白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・Kを脱出させる<動物>としてのレーニ/視聴者を<処刑機械>へ送り込む現代日本のお茶の間コメンテーター

2022年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム
手の指と指とのあいだに「水掻(みずか)きがついている」レーニ。Kは瞬時に心を奪われレーニにキスする。レーニはKの膝にのぼってさらに近づくと「彼女から胡椒(こしょう)のようなぴりっとする刺戟臭(しげきしゅう)がただよった」。明らかに人間の女性だがKとはまるで違ったタイプの異類である。レーニは人間の姿のまま同時に<動物への変化>を生きている。Kの「上にかがみこんで首にキスしたり噛(か)んだり」するばかりか「彼の髪にまで噛みついた」。

「『なんという自然のたわむれだ』、とKは言って、手全体を一瞥(いちべつ)してからこう付加えた、『なんてかわいらしいけづめだ!』。Kが驚嘆しながら二本の指をひらいたり閉じたりしているのをレーニは一種の誇りがましい様子で眺めていたが、やがてKが彼女にすばやくキスして手を放すと、『まあ!』、と彼女はすかさず叫んだ、『あんたはわたしにキスしたのね!』。口をあけたまま急いで彼女は膝頭で彼の膝によじのぼった。Kはなかば呆(あき)れかえって彼女のするのを見ていたが、いまこれほど身近になると、彼女から胡椒(こしょう)のようなぴりっとする刺戟臭(しげきしゅう)がただよった。彼女は彼の頭を抱きよせ、彼の上にかがみこんで首にキスしたり噛(か)んだりし、ついに彼の髪にまで噛みついた。『あんたはわたしに乗りかえたのね!』、と彼女はときおり叫びをあげた、『よくって、あんたはわたしに乗りかえたのよ!』。そのとき彼女の膝がすべって、かすかな悲鳴とともに彼女はあやうく絨緞(じゅうたん)の上に落ちかかったが、Kが支えようとして抱きあげると、逆に彼女によって引きおろされた。『もうあんたはわたしのものよ』、と彼女は言った」(カフカ「審判・叔父・レーニ・P.155~156」新潮文庫 一九九二年)

レーニは人間の誰もが持っている「野獣性」を思わせずにはいない。ドゥルーズ=ガタリはいう。

「性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.248」河出文庫 二〇一〇年)

レーニはもはや人間なのか動物なのかという二者択一的問いの中にはいない。「《識別不可能性》」の領域にいる。レーニとの性愛を通して融合してしまうKにこれまでなかった別種の逃走の線を与えることができる。「初めはビュルストナー、それから廷吏の細君、それからこの小娘」とKが列挙している<援助者>の系列はどれも人間のままで動物的な「《識別不可能性》」として登場してくる。もっとも、ビュルストナーや下級廷吏の妻はレーニのように「水掻(みずか)きがついている」わけではない。だがビュルストナーは「仕事熱心・芝居好きで帰宅が夜遅い・Kの逮捕の現場の住人」と変貌し、廷吏の妻は「洗濯女・大学生の性奴隷・予審判事の書籍がポルノ雑誌であり訴訟は欲望であることを教える」という機能を演じる。彼女たちに見られる共通性は「砂漠こそおれたちの故里(ふるさと)だ」というジャッカルの言葉だ。場所を変え役割を変え<野生への力>に満ちている。どこへでも自由に逃げ去ることができる。別の道なら幾らでも知っている。限界を廃棄してしまう。

「『人間というのは北方であろうとどこであろうと、同じ流儀でしか考えないのかね。おれたちは殺したりしない。いくらナイルの水があろうとも、洗いきよめるには足るまいぜ。おれたちはやつらの生身(なまみ)を目にしたとたん、一目散に逃げ出すのさ。清らかな大気の中へ、砂漠へと逃げこむのさ。砂漠こそおれたちの故里(ふるさと)だ』」(カフカ「ジャッカルとアラビア人」『カフカ寓話集・P.14』岩波文庫 一九九八年)

さらに砂漠の掃除屋として極めて几帳面にすべてを余さずきれいさっぱり平らげる。廃棄物処理について恐ろしく嗅覚が発達している。

「四人がかりで運んできて、すぐ足元にドンと投げ出した。とたんにジャッカルが声をあげた。一匹ずつ、網でもって引きずられでもするように、地面に這(は)いつくばって、じりじりと近づいてくる。アラビア人を忘れ、憎しみを忘れ、ただただ目の前の屍体に魅惑されて、その首たまにワッと跳びつき、動脈に食らいついた。大火事の中でやみくもに上下している小さなポンプのように、ありとあらゆる筋肉がせわしなく蠕動(ぜんどう)していた。一匹のこらず山をなして屍体に齧りついていた」(カフカ「ジャッカルとアラビア人」『カフカ寓話集・P.19』岩波文庫 一九九八年)

さて、レーニから鍵(かぎ)を受け取り家から外へ出たK。もう帰ったものと思っていた叔父が自動車の中で何時間も待っていた。Kはひどく叱られる。「薄汚い小娘としけこんだきりいくらたっても帰ってこない」と。

「『おまえのために骨身を削っているこの叔父と、おまえのためにぜひ味方につけなきゃならん弁護士と、なによりもあの事務局長、いまの段階でならおまえの事件をいかようにでもできるあの有力なご仁と、われわれは頭をあつめてどうしたらおまえを助けられる相談しようとしてたんだ。わしは弁護士を大事に扱わねばならん、弁護士は事務局長を大事にせねばならん、それならおまえはせめてこのわしの尻押(しりお)しをすべき理由が充分あったはずだ。なのにおまえときたらそうする代りに行ったきりだ』」(カフカ「審判・叔父・レーニ・P.156~157」新潮文庫 一九九二年)

Kが何を考えているのかさっぱりわからないと叔父はいう。Kが陥った訴訟がどれほど困難なものか、Kにはよくわかっていないと執拗に述べ立てる叔父。しかもレーニと二人きりになって無駄に時間潰ししておいて、重要人物たちの援助から逆に遠ざかってしまったではないかと。

「『事務局長は当初予定していたよりずっと長くいたことになったが、とうとう立上がって、別れの挨拶(あいさつ)をし、わしに手助けできなかったのを明らかに気の毒がっておられた。それでもなお考えられぬほどの愛想のよさでしばらくドアのところで待っておられ、それから出ていった。彼が出ていったんでわしはむろんほっとしたよ。なにしろ息が詰まりそうだったからな。病気の弁護士にはすべてがもっとこたえたようだった。あいつが、あの人のいい男が、わしが別れを告げたときは口を利(き)くこともできなかった。おまえはたしかにあの男の破滅に一役買ったんだぞ、おまえが頼らねばならぬ男の死期を早めてしまったんだぞ』」(カフカ「審判・叔父・レーニ・P.157」新潮文庫 一九九二年)

叔父の力説によってKはふと或る事情を思い起こす。そもそもKはなぜ叔父の怒りを理解できるのか。短編「流刑地にて」で「処刑機械」が出てくる。将校は大変時間をかけて機械の仕組みを力説する。説明が進めば進むほど、とうとう将校自身が丸裸になり自ら「処刑機械」の中に入って自分で自分自身を処刑して見せる。

「歯車が軋んだのか?そうでもなさそうだった。《製図屋》の蓋がゆっくりともち上がり、つぎには音高く全開した。歯車のギザギザの部分がのぞいて、ゆっくりともち上がり、つづいて歯車全体があらわれた。まるで何かある大きな力が《製図屋》を圧しつぶし、歯車が押し出されたようだった。歯車は廻りながら《製図屋》のはしにきて、落下し、しばらく砂に立っていたが、そのうちパタリと倒れて動かない。とみるまにすでに次の歯車があらわれていた。大きなのや小さなのが次々と数かぎりなくあらわれて、同じように次々と落下し、しばらく砂の上に立っていたかとおもうとパタリと倒れて静止するのだ。一つがあらわれるたびに、それでもって《製図屋》の中がもう空(から)になったと思うのだが、つづいて新しいのがあらわれる。やがていろんな歯車の組み合わされたのがあらわれた。一組が落下し、砂の上で廻って静止したかと思うと、また別の一組があらわれた。囚人はすっかり夢中になっていた。我を忘れ、歯車が顔を出すたびに摑みとろうとして兵士に声をかけ、手助けをたのむのだが、そのつど、あわてて手を引っこめた。別の歯車がニョキリとあらわれるからだ。歯車がまだ廻っている間は、へっぴり腰で手出しをしない。一方、旅行家はひどく不安になっていた。機械はあきらかに壊れかけており、軋み一つしないのはまやかしだった。将校はもはやわが身の世話もできないのだから、自分が面倒をみなくてはならないような気がした。歯車の落下に気をとられていて、ほかの部分に注意を払わなかったのだが、最後の一つが《製図屋》からころがり出たのを見さだめてから《まぐわ》をのぞきこんだとき、ギョッとした。《まぐわ》はいまや文字を書かず、ただ突き立っているのだった。《ベッド》はもはやからだを反転させず、針が深々と刺さるように、からだをたえず上へと震えながらもち上げているのだ。旅行家はなんとかしたかった。なろうことなら機械を停止させたかった。これは将校が意図していたような拷問ではなく、単なる殺人にほかならないのだ。旅行家は手をさしのべた。このとき《まぐわ》が、いつもなら十二時間目にすることをやらかした。からだをグサリと刺し貫いたとおもうと、穴の上にせり出した。血が無数の筋を引いて流れていた。水が傷口を洗わない。水の管も故障していた。最後の機能も麻痺していた。針はからだを刺し貫いたまま、はなそうとしないのだ。血が勢いよくふき出していた。将校のからだは穴の上に浮いたまま落下しない。《まぐわ》は元の位置に戻りかけたが、まだ役目を終えていないことに気づいたように、そのまま穴の上で停止した。『手伝うんだ!』。旅行家は兵士と囚人に声をかけ、自分でも将校の足をつかんだ。自分は足に体重をかけ、兵士と囚人が頭をもって引き下ろす。そうやって徐々に針からからだを取りはずすつもりだった。しかし、兵士も囚人も近よってこようとしないのだ。囚人はクルリと背をむけた。旅行家は駆けよって、力ずくで二人に将校の頭をもたせた。その際、心ならずも死人の顔をみてしまった。生きているときと同じ顔だった。約束されていたはずの浄化の表情など、どこにもなかった」(カフカ「流刑地にて」『カフカ短編集・P.96~98』岩波文庫 一九八七年)

Kが思い出したのは自分が置かれている事情だけでなく、限度を失って延々と繰り返されるばかりの同じ処刑シーンである。それはKの訴訟には限界がなく、何度も執拗に繰り返されるばかりで、いつまでも延々繰り延べされていくしかない、自分の精神のうちへ内在化された監視管理環境のことだ。Kの立場とはそういう処刑機械の中へ放り込まれ、最終的結審というものを持たない世界を漂流していくことしか知らない立場である。今のウクライナや沖縄、原発立地自治体など、「援助金・交付金ほど怖いものはない」という言葉を現実に生きている地域社会の出身者なら完全な忘却=<死>によってしか忘れることのできない官僚主義的政治暴力。スターリニズムを思わせずにはおかない。

<全体主義・ファシズム・トランプ主義的新自由主義>。それらいずれもが雑居し合っている今の日本。年齢性別国籍を問わず「北京冬季五輪」の話題に逃げ込んで見せていても実際は「加速主義的経営コンサルタント」でしかないマスコミ(特にテレビ)のコメンテーターばかりが幅を利かせていたりする。信じがたい世論がますます日本を周回遅れにさせていく光景。

しかもなおつい先日終わったばかりの「東京五輪」に関する公共放送局による「字幕捏造疑惑」や監督自身による「東京五輪は日本国民の総意」という驚くべき世論誘導発言など。「東京」の総括もできていないうちにもう「北京」がどうしたこうしたと出場選手の話題を焦点化してカメラの前で笑顔を振りまいて見せる破廉恥この上ないインテリ層。彼ら彼女らはもはや人間を捨てて「城」や「審判」のKを処刑機械の中に送り込んだまま延々と流血させて悦びにふるえている自動機械としか映っていないし実際そうだとしか考えようがない。だがしかしそれもまた彼ら彼女らにとっては何ものにも代え難い美味な<欲望>の一つなのかもしれない。予審判事の書籍が三文ポルノ雑誌であり、なるほど<見せかけ>は法なのだが<法>のあるところに実は<欲望>があり、従って<法は欲望>にほかならないと知らせる「洗濯女」と日本の彼ら彼女らインテリ層と、比較すれば「洗濯女」の側が断然<まとも>に見える。視聴者の側は不審感ばかり押し付けられますます怠惰と退屈に満ちたニヒリズムの中へ陥っていく。

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