさえ見通しがたい」。<可動的>なものだ。それならどれほど大量の柵を乗り越えたところで次の段階へ進むはずの柵一つ乗り越えたことにならないではないか。いったん陥ったら二度と出られない蟻地獄のようだ。もしかしてKはそんな訴訟へ向けて自ら欲望しているのだろうか。

また次の観点はフルト弁護士が裁判制度改革の無意味性と危険性を述べる箇所だが、なぜ無意味で危険なのか、極めて今日的な事情について物語るものになっている。第一に常識的前提として資本主義社会は「永遠の浮動状態にあるということ」。常に変動相場制だということをよく承知しておかねばならない点。しかし第二に裁判組織は訴訟のたびに自分で自動的に新しく学習する機械装置でもある点が上げられる。

(3)「この巨大な裁判組織はいわば永遠の浮動状態にあるということをこそ見抜こうとしなければならないのであって、従って自分の場所で独力でなにかを改革したとしても、それはあたかも足許(あしもと)から地面をとり去って自分が墜落するようなものであって、一方かの大きな組織のほうはそんな小さな妨害にたいしては容易に別の場所でーーーなにしろすべてがつながっているのだからーーー補いをつけてしまい、相変らず少しも変ってなぞいないのである、むしろ、そのほうが実際ありそうだが、相手は前よりもっと閉鎖的に、もっと注意深く、もっときびしく、もっと悪辣(あくらつ)になっているのが関の山なのだ」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.168」新潮文庫 一九九二年)

この第二の点、抵抗を示す訴訟相手に対して「組織のほうはそんな小さな妨害にたいしては容易に別の場所でーーーなにしろすべてがつながっているのだからーーー補いをつけてしまい、相変らず少しも変ってなぞいないのである、むしろ、そのほうが実際ありそうだが、相手は前よりもっと閉鎖的に、もっと注意深く、もっときびしく、もっと悪辣(あくらつ)になっているのが関の山」だという事情は<可動的>な柵の存在と同様、今のような世界的ネット社会における自動機械的学習能力についての論理へ容易に変換することができる。抵抗するのはよくないというわけではまるでない。そうではなく、抵抗すればするほど両者ともに学習し合うことになり、訴訟というより次々と引き続く学習戦争へ置き換えられてしまう転倒について語られている。ドゥルーズ=ガタリがいうように。

「現代的戦略は、海から新しい平滑空間としての空へ、そしてまた砂漠あるいは海と見なされた地球全体へと及ぼされる。方向転換器にして捕獲器である国家は運動を相対化するだけでなく、再び絶対運動を与えるのである。国家は平滑から条里にいたるだけでなく、平滑空間を再構成し、条里空間の果てに平滑空間を再び与える。まさにこの新しい遊牧性は、世界的規模の戦争機械をともなうのである。それは国家装置を越える組織をもち、多国籍的、エネルギー的、軍事・産業的複合体に取り込まれる。このような事実は次のことを示している。すなわち、平滑空間と外部性形式は必ず革命的使命をもつというわけではなく、どんな相互作用の場に取り込まれるか、どんな具体的条件の下で実行され成立するかによって、極端に意味を変えてしまうということである(たとえば総力戦や人民戦争あるいはゲリラでさえも、おたがいに戦争の仕方を学び合っているという事実がある)」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・十二・遊牧論あるいは戦争機械・P.83」河出文庫 二〇一〇年)

もはや「総力戦」の形態はまるで違ったものになっている。同程度のレベルで戦い合い学び合うAI戦争がそれであり、示威行動として軍事的な実践的実験を行なって見せるやあちこちで増殖し関連する情報をたちまち集積し、さらに分析し、果てしない世論誘導へ接続していく。原爆の大量生産以降、核爆発を応用した実質的「総力戦」は人類破滅を意味する。だから今は新しい「総力戦」として情報戦争(あるいは情報破壊戦争)が出現し「技術戦」としてサイバー攻撃が戦われている。なるほど人間も被害者としては多少死ぬかもしれないが、先進諸国の国家的指導者層が戦場で死ぬことはほぼ確実にない。というよりそもそも現代の「戦場」とはいったいどこのことを言うのか。誰にも特定できなくなってきたからである。

またフルト弁護士は弁護士の必要性を力説しつつ同時に弁護士の無用性を力説してもいる。この事情はとりもなおさずKを失望させるに十分な説明だ。

(4)「訴訟がもはや弁護士のついてゆけないような方向をとることは、まま起ることがある。訴訟も、被告も、すべてのものが、ひょいと弁護士からとりあげられてしまう。そういうときは役人たちへの最良の《つて》も何の役にも立たない、かれら自身なにも知らないのだから。まさに訴訟が一つの決定的段階に入ったのである。もはやいかなる助力もなすわけにゆかず、訴訟は手のとどかぬ法廷に移され、被告にさえもはや弁護士が近づけぬような段階に。そういうときのある日家に帰って、机の上にたくさんの請願書類が残らずのっているのを見た気持はどうだろう。それらはすべて彼が全力を傾け、この事件にたいする明るい希望のうちに作りあげたものだ。それがいま裁判の新しい段階に持ち込むことが許されなくなったのでつっ返してきた、すべて一文の値打ちもない反故(ほご)になってしまったのだ。といって訴訟はまだ敗(ま)けときまったわけではない、決してそんなことはない。少くとも敗けと想定する決定的な理由はない。ただ訴訟についてもはや何もわからなくなり、今後ともそれについて知ることはないだろうというだけだ。ともあれそんな場合はさいわいごくごくの例外であって、仮にあなたの訴訟がそういった場合の一つだとしても、目下のところはそんな段階からはまだ遠く距(へだた)っている」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.170~171」新潮文庫 一九九二年)

フルト弁護士は驚くべき事態の発生をさも当り前のことのように告げている。「訴訟がもはや弁護士のついてゆけないような方向をとることは、まま起ることがある。訴訟も、被告も、すべてのものが、ひょいと弁護士からとりあげられてしまう」。手前勝手にそうなるのならそれは間違いなく司法による意図的犯罪である。だがフルト弁護士は「訴訟も、被告も、すべてのものが、ひょいと弁護士からとりあげられてしまう」ことが「まま起る」という実際の経験を語っている。偶然にもそのようなあり得ない事態が「まま起る」。偶然的な事態が必然的に発生するのだと。メイヤスーはいう。

「いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない。世界の事物についても、世界の諸法則についてもそうである。まったく実在的に、すべては崩壊しうる。木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則も、である。これは、あらゆるものに滅びを運命づけるような高次の法則があるからではない。いかなるものであれ、それを滅びないように護ってくれる高次の法則が不在であるからなのである」(カンタン・メイヤスー「有限性の後で・第三章・P.94」人文書院 二〇一六年)

Kはもはやフルト弁護士を信用するわけにはいかないと考え、自分で請願書制作に取りかかろうとする。この時すでに「Kは訴訟を起こしている」という文章ではなく「Kは訴訟だ」という文章へ実質的転化を起していることも見逃せない。しかし弁護士を解雇した場合に自分で進めていかなければならない訴訟手続きの煩雑さを思うと気が遠くなりそうな絶望感に襲われる。しかしもうこの時のKは絶望に打ちひしがれているわけではまるでない。逆にKは<絶望を欲望する>自動機械へと変換されている。次にKが想定するシーンは、もし本当にやるとすればほんの少し想像してみただけでまったく狂気の領域に入り込んでいる自分自身の姿を見ることになるだろう。自分の側から連日押しかけて「すべてが組織され監視されねばなるまい」と。Kは監視される側であると同時に監視する側でもある。Kを両方を演じなければならない。Kは両方でありもはや<欲望する監視機械>でもある。

「ひとたび弁護士を厄介(やっかい)払いしてしまったら、今度はただちに請願書を提出しなければならないだろうし、できれば毎日でも裁判所にそれを無視しないようせっつく必要があるだろう。そのためにはもちろん、Kがほかの者たちと同じく廊下に坐(すわ)って帽子をベンチの下に置くだけでは不充分だろう。彼自身か、女たちか、あるいはほかの使いの者が、来る日も来る日も役人のもとに押しかけて、格子(こうし)ごしに廊下を眺(なが)めてなどいないで、じかにかれらの机のそばに坐りこみ、Kの請願書を見るように強(し)いなければならないだろう。そういった努力を一つとしてやめるわけにはいかない、またすべてが組織され監視されねばなるまいが、そうやっていれば裁判所もいつかついに自分の権利を守るべきを心得ている被告にぶつかったと悟る日がくるのではないか」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.176」新潮文庫 一九九二年)

Kは裁判所にまだ何か期待している。自分の実力を十分に出しきって戦うことができれば裁判機構相手に「真実」を見せつけてやることができると。どちらが本物か闘争し合うことができるに違いないと。この瞬間、Kは再びヘーゲル弁証法化している。

「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は《自分の外》に出てきているのである。このことは二重の意味をもっている。《まず》自己意識は自己自身を失っている。というのは、自己意識は、自分が《他方の》もう一つの実在であることに気がつくからである。《次に》、そのため自己意識はその他者を廃棄している。というのは、自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、《他者》のうちに《自己自身》を見るからである。

自己意識はこの《自らの他在》を廃棄しなければならない。このことは最初の二重の意味を廃棄することであるから、それ自身第二の二重の意味である。《まず》、自己意識は《他方の》自立的な実在を廃棄することによって、《自分》が実在であることを確信することに、向って行かねばならない。そこで《次に、自己自身》を廃棄することになる。というのは、この他者は自己自身だからである。

このように、二重の意味の他在を二重の意味で廃棄することは、また、二重の意味で《自己自身》に帰ることである。というのは、《まず、自らの》他在を廃棄することによって、また自己と等しくなるゆえ、廃棄によって自己自身を取りかえすからである。だが『次に』、自己意識は他方の自己意識に自らを取りもどさせる。というのも、自己意識は自ら他方のうちにあったからである。つまり、他方のうちでのこの自らの存在を廃棄し、したがってまた他方を自由にしてやるからである。

だが、他方の自己意識と関係している自己意識のこの運動は、いま言ったように、《一方のものの行為》と考えられていた。とはいえ、一方のもののこの行為は、それ自身、《自己の行為》でありまた《他者の行為》であるという、二重の意味をもっている。なぜならば、他方もやはり独立であり、自分で完結しており、自己自身によらないであるようなものは、他方のなかには何もないからである。初めの自己意識は、さしあたり、欲求に対して在るにすぎないような対象を、相手にしているのではなく、それ自身で存在する独立な対象を相手にしているのである。それゆえ、初めの自己意識がこの対象にしかけることを、この対象が自分自身でもしかけない場合には、自己意識も自分ではその対象に対し何もしかけることはできない。だからこの動きは、端的に言って、両方の自己意識の二重の動きなのである。各々は、自分が行うことと同じことを、《他方》が行うのを見る。各々は、自分が他者に求めることを自分でやる。それゆえ、各々は、他者が同じことを行う限りでのみまた、自分の行うことを行う。起ってくるはずのことは、両方によってのみ起りうるのであるから、一方だけの行為は役に立たないであろう。

したがって、行為が二重の意味のものであるのは、《自分に対する》ものであり、また《他方に対する》ものでもあるという限りでだけのことではなく、分かたれることなく、一方の行為であるとともにまた他方の行為でもある限りでのことである。

この運動においてわれわれは、〔悟性において〕両力のたわむれとして現われた過程が、繰り返されるのを見るわけである。ただし、このここでのたわむれは意識のなかで行われる。前のたわむれの場合には、われわれにとって行われたことが、ここでは両方の極自身〔二つの自己意識〕にとって行われる。媒語〔中間〕は、両極に自ら分裂する自己意識である。各々の極は、その規定態を交換し、その対立極に絶対的に移行する。各々は、意識としてたしかに《自分の外に》出るのではあるが、その自己外存在にいながら、同時に自分にもどされたままである。つまり《自分だけで》ある。そして自らの自己外は《各々の極に対して》いる。各々はそのまま他方の意識《であり》また《ない》ということが、各々に対してある。同じように、この他方は、自分だけで〔対自的に〕あるものとしての自分を廃棄し、他者〔一方〕の自分だけでの有〔対自存在・自独存在〕においてのみ、自分だけでいることによって初めて、自分だけであるということが、各々に対してある。各々は他方にとり媒語であり、この媒語によって各々は自己を自己自身と媒介し、自己自身と結ばれる。各々は、自己にとっても他方にとっても、直接の〔無媒介の〕、自分で存在する実在であり、これは同時にこの媒介によってのみ、そのように自分だけで〔対自的で〕ある〔自分に対している〕。両方は、《互いに他方を認めて》いるものとして、互いに《認め》合っている。承認というこの純粋概念、自己意識をその統一において二重化するというこの純粋概念の過程が、自己意識にとりどういうふうに現われるかということが、ここで考察されねばならない。初めに、この過程は、両方が《等しくない》という側面を表わす、つまり、媒語が両極のなかに歩み出てくることを、両極は極としては対立しているが、一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認するだけであるという形で、歩み出てくることを表わす。

自己意識は、まず、単一な自分だけの有であり、すべての《他者を自己の外》に排除することによって、自己自身と等しい。その本質と絶対的対象は自己意識にとり、《自我》である。自己意識はこの《直接態》において、言いかえれば、自分だけでの〔対自的な・自覚的な〕有という自らの《存在》において、《個別的なもの》である。自己意識に対して他者で在るものは、非本質的な対象として、否定的なものという性格をしるされた対象として存在する。しかし他方もまた自己意識である。一人の個人が一人の個人に対立して現われる。そういうふうに《そのままで》現われるが、互いの間では普通の対象のような態度をとっている。つまり、ともに《自立的な》形態であり、《生命という存在》に沈められたままの意識である。ーーーというのも、ここでは、存在する対象が自己を生命として規定したからである。ーーーそこで、これらの自立的形態、意識は、すべての直接的存在を絶滅するような、また自己自身に等しい意識という、否定的な存在であるにすぎないような、絶対的な抽象化の運動を、まだ《互いに対し》実現してはいない、言いかえれば、互いにまだ純粋な《自分だけでの有》〔対自存在〕としては、すなわち《自己》意識としては現われてはいない。各々は自己自身を確信してはいるが、他者を自分のものとして確信してはいない。それゆえ、自己についての自分自身の確信はまだ真理をもっていない。なぜならば、この真理というのは、自分自身の自分だけでの有〔対自存在〕が、自分にとり自立的な対象として、あるいは同じことであるが、対象が自己自身を純粋に確信するものとして現われる、というような真理にほかならないであろうからである。しかし、いま言ったことは、承認という概念から見て、不可能である。つまり他方が自分に対するように、自分も他方に対し、各人が自分の行為により、また他人の行為によって、自分自身で、自分だけでの有〔対自存在〕に対するというふうな、全くの抽象を敢行するのでなければ、不可能である。

だが、自己を自己意識という全くの抽象作用であると《のべる》ことが成り立つのは、自らを自己の対象的な姿の全き否定として示す点においてである。言いかえれば、いかなる一定の定在にも結びついていないこと、定在一般という一般的な個別性にも、生命にも結びついていないことを、示すことにおいてである。この叙述は、他方の行為と自己自身による行為という《二重の》行為である。だから、行為が《他方の》行為である限り、各人は他方の死を目指している。だがそこにまた、《自己自身による行為》という第二の行為もある。というのも、他人の死を目指すことは、自己の生命を賭けるということを含んでいるからである。そこで、二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの《真を確かめる》というふうに規定されている。ーーーつまり、両方は戦いにおもむかねばならない。なぜならば、ともに、《自分だけである》という自己自身の確信を、他者においてまた自分たち自身において、真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けねばならない。自己意識の本質は《在ること》でもなければ、現われる通りの《そのままの》姿でもなく、また生命のひろがりのなかに沈められていることでもなく、ーーーかえって自己意識には、自分にとって消え去らない契機であるようなものは、何も現にないということ、自己意識はただ《自分だけでの有》〔対自存在〕にすぎないということ、これらのことを保証してもらうためにだけ、生命を賭けるのである。敢えて生命を賭けなかった個人は、《人格》とは認められようけれども、自立的な自己意識として承認されているという真理に達してはいない。同じように、他者はもはや自分自身にほかならないと考えられるから、各人は、自分の生命を賭けるように、他者の死を目指さざるをえない。各人にとり自分の実在が他方の者として現われる。自分の実在は自分の外に在る。そこで各人は自らの自己外有を廃棄せざるをえない。他方の者は、さまざまに束縛された存在する意識である。各人は自分の他在を、純粋の自分だけでの有〔対自存在〕、つまり絶対的否定として直観しなければならない。

だがこのように死によって、真を確かめることは、そこから出てくるはずの真理をも、したがって自己自身の確信そのものをも、同じように廃棄してしまう。というのは、生命が意識の《自然的な》肯定であり、絶対な否定性のない自立性であるように、死は意識の《自然的な》否定であり、自立性のない否定であるからである。だからこの否定は、承認という求められた意味をもたないままである。死によって、両方が自らの生命を賭け、自分でも他者においても、生命を軽んじたという確信が生じているけれども、この確信は、この戦いに堪えた人々にとって生じたのではない。両方の自己意識は、この、自然的な定在である、見しらぬ本質態のうちに置かれた自分たちの意識を、廃棄する、つまり自らを廃棄する。そこで、自分だけで在ろうとする《極》としては廃棄されてしまう。だが、それとともに、対立した規定態の極に分裂する本質的な契機が、交替のたわむれから消えてしまう。そして媒語〔中間〕は死んだ統一のなかに崩壊してしまい、この統一は死んだ、ただ存在するだけの、対立していない極に分裂している。両方は意識によって互いに与えかえされ、受けかえされることなく、物として互いに無関心なままに放任し合っているだけである。両者の行為は抽象的な否定であって、廃棄されたものを《保存し》、《維持し》、その結果自らが廃棄されることに堪えて生きるような形で、《廃棄を行なう》意識の否定ではない。

以上のような経験において自己意識にとっては、純粋に自己意識と同様に生命も本質的なのだということが、この自己意識に明らかになる。直接的〔無媒介〕な自己意識においては、単一な自我が絶対的な対象である。だが、この対象はわれわれにとっては、言いかえれば、自体的には、絶対的な媒介であり、存立する自立性を本質的な契機としている。前に言った単一な統一が解体するのは、最初の経験の結果である。この解体によって、純粋の自己意識と、純粋に自分だけが有るのではなく、他方の自己意識に対して在るような意識とが、措定されている。この後の意識は、《存在する》意識もしくは《物態》という形での意識〔僕〕である。両方の契機はともに本質的である。ーーーつまり、両者は、初め等しくなく、対立しており、統一に反照〔省〕することもまだ起こっていないので、意識の二つの対立した形態として在る。一方は独立な意識であって、自分だけでの有〔対自存在〕を本質としており、他方は非独立的な意識であって、生命つまり他者のための存在を本質としている。前者は《主》であり、後者は《僕》である」(ヘーゲル「精神現象学・上・B-自己意識・四-自己意識の確信の真理・A-自己意識の自立性と非自立性 主と僕・P.219~227」平凡社ライブラリー 一九九七年)

銀行勤務の時間も割いて請願書作成に取りかかれるよう注意深く計画に没頭していくK。始めは「Kと訴訟」に見えていたものが「Kの訴訟」に変換され、訴訟への欲望の増殖とともに「Kは訴訟」へとさらに変換されていく。となるともはや弁証法は限界を破棄し留保を忘却しとどまるところを知らない。弁証法本来のあり方を出現させる。にもかかわらず不可解なことに訴訟はまるで迷路に迷い込んだような方向へ向かう。逃走の線が現れてくるからである。例えばフルト弁護士の重厚長大なばかりで無内容に思える演説の最中にお茶を運んでくるレーニのように。

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