或る朝目覚めると、まるで身に覚えのない罪を着せられ「逮捕」されたK。逮捕しに来た監視人はフランツとヴィレムの二人。Kは不愉快この上ない。それでもとにかく逮捕するというのなら「逮捕令状」を提示してほしいとKは主張し、K自身の側は自分の「身分証明書」を提示する。Kの態度はあくまで冷静。しかしそれはKが優秀な銀行員であるということとは関係がない。どれほど成績優秀な銀行員であろうとなかろうと途端に落ち着きを失ってじたばたするしか差し当たりやることを思いつかない人々が幾らでもいるように。
またなぜかはわからないが面白いことに、監視人たちはKに向かって、逮捕された以上おとなしく監視人の言う言葉に従っていればそれでいいのだといいながら、監視人たち自身はKの部屋にあるパンに勝手に蜂蜜を塗ったりコーヒーを淹れたりしている様子である。監視人に与えられた義務はKの逮捕並びに監視だということはわかりはする。けれどもKの所持品を手前勝手に取り扱ってもよいという権利はないはずなのだが。
「『どうしてぼくが逮捕されたなんてことがあるんだ?しかもこんなやり方で』。『やれやれ、またむし返すのか』と、監視人は言って、バタパンを蜂蜜(はちみつ)の壺(つぼ)にひたした、『こんな質問に答えるわけにはいかん』。『いや、いずれ答えることになるだろうよ』と、Kは言った、『ここにぼくの身分証明書がある、さあこんどはあんた方のを見せてもらおうか、とくに逮捕令状を』。『なんてこった!』、と監視人は言った、『これほどまでに往生ぎわが悪いとは。どうやらおれたちをいたずらに怒らせたくて仕方がないらしいな、いまやあんたのご立派なお仲間のうちで一番あんたの身近にいるおれたちを!』。『そうだ、こいつの言うとおりだ』、とフランツは言って、手にしたコーヒー茶碗(ぢゃわん)をすぐには口に運ばず、Kを、どうやら意味深長らしい、しかしわけのわからぬ目付きで、ながいこと見つめていた。Kはその気もないのにフランツと視線の対話をするはめにまきこまれてしまったが、それからやはり書類を叩いて言った、『ここにぼくの身分証明書がある』」(カフカ「審判・逮捕・P.17~18」新潮文庫 一九九二年)
Kは自分の身分証明書を提示する。そうすれば監視人たちも逮捕令状を提示しなければならなくなるのが道理だからだ。ニーチェはいう。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)
その限りでKの行動は極めて正しい。ところがKが提示した正当的手続きにもかかわらず監視人は次のように述べてKの立場を崩壊させてしまう。
「『それがどうしたっていうんだ?』と大きいほうの監視人はいまやどなりだす有様だった、『あんたはまったく子供より始末が悪いぞ。いったいどうしてもらいたいんだ?おれたちはただの監視人だ、そのおれたちと身分証明書だの逮捕状だのと議論をして、この厄介(やっかい)な大訴訟に少しでも早く決着をつけようというのかね?おれたちは下(した)っ端(ぱ)の傭(やと)い人だ、身分証明書のことなぞ見たってわかりはしない、おれたちは毎日十時間あんたを見張って、その分の手当てを貰いさえすれば、それ以外あんたの事件とはなんの関(かかわ)りもないんだ。それが全部だ。全部だがしかしそのおれたちでさえ、おれたちの仕えるお役所がこんな逮捕を行う以上は、事前に逮捕の理由とか逮捕される者の身許(みもと)とか、くわしく調査してあることぐらい見抜く力はある。その点に間違いなぞあるわけがないのだ。おれたちの役所は、おれの知るかぎり、といってむろん一番下の階級しか知らないが、住民の中に罪を捜したりはしない、そうじゃなくて、法律にもあるとおり、いわば罪にひきつけられておれたち監視人を派遣せずにいられなくなるんだ。そのどこに誤りがあるというんだ?』。『そんな法律なぞ、ぼくは知らないね』、とKは言った。『知らなければなおさらよくない』、と監視人は言った。『そいつはさぞかしあんた方の頭のなかにだけある法律なんだろうな』、とKは言った。彼はなんとかして監視人たちの考えのなかにしのびこみ、それを自分の有利にしむけるか、あるいはそれに同化しようとした。しかし監視人は突き放すようにこう言っただけだ。『いずれ身をもって思い知らされるさ』。フランツも口をはさんで、『見ろよ、ヴィレム、この男は法律を知らないと認めておきながら、そのくせ自分は無罪だと言い張ってるぜ』」(カフカ「審判・逮捕・P.18~19」新潮文庫 一九九二年)
監視人たちはいう。「おれたちは下(した)っ端(ぱ)の傭(やと)い人だ、身分証明書のことなぞ見たってわかりはしない、おれたちは毎日十時間あんたを見張って、その分の手当てを貰いさえすれば、それ以外あんたの事件とはなんの関(かかわ)りもないんだ。それが全部だ」。けれども監視人たちがそう言えるのは次の事情が正当性を有している限りでしかない。「役人・監視人・K」との<あいだ>を「逮捕」という形式で繋ぐことのできるいかなる因果関係も始めから存在しないという事情である。さらにニーチェから。
「ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの《圧服》であり、《支配》である。そしてあらゆる圧服や支配は、さらに一つの新解釈であり、一つの修整であって、そこではこれまでの『意識』や『目的』は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。ある生理的器官(乃至はまたある法律制度、ある社会的風習、ある政治的慣習、ある芸術上の形式または宗教的儀礼の形式)のもつ《功用》をいかによく理解していても、それはいまだその発生に関する理解をもっていることにはならない。こう言えば、旧套に馴れた人々の耳には随分と聞きづらく不快に響くかもしれない、ーーーというのは、古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見る《ために》作られ、手は摑む《ために》作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰する《ために》発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有する者を支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの《標証》にすぎない。従ってある『事物』、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し交替するだけである。してみれば、ある事物、ある慣習、ある器官の『発展』とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力と負担とで達せられる《進歩》ではなお更ない。ーーーむしろ、事物乃至は器官の上に起こる多少とも深行的な、多少とも相互に独立的な圧服過程の連続であり、同時にこの圧服に対してその度ごとに試みられる反抗であり、弁護と反動を目的とする思考的な形式変化であり、更に旨く行った反対活動の成果でもある。形式も固定したものでないが、『意味』はなお一層固定したものでない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十二・P.88~90」岩波文庫 一九四〇年)
というふうにそもそも因果関係はばらばらだ。ゆえにどのような因果関係をも接続したり切断したり別のものと再接続したり、何度でも繰り返し運用することができる。カントはこの事情をヒュームから知った。
「ヒュームは、形而上学だけにある唯一の、しかしこの学にとって重要な概念ーーーすなわち《原因と結果との必然的連結》という概念(従ってまたそれから生じる力及び作用の概念等)を、彼の考察の主たる出発点とした。そして彼は、この〔因果的連結の〕概念を自分自身のうちから産出したと称する理性に対して弁明を要求した、つまり理性は、何か或るもの〔原因〕が設定されるとそれによってまた何か他の或るもの〔結果〕が必然的に設定されると言うが、しかし理性はいかなる権利をもって、最初の何か或るものがこのような性質をもち得ると思いなすのか、と問うのである、なぜならーーーこれがすなわち原因の概念だからである。ヒュームの証明はこうである、ーーー概念だけからアプリオリにかかる〔因果的〕結合を考え出すことは、理性にはまったく不可能である、この結合は必然性を含むからである、とにかく何か或るものが存在するからといって、何か他の或るものまでが存在せねばならぬという理由や、それだからまたかかる必然的連結の概念がアプリオリに導入せられるという理由は、まったく理解できないことである。ヒュームのこの証明は、反論の余地のないものであった。ついでヒュームは、このことから次のように推論した、ーーー理性は、〔必然的連結という〕この概念をもって、みずから欺いているのだ、かかる概念は想像力の産んだ私生児にすぎないのに、理性はこれを誤って摘出子と認めているのである、或る種の表象の連想の法則を適用し、そこから生じる主観的必然性すなわち習慣を、〔アプリオリな〕洞察にもとづく客観的必然性とすり換えたのである、と。更にまたヒュームは、こうも推論したのである、ーーー理性は、このような必然的連結を、一般的にすら考える能力をまったく持合わせていないのである、そうだとしたら、かかる事柄に関する理性の概念なるものは、単なる仮構にすぎないであろう。そして理性がアプリオリに存立する認識と称するものは、けっきょく偽印(にせいん)を捺(お)した普通の経験でしかないだろう、と。彼のこの推論はーーーおよそ形而上学なるものは存在しない、またいかなる形而上学も存在し得るものではない、と言うに等しい」(カント「プロレゴメナ・P.14~15」岩波文庫 一九七七年)
だからといってもう議論など何一つ必要ないのか。そうではない。カントがわざわざヒュームを持ち出した理由は、事情がヒュームのいう通りであるならかえって逆に議論する必要性が出てくるのではないか、そして実際議論しなければ始まるものも始まらないのではないかと議論の必要性をますます押し進めたところに見てとれる。
「ここで私が理性の公的使用というのは、或る人が《学者として》、一般の《読者》全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、ーーー《公民として》或る《地位》もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。ところで公共体の利害関係を旨とする多くの事業においては、その公共体を構成する人達のうちの若干に、あくまで受動的な態度を強要するような或る種の機制を必要とする。それは政府が、この人達を諸種の公的目的と人為的に一致せしめるためであり、或いは少なくともこれらの目的を顚覆させないためである。こういう場合には、論議はもとより許されていない、ただ服従あるのみである。しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員ーーーそれどころか世界市民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向って、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差し支えないのである」(カント「啓蒙とは何か・P.10~11」岩波文庫 一九五〇年)
そこでどうしても提出されなければならない身も蓋もない概念が「理性」である。ヘーゲルはいう。
「理性的なものは現実的であり、そして現実的なものは理性的である」(ヘーゲル「法の哲学・上・序言・P.34」岩波文庫 二〇二一年)
ヘーゲルは「理性」と「現実」とについて次のように補足している。とりわけ「一方において、理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものであるからであり、他方、現実は、無思想な、あるいは、思惟をきらい、思惟の点では全く駄目になった実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもない」と。
「現実性とは、本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。ーーー<補遺>人々は、普通、よく考えもしないで、現実と思想(正確に言えば、理念)とを対立させており、かくしてわれわれは人々がよく次のように言うのを聞く。すなわち、或る思想が正しく真理であることに異論はないが、しかしそうしたものは現実のうちには存在しない、あるいは、現実のうちにそれを実現することはできない、と。しかしこういう言い方をする人は、それによって、かれらが思想の本性をも現実の本性をも正しく把握していないことを証明しているのである。このような言い方においては、思想は主観的表象、計画、意図などと同じ意味に理解され、現実は外的な、感覚的な現存在と同じ意味に理解されている。カテゴリーおよびその表示を人々がそうまで厳密に考えていない日常生活においては、そうしたことも許されるであろう。例えば、或る税制計画(日常的には、此のようなものもイデーとよばれている)が、それ自身としては全くすぐれていて目的にかなっているが、いわゆる現実のうちには見出されず、また与えられた諸事情のもとでは実行できないというようなことも、もちろんおこりうるであろう。しかし抽象的な悟性が理念と現実という二つの規定をとらえて、その区別を動かすことのできない対立にまで高め、われわれはこの世界においては理念を頭から作り出さねばならないなどと言う場合には、われわれはこのような考え方を学問および健全な理性の名において決定的にしりぞけなければならない。なぜなら、一方において、理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものであるからであり、他方、現実は、無思想な、あるいは、思惟をきらい、思惟の点では全く駄目になった実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもないからである」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一四二・P.81~83」岩波文庫 一九五二年)
さらにヘーゲルから。
「主観が何で《ある》かは、《主観の一連の行為がこれを示す》。これらの行為が一連の、価値のない所産であるならば、意欲の主観性も同様に価値のない主観性である。これに反して、個人の一連の行果が実体的な本性を具えたものであるならば、その内面的な意志もまた実体的本性を具えたものなのである」(ヘーゲル「法の哲学・上・第二部・第二章・一二四・P.293~294」岩波文庫 二〇二一年)
そもそも「主観とは何か」。そしてそれが「主観」と呼び得るに値する価値を持つのは《どのような条件のもとで》か。避けて通れない「反省〔反照〕」概念について。
「《本質》は《媒介的に定立された》概念としての概念である。その諸規定は本質においては《相関的》であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ《反省》したものとして存在していない。したがって概念はまだ《向自》として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、《定立され媒介されたもの》として存在している。ーーー有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、《直接的なもの》であるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象へ《ひきさげられている》。ーーーしたがって本質は、自分自身のうちでの《反照》としての有である。
<訳者注>。Reflexion、reflektierenという言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もともと、ラテン語のReflexioは、まがりもどることを意味する。ここから、光は、反射の意味となる。自己をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、Reflexionという言葉を使う。例えば、支配者というものは、支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互の側から、このようなReflexionが行われるわけである。これがReflexionの全体的な意味である。しかし、他者へのReflexionというように、この言葉が使われるとき、それは、とりあえず関係という意味しか表面に持っていない。ヘーゲルにおいては、概念が自覚する形をも持つから、反省と訳すが、十分ではない。エンチクロペディーの初版では、ヘーゲルは、『本質の領域では、相関性が支配的な規定をなしている』と言っている。マルクスは、資本論で、相対的価値形態を述べたところの、註のうちでReflexionsbestimmungに言及し、次のように言っている。『Reflexionsbestimmungenというものは、一般に、独特なものである。例えば、特定の人間が王であるのは、ただ他の人々が臣下としてかれにたいするからである。ところが、この人々は、かれが王であるからこそ、自分たちは臣下なのだと思っている』。なお、主観的思惟にReflexionという言葉をヘーゲルが使うとき、それは、すでにこれまでの訳者註に述べたように、関係的、相関的思惟である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一一二・P.15~16」岩波文庫 一九五二年)
この箇所は「精神現象学」でも前提として語られている。二箇所引用。
(1)「生きた実体は、実際には《主観》〔体〕であるような存在である。同じことになるが、実体は、自己自身を措定する運動、自己が他者となることを自己自身と媒介するはたらきである限りでのみ、実際に現実的であるような存在である。実体は主観〔体〕としては純粋で《単一な否定性》である。であるからこそ、単一なものを二つに引きはなす、つまり対立させて二重なものとする。この二重作用が二つのものの無関心なちがいと対立をさらに否定する。真理とは、このように自己を《回復する》相等性もしくは他在において自己自身へと復帰〔反照〕することにほかならない」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.33」平凡社ライブラリー 一九九七年)
(2)「なぜなら、媒介とは自ら動いて自己自身と等しくなることにほかならないからである、言いかえれば、媒介とは自己自身に帰〔反照す〕ること、自己自身に対している自我の契機、純粋否定性であるからである。あるいは〔全くの抽象のレベルまでおとしてしまえば〕、《単一な生成》である。自我もしくは生成一般というこのような媒介のはたらきは、単一なものであるから、生成しつつある直接態であり、無媒介なものそれ自身にほかならない。それゆえ、反照するはたらきを真理から除外してしまい、それを絶対者の肯定的な契機と考えないならば、理性を見あやまることになる。反照は真理を結果とするが、また真理の生成に対するこの結果という対立を、止揚するようなものでもある」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.35~36」平凡社ライブラリー 一九九七年)
ヘーゲルはまたこうもいう。
「みずからが《自由であると主観的に規定する》ための《個々人の法》〔権利〕は、彼らが人倫的現実性に帰属することにおいて実現される。というのは、個々人のもつ、自分が自由だという《確信》は、このような客観性のなかで《その真理》をえ、そして個々人は、人倫的なものにおいて、《自分自身の》本質、自分の《内的な》普遍性を《現実的に》所有するからである」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・一五三・P.27~28」岩波文庫 二〇二一年)
自由な諸個人はいつも「主観性」と「客観性」とに分裂しがちだ。そのような諸個人を「人倫的現実性」のもとに繋ぎ止めて帰属させ、なおかつ自分で自分自身を《現実的に》所有するため必要不可欠な条件としての《労働》の重要性。
「自らの欲〔要〕求のためにする個人の《労働》は、自己自身の欲〔要〕求の満足であるように、また他人の欲〔要〕求の満足でもある。個人が自己の欲〔要〕求を満足させるのは、ただ他人の労働によるのである。ーーー個別者は、自ら《個別的に》労働するとき、すでに《意識せずに》、《一般的な》労働を果たしているように、一般的な労働をも、自らの《意識》的な対象として、果たしてもいる。全体は、《全体として》個別者の仕事となり、この仕事のために、個別者は自分を犠牲とし、まさにこの犠牲によって、全体の方から、自分自身を逆に支えられるのである。ーーーここには相互的でないようなものは何もない」(ヘーゲル「精神現象学・上・理性・理性的自己意識の自己自身による実現・P.400」平凡社ライブラリー 一九九七年)
それくらい《労働》は世界中の人々にとって、その「主観性」と「客観性」とにとって、ほかにない重要極まりない要素である。ところが日本の政治家はしばしば言う。「個人的(主観的)にはこういう意味で言ったのであって、もし他者(客観的)にとってそういう意味で取られたのなら謝罪する」と。そんな「謝罪」が通用するなら議員でなくとも誰にでもできる。むしろ議員には許されるが逆に有権者に許されていないのはなぜなのか。犯罪加害者が議員でない場合、「(主観的には)殺すつもりはまるでなかった。しかし(客観的に)そう取られたなら仕方がない」と、多くの有権者は刑務所に服役しているではないか。にもかかわらず議員は舌先三寸の「謝罪」で済まされる。法律など一体どこでどのように機能しているのかはなはだ疑わしい。しらじらしい。呆れる。
カフカに戻ろう。役人たちの奇妙な特性について監視人はいう。「罪にひきつけられておれたち監視人を派遣せずにいられなくなる」。「欲望」というテーマが出現している。ちなみにフーコーは「性的欲望の生産」について述べた。四つの形態を引用しよう。
(1)「《女の身体のヒステリー化》ーーー三重のプロセスがあり、それによって、まず女性の身体は、隅から隅まで性的欲望の充満した身体として分析され、つまり評価され貶められた。このプロセスにより、女性の身体は、それに内在する一つの病理学の影響のもとに、医学的実践の場に統合された。そして最後に、このプロセスによって、女性の身体は次の三つのものと有機的な交渉をもつに至った、すなわち、社会体〔社会集団〕と(その調整された繁殖力を保証すべきものとして)、家族の空間と(その基質的かつ機能的要素となるものとして)、子供たちの生と(女性の身体が生み出し、教育機関のあいだ続く生物学的・道徳的責任によって、その安全を保証すべきものとして)である。すなわち《母》というものが、その否定的=陰画的イメージとしての『神経質な女』と共に、このヒステリー化の最も目に見える形を構成するのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.134」新潮社 一九八六年)
(2)「《子供の性の教育化》ーーー二重の主張があり、それは、ほとんどすべての子供が性的行為にふけるか、ふける可能性をもっているということであり、そしてこの性的行為が不当であり、『自然的』であると同時に『反自然』であるから、それは己れのうちに、肉体的かつ精神的な、集団的かつ個人的な危険をはらんでいるということだ。子供は、『始まりの』性的存在として定義されており、性の手前にいると同時にすでに性の中心にいて、危険な分割点に身を置いているというわけだ。両親、家族、教育者、医師、やがて心理学者は、この貴重で危うい、危険かつ危険にさらされている性的な芽を、絶えず引き受けなければならないのだ。この教育化は、とりわけ、自慰に対する戦いの中で現われるが、この戦いは、西洋世界においては、二世紀近く続いたのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.134~135」新潮社 一九八六年)
(3)「《生殖行為の社会的管理化》ーーー経済的社会管理は、夫婦の生殖能力に対する『社会管理的』あるいは国庫財政上の措置を介してもたらされる教唆あるいは制御という側面によって進められる。政治的社会管理は、社会集団全体に対する夫婦の責任を明確にすることによって実現される(それを限定するにせよ、反対に強化するにせよである)。医学的社会管理は、産児制限の実践が個人ならびに種に対してもつとされた、病因となる効力を通じてなされる」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.135」新潮社 一九八六年)
(4)「最後に、《倒錯的快楽の精神医学への組み込み》がある。性的本能は、生物学的かつ深層心理的な自律的本能として切り離された。人々は、そのような本能を侵し得るすべての異常な形を臨床的に分析した。そのような分析に、人間行動の全体に及ぶ正常化と病理学への組み込みの役割を与えた。そして、これらの異常に対する矯正的な科学技術(テクノロジー)を探し求めたのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.135」新潮社 一九八六年)
さてここでフーコーは一旦こうまとめている。
「十九世紀を通じて高まってくる性への関心には、四つの形象が描き出されるが、それは知の特権的な対象であり、知の企てにとって標的にして戦略拠点である。すなわち、ヒステリー症の女、手淫にふける子供、マルサス主義的〔人口調整をする〕夫婦、性倒錯の大人の四つであり、それぞれの形象がこれらの戦略の一つに対する相関項であって、その戦略の一つ一つは、それぞれ固有な形で、子供と女と男の性を貫き、それを利用したのである。これらの戦術において、問題になるのは何か。性的欲望に対する闘いであろうか。それともそれを統御しようとする努力か。それをよりよく支配し、それがもつであろう露骨で、あざとく、御し難いものを隠そうとする企てか。それについて、かろうじて受け入れられ、あるいは有用であり得るような知の分け前を言葉で表わす一つのやり方だろうか。実際には、性的欲望そのものの産出なのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.135~136」新潮社 一九八六年)
この事情はカフカ「審判」で<監視への欲望>の《生産》として出現している。しかしもう一方、<管理への欲望>の《生産》もまた出現するのだ。順を追って見ていこうと思う。
BGM1
BGM2
BGM3
またなぜかはわからないが面白いことに、監視人たちはKに向かって、逮捕された以上おとなしく監視人の言う言葉に従っていればそれでいいのだといいながら、監視人たち自身はKの部屋にあるパンに勝手に蜂蜜を塗ったりコーヒーを淹れたりしている様子である。監視人に与えられた義務はKの逮捕並びに監視だということはわかりはする。けれどもKの所持品を手前勝手に取り扱ってもよいという権利はないはずなのだが。
「『どうしてぼくが逮捕されたなんてことがあるんだ?しかもこんなやり方で』。『やれやれ、またむし返すのか』と、監視人は言って、バタパンを蜂蜜(はちみつ)の壺(つぼ)にひたした、『こんな質問に答えるわけにはいかん』。『いや、いずれ答えることになるだろうよ』と、Kは言った、『ここにぼくの身分証明書がある、さあこんどはあんた方のを見せてもらおうか、とくに逮捕令状を』。『なんてこった!』、と監視人は言った、『これほどまでに往生ぎわが悪いとは。どうやらおれたちをいたずらに怒らせたくて仕方がないらしいな、いまやあんたのご立派なお仲間のうちで一番あんたの身近にいるおれたちを!』。『そうだ、こいつの言うとおりだ』、とフランツは言って、手にしたコーヒー茶碗(ぢゃわん)をすぐには口に運ばず、Kを、どうやら意味深長らしい、しかしわけのわからぬ目付きで、ながいこと見つめていた。Kはその気もないのにフランツと視線の対話をするはめにまきこまれてしまったが、それからやはり書類を叩いて言った、『ここにぼくの身分証明書がある』」(カフカ「審判・逮捕・P.17~18」新潮文庫 一九九二年)
Kは自分の身分証明書を提示する。そうすれば監視人たちも逮捕令状を提示しなければならなくなるのが道理だからだ。ニーチェはいう。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)
その限りでKの行動は極めて正しい。ところがKが提示した正当的手続きにもかかわらず監視人は次のように述べてKの立場を崩壊させてしまう。
「『それがどうしたっていうんだ?』と大きいほうの監視人はいまやどなりだす有様だった、『あんたはまったく子供より始末が悪いぞ。いったいどうしてもらいたいんだ?おれたちはただの監視人だ、そのおれたちと身分証明書だの逮捕状だのと議論をして、この厄介(やっかい)な大訴訟に少しでも早く決着をつけようというのかね?おれたちは下(した)っ端(ぱ)の傭(やと)い人だ、身分証明書のことなぞ見たってわかりはしない、おれたちは毎日十時間あんたを見張って、その分の手当てを貰いさえすれば、それ以外あんたの事件とはなんの関(かかわ)りもないんだ。それが全部だ。全部だがしかしそのおれたちでさえ、おれたちの仕えるお役所がこんな逮捕を行う以上は、事前に逮捕の理由とか逮捕される者の身許(みもと)とか、くわしく調査してあることぐらい見抜く力はある。その点に間違いなぞあるわけがないのだ。おれたちの役所は、おれの知るかぎり、といってむろん一番下の階級しか知らないが、住民の中に罪を捜したりはしない、そうじゃなくて、法律にもあるとおり、いわば罪にひきつけられておれたち監視人を派遣せずにいられなくなるんだ。そのどこに誤りがあるというんだ?』。『そんな法律なぞ、ぼくは知らないね』、とKは言った。『知らなければなおさらよくない』、と監視人は言った。『そいつはさぞかしあんた方の頭のなかにだけある法律なんだろうな』、とKは言った。彼はなんとかして監視人たちの考えのなかにしのびこみ、それを自分の有利にしむけるか、あるいはそれに同化しようとした。しかし監視人は突き放すようにこう言っただけだ。『いずれ身をもって思い知らされるさ』。フランツも口をはさんで、『見ろよ、ヴィレム、この男は法律を知らないと認めておきながら、そのくせ自分は無罪だと言い張ってるぜ』」(カフカ「審判・逮捕・P.18~19」新潮文庫 一九九二年)
監視人たちはいう。「おれたちは下(した)っ端(ぱ)の傭(やと)い人だ、身分証明書のことなぞ見たってわかりはしない、おれたちは毎日十時間あんたを見張って、その分の手当てを貰いさえすれば、それ以外あんたの事件とはなんの関(かかわ)りもないんだ。それが全部だ」。けれども監視人たちがそう言えるのは次の事情が正当性を有している限りでしかない。「役人・監視人・K」との<あいだ>を「逮捕」という形式で繋ぐことのできるいかなる因果関係も始めから存在しないという事情である。さらにニーチェから。
「ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの《圧服》であり、《支配》である。そしてあらゆる圧服や支配は、さらに一つの新解釈であり、一つの修整であって、そこではこれまでの『意識』や『目的』は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。ある生理的器官(乃至はまたある法律制度、ある社会的風習、ある政治的慣習、ある芸術上の形式または宗教的儀礼の形式)のもつ《功用》をいかによく理解していても、それはいまだその発生に関する理解をもっていることにはならない。こう言えば、旧套に馴れた人々の耳には随分と聞きづらく不快に響くかもしれない、ーーーというのは、古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見る《ために》作られ、手は摑む《ために》作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰する《ために》発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有する者を支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの《標証》にすぎない。従ってある『事物』、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し交替するだけである。してみれば、ある事物、ある慣習、ある器官の『発展』とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力と負担とで達せられる《進歩》ではなお更ない。ーーーむしろ、事物乃至は器官の上に起こる多少とも深行的な、多少とも相互に独立的な圧服過程の連続であり、同時にこの圧服に対してその度ごとに試みられる反抗であり、弁護と反動を目的とする思考的な形式変化であり、更に旨く行った反対活動の成果でもある。形式も固定したものでないが、『意味』はなお一層固定したものでない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十二・P.88~90」岩波文庫 一九四〇年)
というふうにそもそも因果関係はばらばらだ。ゆえにどのような因果関係をも接続したり切断したり別のものと再接続したり、何度でも繰り返し運用することができる。カントはこの事情をヒュームから知った。
「ヒュームは、形而上学だけにある唯一の、しかしこの学にとって重要な概念ーーーすなわち《原因と結果との必然的連結》という概念(従ってまたそれから生じる力及び作用の概念等)を、彼の考察の主たる出発点とした。そして彼は、この〔因果的連結の〕概念を自分自身のうちから産出したと称する理性に対して弁明を要求した、つまり理性は、何か或るもの〔原因〕が設定されるとそれによってまた何か他の或るもの〔結果〕が必然的に設定されると言うが、しかし理性はいかなる権利をもって、最初の何か或るものがこのような性質をもち得ると思いなすのか、と問うのである、なぜならーーーこれがすなわち原因の概念だからである。ヒュームの証明はこうである、ーーー概念だけからアプリオリにかかる〔因果的〕結合を考え出すことは、理性にはまったく不可能である、この結合は必然性を含むからである、とにかく何か或るものが存在するからといって、何か他の或るものまでが存在せねばならぬという理由や、それだからまたかかる必然的連結の概念がアプリオリに導入せられるという理由は、まったく理解できないことである。ヒュームのこの証明は、反論の余地のないものであった。ついでヒュームは、このことから次のように推論した、ーーー理性は、〔必然的連結という〕この概念をもって、みずから欺いているのだ、かかる概念は想像力の産んだ私生児にすぎないのに、理性はこれを誤って摘出子と認めているのである、或る種の表象の連想の法則を適用し、そこから生じる主観的必然性すなわち習慣を、〔アプリオリな〕洞察にもとづく客観的必然性とすり換えたのである、と。更にまたヒュームは、こうも推論したのである、ーーー理性は、このような必然的連結を、一般的にすら考える能力をまったく持合わせていないのである、そうだとしたら、かかる事柄に関する理性の概念なるものは、単なる仮構にすぎないであろう。そして理性がアプリオリに存立する認識と称するものは、けっきょく偽印(にせいん)を捺(お)した普通の経験でしかないだろう、と。彼のこの推論はーーーおよそ形而上学なるものは存在しない、またいかなる形而上学も存在し得るものではない、と言うに等しい」(カント「プロレゴメナ・P.14~15」岩波文庫 一九七七年)
だからといってもう議論など何一つ必要ないのか。そうではない。カントがわざわざヒュームを持ち出した理由は、事情がヒュームのいう通りであるならかえって逆に議論する必要性が出てくるのではないか、そして実際議論しなければ始まるものも始まらないのではないかと議論の必要性をますます押し進めたところに見てとれる。
「ここで私が理性の公的使用というのは、或る人が《学者として》、一般の《読者》全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、ーーー《公民として》或る《地位》もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。ところで公共体の利害関係を旨とする多くの事業においては、その公共体を構成する人達のうちの若干に、あくまで受動的な態度を強要するような或る種の機制を必要とする。それは政府が、この人達を諸種の公的目的と人為的に一致せしめるためであり、或いは少なくともこれらの目的を顚覆させないためである。こういう場合には、論議はもとより許されていない、ただ服従あるのみである。しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員ーーーそれどころか世界市民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向って、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差し支えないのである」(カント「啓蒙とは何か・P.10~11」岩波文庫 一九五〇年)
そこでどうしても提出されなければならない身も蓋もない概念が「理性」である。ヘーゲルはいう。
「理性的なものは現実的であり、そして現実的なものは理性的である」(ヘーゲル「法の哲学・上・序言・P.34」岩波文庫 二〇二一年)
ヘーゲルは「理性」と「現実」とについて次のように補足している。とりわけ「一方において、理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものであるからであり、他方、現実は、無思想な、あるいは、思惟をきらい、思惟の点では全く駄目になった実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもない」と。
「現実性とは、本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。ーーー<補遺>人々は、普通、よく考えもしないで、現実と思想(正確に言えば、理念)とを対立させており、かくしてわれわれは人々がよく次のように言うのを聞く。すなわち、或る思想が正しく真理であることに異論はないが、しかしそうしたものは現実のうちには存在しない、あるいは、現実のうちにそれを実現することはできない、と。しかしこういう言い方をする人は、それによって、かれらが思想の本性をも現実の本性をも正しく把握していないことを証明しているのである。このような言い方においては、思想は主観的表象、計画、意図などと同じ意味に理解され、現実は外的な、感覚的な現存在と同じ意味に理解されている。カテゴリーおよびその表示を人々がそうまで厳密に考えていない日常生活においては、そうしたことも許されるであろう。例えば、或る税制計画(日常的には、此のようなものもイデーとよばれている)が、それ自身としては全くすぐれていて目的にかなっているが、いわゆる現実のうちには見出されず、また与えられた諸事情のもとでは実行できないというようなことも、もちろんおこりうるであろう。しかし抽象的な悟性が理念と現実という二つの規定をとらえて、その区別を動かすことのできない対立にまで高め、われわれはこの世界においては理念を頭から作り出さねばならないなどと言う場合には、われわれはこのような考え方を学問および健全な理性の名において決定的にしりぞけなければならない。なぜなら、一方において、理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものであるからであり、他方、現実は、無思想な、あるいは、思惟をきらい、思惟の点では全く駄目になった実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもないからである」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一四二・P.81~83」岩波文庫 一九五二年)
さらにヘーゲルから。
「主観が何で《ある》かは、《主観の一連の行為がこれを示す》。これらの行為が一連の、価値のない所産であるならば、意欲の主観性も同様に価値のない主観性である。これに反して、個人の一連の行果が実体的な本性を具えたものであるならば、その内面的な意志もまた実体的本性を具えたものなのである」(ヘーゲル「法の哲学・上・第二部・第二章・一二四・P.293~294」岩波文庫 二〇二一年)
そもそも「主観とは何か」。そしてそれが「主観」と呼び得るに値する価値を持つのは《どのような条件のもとで》か。避けて通れない「反省〔反照〕」概念について。
「《本質》は《媒介的に定立された》概念としての概念である。その諸規定は本質においては《相関的》であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ《反省》したものとして存在していない。したがって概念はまだ《向自》として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、《定立され媒介されたもの》として存在している。ーーー有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、《直接的なもの》であるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象へ《ひきさげられている》。ーーーしたがって本質は、自分自身のうちでの《反照》としての有である。
<訳者注>。Reflexion、reflektierenという言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もともと、ラテン語のReflexioは、まがりもどることを意味する。ここから、光は、反射の意味となる。自己をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、Reflexionという言葉を使う。例えば、支配者というものは、支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互の側から、このようなReflexionが行われるわけである。これがReflexionの全体的な意味である。しかし、他者へのReflexionというように、この言葉が使われるとき、それは、とりあえず関係という意味しか表面に持っていない。ヘーゲルにおいては、概念が自覚する形をも持つから、反省と訳すが、十分ではない。エンチクロペディーの初版では、ヘーゲルは、『本質の領域では、相関性が支配的な規定をなしている』と言っている。マルクスは、資本論で、相対的価値形態を述べたところの、註のうちでReflexionsbestimmungに言及し、次のように言っている。『Reflexionsbestimmungenというものは、一般に、独特なものである。例えば、特定の人間が王であるのは、ただ他の人々が臣下としてかれにたいするからである。ところが、この人々は、かれが王であるからこそ、自分たちは臣下なのだと思っている』。なお、主観的思惟にReflexionという言葉をヘーゲルが使うとき、それは、すでにこれまでの訳者註に述べたように、関係的、相関的思惟である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一一二・P.15~16」岩波文庫 一九五二年)
この箇所は「精神現象学」でも前提として語られている。二箇所引用。
(1)「生きた実体は、実際には《主観》〔体〕であるような存在である。同じことになるが、実体は、自己自身を措定する運動、自己が他者となることを自己自身と媒介するはたらきである限りでのみ、実際に現実的であるような存在である。実体は主観〔体〕としては純粋で《単一な否定性》である。であるからこそ、単一なものを二つに引きはなす、つまり対立させて二重なものとする。この二重作用が二つのものの無関心なちがいと対立をさらに否定する。真理とは、このように自己を《回復する》相等性もしくは他在において自己自身へと復帰〔反照〕することにほかならない」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.33」平凡社ライブラリー 一九九七年)
(2)「なぜなら、媒介とは自ら動いて自己自身と等しくなることにほかならないからである、言いかえれば、媒介とは自己自身に帰〔反照す〕ること、自己自身に対している自我の契機、純粋否定性であるからである。あるいは〔全くの抽象のレベルまでおとしてしまえば〕、《単一な生成》である。自我もしくは生成一般というこのような媒介のはたらきは、単一なものであるから、生成しつつある直接態であり、無媒介なものそれ自身にほかならない。それゆえ、反照するはたらきを真理から除外してしまい、それを絶対者の肯定的な契機と考えないならば、理性を見あやまることになる。反照は真理を結果とするが、また真理の生成に対するこの結果という対立を、止揚するようなものでもある」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.35~36」平凡社ライブラリー 一九九七年)
ヘーゲルはまたこうもいう。
「みずからが《自由であると主観的に規定する》ための《個々人の法》〔権利〕は、彼らが人倫的現実性に帰属することにおいて実現される。というのは、個々人のもつ、自分が自由だという《確信》は、このような客観性のなかで《その真理》をえ、そして個々人は、人倫的なものにおいて、《自分自身の》本質、自分の《内的な》普遍性を《現実的に》所有するからである」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・一五三・P.27~28」岩波文庫 二〇二一年)
自由な諸個人はいつも「主観性」と「客観性」とに分裂しがちだ。そのような諸個人を「人倫的現実性」のもとに繋ぎ止めて帰属させ、なおかつ自分で自分自身を《現実的に》所有するため必要不可欠な条件としての《労働》の重要性。
「自らの欲〔要〕求のためにする個人の《労働》は、自己自身の欲〔要〕求の満足であるように、また他人の欲〔要〕求の満足でもある。個人が自己の欲〔要〕求を満足させるのは、ただ他人の労働によるのである。ーーー個別者は、自ら《個別的に》労働するとき、すでに《意識せずに》、《一般的な》労働を果たしているように、一般的な労働をも、自らの《意識》的な対象として、果たしてもいる。全体は、《全体として》個別者の仕事となり、この仕事のために、個別者は自分を犠牲とし、まさにこの犠牲によって、全体の方から、自分自身を逆に支えられるのである。ーーーここには相互的でないようなものは何もない」(ヘーゲル「精神現象学・上・理性・理性的自己意識の自己自身による実現・P.400」平凡社ライブラリー 一九九七年)
それくらい《労働》は世界中の人々にとって、その「主観性」と「客観性」とにとって、ほかにない重要極まりない要素である。ところが日本の政治家はしばしば言う。「個人的(主観的)にはこういう意味で言ったのであって、もし他者(客観的)にとってそういう意味で取られたのなら謝罪する」と。そんな「謝罪」が通用するなら議員でなくとも誰にでもできる。むしろ議員には許されるが逆に有権者に許されていないのはなぜなのか。犯罪加害者が議員でない場合、「(主観的には)殺すつもりはまるでなかった。しかし(客観的に)そう取られたなら仕方がない」と、多くの有権者は刑務所に服役しているではないか。にもかかわらず議員は舌先三寸の「謝罪」で済まされる。法律など一体どこでどのように機能しているのかはなはだ疑わしい。しらじらしい。呆れる。
カフカに戻ろう。役人たちの奇妙な特性について監視人はいう。「罪にひきつけられておれたち監視人を派遣せずにいられなくなる」。「欲望」というテーマが出現している。ちなみにフーコーは「性的欲望の生産」について述べた。四つの形態を引用しよう。
(1)「《女の身体のヒステリー化》ーーー三重のプロセスがあり、それによって、まず女性の身体は、隅から隅まで性的欲望の充満した身体として分析され、つまり評価され貶められた。このプロセスにより、女性の身体は、それに内在する一つの病理学の影響のもとに、医学的実践の場に統合された。そして最後に、このプロセスによって、女性の身体は次の三つのものと有機的な交渉をもつに至った、すなわち、社会体〔社会集団〕と(その調整された繁殖力を保証すべきものとして)、家族の空間と(その基質的かつ機能的要素となるものとして)、子供たちの生と(女性の身体が生み出し、教育機関のあいだ続く生物学的・道徳的責任によって、その安全を保証すべきものとして)である。すなわち《母》というものが、その否定的=陰画的イメージとしての『神経質な女』と共に、このヒステリー化の最も目に見える形を構成するのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.134」新潮社 一九八六年)
(2)「《子供の性の教育化》ーーー二重の主張があり、それは、ほとんどすべての子供が性的行為にふけるか、ふける可能性をもっているということであり、そしてこの性的行為が不当であり、『自然的』であると同時に『反自然』であるから、それは己れのうちに、肉体的かつ精神的な、集団的かつ個人的な危険をはらんでいるということだ。子供は、『始まりの』性的存在として定義されており、性の手前にいると同時にすでに性の中心にいて、危険な分割点に身を置いているというわけだ。両親、家族、教育者、医師、やがて心理学者は、この貴重で危うい、危険かつ危険にさらされている性的な芽を、絶えず引き受けなければならないのだ。この教育化は、とりわけ、自慰に対する戦いの中で現われるが、この戦いは、西洋世界においては、二世紀近く続いたのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.134~135」新潮社 一九八六年)
(3)「《生殖行為の社会的管理化》ーーー経済的社会管理は、夫婦の生殖能力に対する『社会管理的』あるいは国庫財政上の措置を介してもたらされる教唆あるいは制御という側面によって進められる。政治的社会管理は、社会集団全体に対する夫婦の責任を明確にすることによって実現される(それを限定するにせよ、反対に強化するにせよである)。医学的社会管理は、産児制限の実践が個人ならびに種に対してもつとされた、病因となる効力を通じてなされる」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.135」新潮社 一九八六年)
(4)「最後に、《倒錯的快楽の精神医学への組み込み》がある。性的本能は、生物学的かつ深層心理的な自律的本能として切り離された。人々は、そのような本能を侵し得るすべての異常な形を臨床的に分析した。そのような分析に、人間行動の全体に及ぶ正常化と病理学への組み込みの役割を与えた。そして、これらの異常に対する矯正的な科学技術(テクノロジー)を探し求めたのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.135」新潮社 一九八六年)
さてここでフーコーは一旦こうまとめている。
「十九世紀を通じて高まってくる性への関心には、四つの形象が描き出されるが、それは知の特権的な対象であり、知の企てにとって標的にして戦略拠点である。すなわち、ヒステリー症の女、手淫にふける子供、マルサス主義的〔人口調整をする〕夫婦、性倒錯の大人の四つであり、それぞれの形象がこれらの戦略の一つに対する相関項であって、その戦略の一つ一つは、それぞれ固有な形で、子供と女と男の性を貫き、それを利用したのである。これらの戦術において、問題になるのは何か。性的欲望に対する闘いであろうか。それともそれを統御しようとする努力か。それをよりよく支配し、それがもつであろう露骨で、あざとく、御し難いものを隠そうとする企てか。それについて、かろうじて受け入れられ、あるいは有用であり得るような知の分け前を言葉で表わす一つのやり方だろうか。実際には、性的欲望そのものの産出なのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.135~136」新潮社 一九八六年)
この事情はカフカ「審判」で<監視への欲望>の《生産》として出現している。しかしもう一方、<管理への欲望>の《生産》もまた出現するのだ。順を追って見ていこうと思う。
BGM1
BGM2
BGM3
